「蓉子ねえさんがあきにいを先週の木曜日の夜池袋で見かけたって。なんで平日の夜に池袋なんか行ってる笑笑 ねえさんあきにいに話があるみたいなんだけど、会う気ある?」
おつかれさま、というキャラクターのスタンプの後にそんなメッセージが続いていた。昼休みに気づいた、妹からのLINEである。
「何の話?」
メッセージの着信が3分前なのを見て、暁斗はすぐに返信した。いろいろな意味でどきりとするメッセージだった。
「聞いてない。」
晴夏からの返事は素っ気無かった。
「フツー私に言わないっしょ」
最後に苦笑の絵文字がついていた。もっともである。
暁斗には2人のきょうだいがいる。2つ年下の弟星斗と、5つ年下の妹晴夏だ。晴夏は大学卒業後、ずっと接客畑で働いていて、結婚する気はあるようだが、まだその気になれる相手に巡り会っていない。暁斗の別れた妻に懐いていたので、彼女はこの5年間、たまに蓉子とやり取りをしている。暁斗は蓉子の連絡先を全て消去してしまっていた。晴夏は間に立ってくれるつもりのようだが、一体何の話なのか。
山中穂積には、奏人と会った翌日の朝に謝罪のメールを送った。山中は暁斗を驚かせたことを、逆に謝ってきた。夜のアルバイトはともかく、同じ種類の人間として、かなと君の性的指向は受け入れてやって欲しいとあった。優しい人だと言った奏人の言葉も、的外れではないのかも知れなかった。
思えば山中は、暁斗が就職活動でこの会社を訪れた頃からずっと暁斗に好意的だった。学生時代から成績優秀で、出世も早く、母校の広報で紹介されたこともある自慢の先輩。性的少数者であることをカムアウトしたのは、暁斗が結婚生活を終わらせようと決めた頃で、自分も周囲の好奇の視線に苦しんでいた筈なのに、一度飲みに連れて行ってくれた。彼が贔屓にしているスタッフ「たかふみ」は、プロフィールによると現役の大学生だった。奏人がかつてそうだったように、苦学生なのかも知れない。半分は支援のつもりで指名しているとも考えられた。
何故彼に反感を覚えるのか、暁斗は理解している。ちゃらちゃらした言動は一種のパフォーマンスで、彼はカムアウトできない同種の人たちのために、彼なりに道筋をつけようとしているのだ。その強さや行動力、そしてこの会社で何となく性的少数者への偏見を薄れさせている訴求力が、何処か妬ましいからだ。
次は蓉子か、と暁斗はエレベーターの中で小さくため息をついた。先週ということは、奏人との喫茶店でのアフターの時間か、その帰りか。パトロヌス制度のサービスとしての30分、暁斗は奏人と小腹が減ったと言って、バタートーストを半分ずつ食べながら、いろいろな話をした。奏人のことしか見ていなかったので、もしあの広い店に蓉子がいたとしても、全く気づかなかっただろう。愛を交わし合った後のことだけに、やけに親密に見えたかも知れない。そう考えると、ぽかぽかした陽気にもかかわらず、冷や汗を禁じ得ない。暁斗はビルの前に弁当を売りにくるワゴンに向かい、和風のおかずの入ったものを選んで、財布を手に晴れた空を見上げる。
奏人は、東京は気温でしか季節の変化がわからないと言った。今年も知らない間に桜が終わっていて、がっかりだとも言った。暁斗も会社が大規模なお花見をしなくなったので、今年は桜をほとんど見ていない。来年は奏人と、弁当を持って花見に行こう。暁斗はまた妄想を始める。
給湯室で茶を淹れて、デスクで弁当を開ける。早急に目を通さなければならないデータがいくつかあり、不本意だったが箸を動かしながらパソコンの画面を見る――暁斗はながら仕事は好きでなかった。特に昼休みは、食べることに集中したかった。
「今週いつでもいいって」
晴夏からまたメッセージが届いた。蓉子も昼休みなのか。何となく可笑しくなる。
「じゃ明日か明後日、場所は任せる」
暁斗は短く返す。社員食堂から戻ってきた花谷が、驚いたように暁斗を見ていた。
「どうかした?」
「いえ、弁当食べながらパソコンとスマホと両方触ってる課長とか珍しいんで」
「俺も嫌なんだけど仕方ない、妹がLINEしてきて」
「えっ、ご実家で何かあったんですか?」
いや、と暁斗は言いながらマウスから手を離し、ブルッと音を立てたスマートフォンをスワイプした。
「……別れた嫁が話があるって妹を通して言ってきたんだ、何の用だと思う?」
へぇ、と花谷は目を見開いた。
「別れて何年になるんでしたっけ?」
「5年」
「あ、もしかしたら……再婚なさるとか……」
彼の言葉に暁斗はなるほど、と呟いた。
「でもそれって元夫に報告するものなのか?」
「妹さん繋がってらっしゃるんでしょう? だからかも、妹さんが知ってて課長が聞いてないとか微妙じゃないですかね?」
そんなものだろうか。暁斗は蓉子の人生に干渉する気も無いし、無論そんな権利も無い。全く興味が無い、とは言わないが。
「うん、納得いかないぞ」
「再婚の報告でなければ復縁のお願いとか」
え、と暁斗はその言葉に密かに固まった。再婚という言葉より余程気持ちが乱された。だって暁斗は、もう女性とはパートナーになれないのだから。花谷は、暁斗の小さな戸惑いを見逃さなかったが、その理由を完全に見誤った。
「復縁はアリですか、課長」
暁斗はご飯を口に入れ、ゆっくり噛んで飲み下してから、無しだ、と答えた。花谷はきょとんとした。
「明日19時、品プリ1階の喫茶店」
スマートフォンの画面には、そのメッセージのあとに、よろしく! という文字がでかでかと踊っていた。奏人のスタンプ使いのほうが余程可愛らしいと暁斗は苦笑した。
蓉子と落ち合ったのは、正確には品川の巨大なホテルの1階ではなく、ホテルの前に広がるショッピングゾーンの1階だった。ホテルに向かうべく早足になっていた暁斗の腕を掴み、強い力で引き止めた女は、髪が短くなったこと以外は、最後に離婚届を出すために、2人で区役所へ向かった時とほぼ変わらない容姿をしていた。
「ごめんなさい、こっちのつもりだった」
蓉子は笑いながらカフェを指差した。暁斗は言葉が見つからない。蓉子が友好的なので、逆に戸惑う。今更敵意を向けられるいわれも無いのだが。カフェには外国人観光客も多く、混んでいた。
「いいよ、俺出すから席見つけて」
注文カウンターに並びながら、暁斗はかつてのように蓉子に言う。
「ありがと、私ソイラテお願い」
蓉子は席を探しながら店の奥に向かう。その後ろ姿は、暁斗の記憶していた通り、背筋がしゃんと伸びて美しかった。
暁斗は蓉子が好きだったこの店のクッキーを2つ取り、自分もソイラテ――それは奏人の好きな飲み物でもある――を注文する。
「ほんと久しぶりね、ちょっと痩せた?」
蓉子の言葉に、少し、と応じる。会社の健康診断では、離婚前とさほど体重は変わっていないが、頰が削げたかも知れない。
「あ……これ」
蓉子はクッキーを見て、思わずというような声を上げた。
「腹減ってるかと思って、好きだよね?」
「さすが優秀な営業課長さんは人の好みを良く覚えていらっしゃる」
「何それ、持ち上げてる?」
暁斗はクッキーの袋を裂いた。
「少なくとも嫌味ではないわ」
蓉子もクッキーを取り上げる。先に袋の中でそれを4つに割るのも、変わらなかった。
「先週池袋であなたを見かけたの」
「晴夏から聞いた、それを言うためにわざわざ?」
「そうよ」
暁斗は冗談のつもりで訊いたことに真顔で応じられて、カップを持つ手を止めた。
「一緒にいた男の人が誰なのか気になったの」
蓉子はクッキーを口に入れた。暁斗はこういう時に口をもぐもぐさせる蓉子を見ると、ハムスターやリスなどの小動物を連想して、可愛いなといつも思った。今もやはりそう感じる。華やかな笑顔とギャップがあるのだ。
「誰か聞いていい?」
「え、ああ……取引先の担当者だけど」
「どんな会社の人なの?」
暁斗は何故蓉子が、普段あっさりしていた彼女らしくなく、奏人のことをやけに尋ねるのかが分からなかった。警戒しながら答える。
「コンピュータ会社のSEだよ、今企画課が産学連携のプロジェクトを抱えてるんだ、彼の会社がWebページを頼むとこの候補のひとつで」
山中の課がとある女子大と連携プロジェクトを進行させているのは事実だが、よくもこんな嘘がすらすらと出るものだと、暁斗は自分に呆れる。
「あんな時間に打ち合わせ? 池袋の会社なの?」
「きみはどうして池袋に?」
蓉子の住まいは目黒の筈だった。質問返しで時間を稼ぐ。21時前に喫茶店で打ち合わせをするのは不自然だとは言えないが、普通は酒が出る場所に移動するかも知れない。
「私4月から池袋の店になったの、あの日たまたま友達が池袋に来てくれるって言うから待ち合わせていて」
「ふうん、それこそあんな時間から?」
店内にいたのか。暁斗は嫌な予感がしたが、暁斗の問いを無視する形の蓉子の次の台詞は、彼を慌てさせるには十分だった。
「何だかやけに親しそうだったから……恋人どうしみたいに見えたんだもの」
「……確かにあの人と気は合うかも、あの時も関係ない話で盛り上がってたから」
蓉子は困ったような顔になり、僅かに首を傾けた。
「暁斗さん相変わらず嘘が下手よね、じゃあ訊くけど、あなたいつも気が合うからって、取引先の担当者の手を取って……あんなに見つめ合って打ち合わせするの?」
蓉子にとどめを刺された暁斗は、左手で顔を覆った。確かにそんなことを、した。あの時奏人は、西澤の友人の弁護士から呼び出されていて、暁斗に不安を訴えたのである。大丈夫だから行けばいいと、奏人の左手に自分の右手を重ねた。ほんの一瞬だった筈だ。ということは、蓉子は自分たちを観察していたのだ、「普通」でない雰囲気が気になって。蓉子は勘の良い女だった。大ゲンカになるようなことでなくても、暁斗があまり知られたくないなと思ったことを、かなりの確率で暴かれたものだった。
「……だからだったのね」
蓉子はため息混じりに言った。
「だから暁斗さんは私を愛してくれなかったんだ、どうして黙ってたの?」
暁斗は返事に困り、言葉を探す。もうこれ以上嘘はつけない。蓉子は顔を上げた暁斗と目が合うと、すぐに下を向いた。悲しそうに見えた。
「……自分でもほんの最近まで確信が無かったんだ」
「暁斗さん学生時代から女子に興味無い感じだったでしょう? 岡田先生はたまに桂山はゲイかもなって冗談で言ってたわ」
「マジかよ、岡田のやつ……」
岡田とは暁斗と蓉子のゼミの担当教官である。暁斗はつい学生のような口調で呟いた。
「でも暁斗さんは私のことが好きだったって今でも思うわ、その……男も女も両方ってことなの?」
暁斗はいや、と小さく、しかしはっきり答えた。蓉子はますます悲しげな表情になる。
「じゃあ私を騙してたんじゃない」
「違う、きみのことは本当に好きだった、俺にとって他の女の子とは絶対に違った……何なら今もその気持ちは変わってない」
「やめてよ、何よそれ、慰めてるつもりなの? 言い訳なの?」
暁斗は蓉子の小さく鋭い言葉に、心臓が絞られるような気がした。正直に答えることが、逆に相手を傷つけるという残酷な事実。ひとつ息をつく。
「言い訳になるんだろうな、確かにその……あの人高崎さんっていうんだけど、彼に対して感じる『好き』ときみにずっと感じていた『好き』は……種類が違うと思う」
「要するに性欲を感じるか感じないかってことよね」
蓉子はストレートに表現した。それが全てではない。しかし暁斗には、的確な言葉が見つからない。
「おおざっぱに言えばそういうことになるかも」
「たかさきさんって言った? 何というか、きれいな人だったわよね、寝てるんだ」
「……そういう言いかたはやめてくれ」
暁斗はこの場から逃げ出したくなった。蓉子との関係においては、負うべき責めは自分にしかない。わかっていても、奏人とのことをそんな口調で言い捨てられると、蓉子がひどく憎たらしく思えた。
「ごめんなさい、こんなこと言いたくて呼び出したんじゃなかったのに」
蓉子は顔を伏せて小声で言った。そんな様子を見ると、彼女への怒りが萎んだ。
「……俺が悪いんだ、まさか自分がと思ってきちんと考えようとしなかった……きみのことも含めて」
暁斗はありのままを蓉子に伝えるべく、言葉を選びながら話した。蓉子はずっと自分にはもったいないくらいの自慢の妻であり続けたこと、セックス以外のことでの不満などほとんど無く、交際期間を含めてずっと楽しかったこと、手を繋いだりするのは好きなのに、どうして積極的にそれ以上の関係を持つ気になれないのかわからず悩んだこと。
「そのうちどうしてそんなにしたがるんだと……夜が来るのが怖いくらいになった」
暁斗は呟いた。蓉子は悲しげに微笑を浮かべた。
「……私はして欲しかったのよ、あなたが私を抱きしめてくれるのがほんとに好きだったから……それ以上のことを、もっと」
暁斗は蓉子がこのまま涙をこぼすのではないかと思ったが、旅行会社で長らく勤務して、今や店長を任されるようになった強さと気持ちの切り替えの早さを見せた。
「よくわかった、すっきりした……正直に言ってくれると思ってたわ」
「……俺は暴かれたようにしか思えないんだけど」
ごめんね、と蓉子は苦笑した。
「実はね、今うちの会社でも性的少数者に対する配慮とかすごく重視していて」
「お客さんへのサービス面で?」
「社員にもよ、両方……まさか自分の別れた旦那が当事者とは思わなかったけど……そういうものなのね、隣に当事者がいるかも知れないのにわからない……」
暁斗は蓉子ほどにはすっきりしていなかった。蓉子に詫びることができたのは良かったが、自分が同性愛者だと伝えられないことで、時に周りをも不幸にすることがあると思い知らされた。
蓉子は暁斗とLINEのIDを交換したがった。暁斗はスマートフォンを取り出し、自分のQRコードを表示させながら、訊いた。
「きみは今付き合ってる人はいないの?」
蓉子はいるわよ、とあっさり答えた。
「ことによっては再婚もあるかも」
「そうなんだ、何か安心した」
暁斗は心から笑ったが、蓉子は真面目な顔になった。
「そのあけすけな肩の荷が下りた感がムカつくんだけど」
暁斗は驚いて笑いを引っ込める。すると蓉子は笑顔になった。暁斗が好きな、芙蓉が花開くような華やかな表情。
「馬鹿ね、相変わらずからかい甲斐があること……たかさきさん若そうだけど、おもちゃにされてるんじゃないの?」
否定できない、と暁斗は呟いた。蓉子がくすくす笑い声を立てた。
「あなたが女を愛せないってわからないまま私と結婚して、別れて……自分を責めてきたのは想像できるの、仕方ないことなのね、本当に」
蓉子はちょっと視線を上に向けた。何を見るという訳でもなく。
「神さまを恨むわ、そこさえ上手くいってたら……ずっと夢見てたみたいに……仕事をバリバリ続けて、優しくて仕事ができる旦那さまとの間に2人か3人子どもを持って、その子たちの巣立ちを見届けて定年を迎えたら……また旦那さまと旅行に行って……」
蓉子の描いた夢は暁斗のせいで叶わなかった。暁斗には返す言葉が無い。
「もう私に謝らないでよ、私はまだ夢を見ることができるから……でもあなたがあの人と一緒に歩んでいくとしたら」
蓉子は言葉を切った。言いたいことは暁斗にも分かっていた。
「……影ながら応援するわね」
「……ありがとう」
暁斗は目の前に座る、一度はパートナーとして時を過ごした女性に、深々と頭を下げた。暁斗は間違っていなかった。蓉子は暁斗がこれまで巡り会った中で、最高に素晴らしい女性だった。でも彼女に再婚を考えている男性がいると聞いても、いわゆる嫉妬のような感情は、可笑しくなるくらい一切湧かないのだった。
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