奏人は自分が何故、歳の離れた男性にばかり惹かれるのかを理解しているつもりである。大好きだった、そして憎かった父を無意識に探しているからだ。暁斗はこれまで惹かれた相手の中で、若い頃の――自分が一番可愛がられていた頃の父を最も彷彿とさせる容姿をしている。浴室の扉を開けて、背筋をぴんと伸ばして座り自分を待つ暁斗を見ると、改めて背格好が父みたいだなと感じてしまう。
地元の中学で理科を教えていた父は、暁斗とは正反対で嫌な奴だったと奏人は結論づけている。生徒には慕われている様子だったが、家では祖母の望む振る舞いをすることに心を砕き、音楽の教師で、将来を期待されたヴァイオリニストだった母を家に縛りつけて自由を奪った。そして自分と弟が中学生になったくらいから、やたらに父親の威厳を振りかざそうとした。息子たちに立派な大人になることを望み、長男には家長としての心構えまで仕込もうとしたが、蓋を開けてみれば長男は男を好む、次男は根気の無い、父の言葉を借りるならば出来損ないどもに育った。
「原部長が暁斗さんを本気でヘッドハントしたがってるんだけど……」
奏人はスポンジを泡立て、暁斗の背中に優しく当てる。
「同性カップルに結婚……とは呼ばないけどそういうお祝いを出すとかは凄いね」
暁斗は奏人を振り返りながら言う。
「でも今キャリアチェンジは難しいかなぁ」
「転職するなら40までだよ」
「俺割と自分の会社愛してるから、今回のことで気づいたというか」
こうして真面目に考え伝えてくれる暁斗の誠実さが好きだ。
「社内にも社外にもファンがいるみたいだから、がっかりさせるのも悪いし」
暁斗は笑いながら続ける。本人は冗談のつもりのようだった。意外と暁斗は己の立ち位置を理解していないということを、彼の会社を訪問してみて奏人は知った。
好感度が高くて当たり前なのだ。美形とは言えないが整った顔立ちをしているし、本人は気づいていないが美意識が高いので、何を着れば自分がよく見えるかをわきまえている。生真面目で責任感がかなり強いが、母親譲りと思われる抜け感が独特の親近感を醸し出していて、近寄り難さは無い。
「だよね、暁斗さんのファンに恨みを買うからやめとくよう部長に言おうかな」
奏人は暁斗の前に回って胸を洗ってやる。初めの頃はこの辺りからどぎまぎしていたが、最近は落ち着いて洗わせてくれるようになった。
目が合うと暁斗は柔らかく笑った。子どもの頃、父もこんな笑顔を向けてくれた。でも明かりに透けると栗色になる髪や、結構表情豊かな深い茶色の瞳が父とは違う。そしてその、イラストレータで出せない色が、奏人のお気に入りだ。
「でもそんな風に考えてくださっていることには本当に感謝してるというか……嬉しく思う、何だか今までにない自信になったかも」
「それも伝えるね」
精神的にも肉体的にも暁斗の疲労がピークに達していた時、タイミング良く奏人は彼と話ができたが、自分の記事のせいで拗れた取引先に自ら赴くと聞き、初めは止めようと思った。下手をすると余計に拗れて責任を取らされるかも知れないし、何よりも暁斗が自分の性的指向のことで他人から傷つけられるのを見たくなかったからだ。しかし暁斗は、取引先の社長ははなから怒っていなかったなどと言い、あっさり収めてしまった。
原が注目したのは、奏人も驚いたその調整能力の高さだった。その社長に同性愛者の友達がいたことが、彼の態度に影響したらしいと暁斗は話し、その可能性を示唆したことに対して礼を言われ、奏人は逆に恐縮した……こうして暁斗はいつも、自分の力じゃないと周囲に言っているのだろう。
「今日は髪も洗ってあげる」
奏人は暁斗の泡だらけの身体を湯で流してから言った。奏人は暁斗の真後ろに立って、少し頭を反らすように指示する。
「うーん、ちょっと変な気分」
「シャンプーハットがあればいいんだけど、首が痛くなったら言って」
素直に髪を洗わせてくれる暁斗が愛おしい。この愛おしいという気持ちが、奏人は自分でなかなか理解できなくて当初困惑した。奏人は客が自分の愛撫に夢中になるのを見るといつも嬉しいし、可愛いなと思うが、10も歳上の新規客に対して感じる気持ちが、ややそれとは色合いが違うことに気づき、何なのだろうと思った。この、思わずきつく抱きしめて頭をくしゃくしゃに撫でてやりたくなるような、熱を帯びた気持ち。奏人は少し強めに、指を立てて洗ってやる。
「気持ちいい……」
暁斗の声に奏人は胸がきゅっとするのを感じる。トリートメントを流してから彼の髪をタオルで拭くと、大きな企業の営業のエースには到底見えないぼさぼさ頭になって、2人して大笑いした。
「散髪にそろそろ行かないといけないなぁ」
浴槽に入るなり暁斗は言った。外回りを禁じられている間、髪もほぼどうでも良くなっていたらしい。
「暁斗さんは美容室と理容室のどっちを使うの?」
「理容室だよ、ひげ剃りしてもらうのが気持ちいいから……ひげ脱毛したらその楽しみが無くなるな」
「ひげ脱毛ほんとにする? エステ紹介するね」
奏人は言いながら、愛しいひとに近寄ってその肩に頭をもたせかける。初めて同じことをした時、彼は照れてのぼせてしまった。あの時暁斗は、早々に奏人を受け入れかけていたのに、男が好きだという自分自身の本来の姿に怯えて否定しようとした。それを察したので、奏人はやや強引な態度を取った。早く認めないと、苦しむ時間が長くなる。認めれば認めたで、また別の苦しみが待つのだが、その苦しみなら奏人も共有できるから、彼を助け支える術があると思った。
今暁斗は、少し遠慮がちに、しかし優しく奏人の肩を抱いてくれている。自分が同性愛者だと知って9ヶ月で、自分を受け入れて周囲に認めさせつつある。暁斗は奏人が考えていたよりもずっと、しなやかで強い。彼の母親は、彼の孫を抱けないことは少し残念だけれど、彼らしく幸せに生きてくれるならそれが一番だと話してくれた。
「今回の記事の件が片づきそうだって話したら、お母様喜んでたよ……暁斗さんから報告してあげてないと思わなくて僕から説明しちゃった」
奏人の言葉に、暁斗はあっ、と呟いた。すっかり忘れていたのだろう。
「ごめん、週末連絡取るよ……母が世話をかけたんだろうね、ありがとう」
「楽しいデートだったよ、暁斗さんが学生時代に授業で使った聖書を貸してあげて」
へ? と暁斗は目を丸くして奏人を見つめる。彼がこういう表情をすると、本当に犬っぽいと笑いそうになる。
「キリスト教学とか入門とか履修したんだよね、お母様も覚えてらして……大学がキリスト教系だとは知ってたけれどそんな授業があるとは思わなくて、暁斗さんがぶ厚い聖書を買って帰ったから洗脳されたかと思ったっておっしゃってた」
奏人はその時も今も、笑いを堪えるのが大変だった。明治時代じゃあるまいし、洗脳は無いだろう。まあ、暁斗の同級生は1人洗脳されたらしいが。
「たぶん押し入れの学生時代の教科書が入ってるとこにあると思う」
「僕に言わないでお母様に教えてあげて」
「ああ、そうだよな」
奏人は堪え切れずに笑う。桂山家はきっと笑いが絶えないのだろう。夏に妹の晴夏が兄の新しい男の恋人と鉢合わせし、兄を変態呼ばわりして小さく修羅場になったが、あの時でさえ奏人に言わせれば何か可笑しみがあった。高崎家ではあり得ないことだが。
暁斗には両親の愛情を受け、経済的に不自由なく育ってきた人らしい鷹揚さがある。彼の母親と話してそれを確信し、実はちょっとだけ妬ましくなった。奏人の実家はたぶん桂山家より裕福だろうし、父方に教員が多いので周囲に敬意を払われていた。しかし家の中は冷え冷えとして、少なくとも奏人にとっては安らげる場所ではなかった。
父が急死した時、父方の親戚たちは奏人に北海道の大学への編入を勧めてきた。奏人は東京の大学を卒業したかったし、高校生の頃に自分が同性愛者だと知った時の、皆の冷ややかな視線を忘れてはいなかった。……誰が戻るものか。すると、東京の大学に通うなら学費は出さないと言われた。半ば脅しだと分かっていたが、これを機に父方とは縁を切ろうと考え、親戚たちが最も嫌がる手段で――ゲイ専門のデリヘルで学費を稼ぐことに決めた。……母には経済力も決定権も無く、奏人に小さく謝るばかりだった。
「奏人さん?」
声をかけられて我に戻る。いけない、と思う。いくら相手が暁斗でも、今日は大切な客として最後のサービスをする日である。奏人は例の記事に会社が対応してくれる段取りがついてから、かつて集めた文献を引っ張り出して勉強を始めていた。今日も寝不足を否定できない状態だった。
「疲れてるんだね、夜の仕事も毎日で」
暁斗は優しく上半身をその腕で包み込んでくれた。心から自分のことを心配してくれる人の存在が、胸に沁みる。
「上がろうか、ベッドで少し休もう」
奏人はつい、暁斗の肩に頭をもたせかけて目を閉じてしまう。ぬる目の湯も、暁斗の肌の感触も気持ちいい。でもあと40分くらい残っているだろうから、宣言した通りあと1回、暁斗を天国に連れて行ってやりたい。奏人は手を伸ばして、暁斗の股間で少し元気を取り戻しているものの先をそっと撫でた。暁斗はあっ、と言って奏人を抱いたまま腰を引いた。湯が跳ねたが、奏人の顔にかからないよう暁斗が庇ってくれたのに驚いてしまう。
「2回いかせるって言ったよ、寛がせないから」
奏人は暁斗の顔を見上げて笑う。彼は本当に困った顔をしていた。
「無理しなくていい、俺も1回で十分だよ」
「大丈夫、すぐその気になれるから」
言いながら少し身体をずり上げて耳の下に口づけすると、暁斗の口から切なげな掠れた声が洩れた。可愛らしいと思う。もっとこんな声が聴きたい。
一緒に暮らすようになったら、これまでに得た技の全てを駆使して暁斗を楽しませてやりたい。これまでにしてきたことなんて、奏人の知るほんの5%ほどに過ぎない。今日は少しローションを使ってみようかと計画していたのだが、さっきあんな程度でいってしまったことを考えると、刺激が強過ぎそうだ。
暁斗は……そういうところも女性っぽいように奏人は感じるのだが、雰囲気や言葉に弱い傾向がある。だから奏人が技を十分に使う前に昇りつめてしまう。そんな部分も、これまで奏人の客にあまりいなかったタイプだった。まあ、そこも愛おしいのだけれど。
そんなことを考えているだけで、自分が興奮してしまう。奏人は熱くなってきた自分のものを、さりげなく暁斗の脚に押しつけてみる。暁斗はえ、と小さく言って、奏人の顔を覗きこんできた。
「暁斗さんを犯してやりたくてムラムラしてきた」
奏人はわざと乱暴な言葉を使う。暁斗はあ然とした顔になり、すぐにぱっと耳まで赤くなった。
「……お手柔らかにお願いします……」
小さく訴える暁斗の唇に、奏人は自分の唇を押しつけてから軽く噛んだ。この人は父の代わりなどではない。僕の全てをそのまま受け入れようとしてくれる、僕を全力で守ろうとしてくれる、僕の大切な可愛い恋人だ。奏人は暁斗の目を見つめながら、やたらに強い確信と満足感に脳の中を支配させていた。そのこと自体が快感だった。
奏人に後ろから「犯され」たのが刺激的過ぎて……と言っても挿れられた訳ではなく、思い出してマスターベーションしやすいようになどと言って、奏人は暁斗に背中から手を回して愛撫してきたのだったが、今度こそ本当に発狂するかと暁斗は思った。彼の勃起したものが尻にずっと当たっているわ、彼が耳許やうなじにずっといたずらをするわで、すぐに何もまともに考えられなくなり、暁斗は喘ぎながら敢えなく2回目の絶頂に達してしまった。
暁斗は奏人が勃起していたのが気になったので、ぼんやりしながらどうするのか彼に尋ねると、彼は嬉しそうにじゃあ、と言って、時間まで触れていて欲しいと要求した。暁斗は奏人の腕に抱かれて、その熱いものが少しずつ治まっていくのを右手に感じながらうつらうつらした。次回はもう客として会うのではないので、ちゃんと最後までいかせてあげたいと思うと、それだけでじんわりと幸せになった。
アフターの30分を過ごすのに奏人が選んだのは、ホテルに向かう裏道の角にあるファストなカフェだった。店は空いていて、窓際に席を取った。奏人が温かいソイラテをふたつ持って来て、少し何も話さずその独特の甘みを楽しむ。奏人は暁斗の髪にドライヤーを当てて整えてくれた。いつもより少しラフな髪の暁斗を見て、その仕上がりが気に入ったらしく満足そうである。
「ほんとにアンケートを書くと思わなかった」
奏人は笑顔になって言った。ホテルの部屋のテーブルにアンケート用紙を見つけた暁斗は、改装後に地味な部屋も用意して欲しいと意見を書いて置いてきた。
「別宅にしたいと思って」
「一緒にお風呂に入りたい時の?」
暁斗は頷く。どんな風に暮らしたいのか、奏人とこれから少しずつ話していきたいと思っていた。暁斗は他人と暮らすのは初めてではないので、ただ相手が好きで一緒にいたいだけでは、日々の生活が上手くいかないのを知っているつもりだ。
「お母様が立川に遊びに来ておうちを見て……暁斗さんと暮らす候補にも入れてくれたらいいって」
奏人の言葉に暁斗は苦笑する。母はもしかすると、蓉子と結婚した時も、同居を期待していたのだろうか?
「俺の実家ならあなたの本を受け入れる場所は何とか作れると思うよ、でもあなたに窮屈な思いをさせたくない」
「僕はともかく……晴夏さんが肩身の狭い思いをするよね、きっと」
「通勤もそこそこ遠いし」
暁斗の中では、立川ほど23区内までかからない場所に、古い一戸建てを借りるイメージができつつあった。奏人には自分の部屋――書斎やアトリエになるような場所が必要だ。それに広い浴室を持つとなれば、やはりマンションは難しい。
「僕はどんな場所でも暮らせるよ、たぶん暁斗さんが想像してるよりこだわりは無いから……本は処分できるものもあるし、レンタルスペースを使う手もある」
奏人が微笑しながら静かに言う。彼はたまにこんな世捨て人のような空気感を出すが、それが愛を交わし合った後だと、何だか寂しい。
「それと僕を養うなんて考えないでよ、家賃も生活費ももちろん持つし……留学することになったら帰国してからしばらく微妙だけど」
「あなたがどうするかによるかな、先走ってごめん」
何においても奏人を急かすことはしないと暁斗は決めていた。奏人がいつもほっと安らげる場所を作ることが、自分の務めだと思う。
奏人がずっと自分を見つめているので、暁斗は少し気恥ずかしくなり俯く。奏人はソイラテに口をつけて窓の外を見た。この時間、まだ池袋は賑やかである。
「あの日暁斗さんはここに座ってた」
奏人はややしみじみとした口調になった。
「店の中がいっぱいで……駅から来て外から覗いた時ちょっと心配になったんだ」
奏人たちスタッフは、初めての客と大体こういう、ホテルに近い場所にあるファストなカフェで待ち合わせをするという。神崎綾乃からもたらされる情報は、客の年齢とどんな仕事をしているか、彼女が客と事前に会っていれば容姿も多少わかるが、ほぼ当てずっぽうで声をかける場合が圧倒的である。
「綾乃さんが37歳だけどもう少し若く見えて、背は高くて均整の取れた身体つきでって教えてくれたんだけど、窓際にそんな人がぱっと見て3人いて」
暁斗は難しいだろうなと思った。いかにも風俗の待ち合わせだと周囲に気取られたくないだろうし、違う人に声をかけたら変に思われそうだ。
「でもね、あの時はすぐにわかったんだ」
奏人はその思い出を慈しむように言い、暁斗が見惚れてしまうほど、穏やかで美しい微笑みを見せた。
「店に入って……ちょっと俯いてコーヒーを飲んでるあなたを見て……この人だと直感した、今思うと変な気持ちになったんだよね」
「変な気持ち?」
「ずっと探していた人を見つけたような……嬉しいのとほっとしたのが混じった気持ち」
奏人は僅かに頬を染めた。そう言えば暁斗が声をかけられて顔を上げた時、奏人は頬を赤くしていた。あの日は確かに寒かったが、彼があんな顔をしていたのは、そのせいだけではなかったのかも知れない。そう思うと、暁斗まで顔が熱くなった。
「ああ何か嬉しいぞと思って、あなたの名刺を見ながら勝手にテンション爆上げになってた……あなたがめちゃくちゃ緊張してるのに」
暁斗は今の奏人の言葉が、リップサービスなどではないことを知っている。あの時は人の気持ちを引き立てることを言ってくれる子だなと思っていたし、それでも舞い上がるには十分だったけれど、あの日もリップサービスではなかったということなのだろうか。
「変な話してごめんなさい、でも今日はここに来てこの話がしたかった」
奏人が少し困ったような顔で言うのが、可愛らしくて愛おしかった。暁斗は運命や宿命なんていう言葉を信じていないが、ある頃から奏人と自分は分かち難い関係になるだろうと感じていたし、今思うとそもそもほとんど一目惚れだった。奏人が似たような思いを自分に対して抱いていてくれたというのならば、運命的な出逢いというのは存在するのだろうかと思う。
だからここで、これからのふたりの話を始める。この場所はきっとそうするのにふさわしいのだ。暁斗はそう思い、奏人に尋ねてみる。
「奏人さんはどこででも暮らせるって言うけど、小さなことでもいいからこれは譲れないとかは無い? そういうのをちょっとずつ聞かせて欲しいな」
暁斗の言葉に奏人はうん、と俯いた。照れているようだった。
「……ベッドは一緒がいい」
「うん、大きいのを買おう」
「そんな大きなベッドでなくていい、べったりくっついていたいから……暁斗さんが嫌でないなら」
「あ、うん……そうだね」
今夜の奏人は攻めてくるなと暁斗も照れる。
「でも身が持たないから毎日虐めないで」
暁斗が声を落として言うと、奏人はぷっと吹き出した。
「僕はぶっちゃけ毎日でもしたい」
「許してください、早死にしそうです」
奏人は声を立てて笑い始めた。
「暁斗さんはまだまだ未開発だよ……きついなら僕の調教が良くないのかもしれないから、あなたに合ったやり方を探索するね」
「調教……俺は馬か」
「そう、潜在能力の高いサラブレッドだよ」
何の潜在能力かさっぱりわからないが、まあ自分を好いてくれているようなので、良しとしてしまう暁斗である。
「あと……キッチンは少し広いほうがいいな、一緒にご飯の用意ができるように」
「あ、それは俺も思う」
「……こういうことを考えるって楽しいんだね」
奏人は微笑む。暁斗は彼がそう感じてくれていることが嬉しい。アフターの時間はもう残り数分で終わりそうだった。それは奏人と、彼の客としての関係が終わることを意味する。少し前から暁斗は奏人の「特別な客」ではあったが、正式に「唯一の特別」となり、彼との新しい関係が始まるのだ。
「年末まで少し我慢してね、ディレット・マルティールの退会手続きも忘れないで」
奏人は時計を見てから言った。
「あなたが居る間は籍を残しておくよ」
暁斗の言葉に奏人は頷いた。ソイラテを飲み干し、二人してゆっくり立ち上がりコートを羽織る。ありがとうございました、という店員の声に会釈してから店を出て、暁斗は少し寒そうな奏人に寄り添うように並んだ。
「ディレット・マルティールのかなととしては最後の挨拶です、今まで本当にありがとうございました」
奏人は歩き出す前に言い、もう一度頭を深々と下げた。暁斗も心から返す。
「こちらこそ本当にお世話になりました……これからもよろしく」
奏人は小さくはい、と答えた。往来でなければ奏人を抱きしめたいくらいだった。彼の胸には今きっと、ディレット・マルティールのスタッフとしての様々な思いがあるに違いなかった。少し声をかけるのを憚られる雰囲気を奏人が醸し出していたので、何も話さず駅に向かう。山手線の乗り場に着くと、普段通りの人混みに、現実に引き戻される気がした。奏人とは新宿まで一緒に電車に乗るが、少し別れ難い。
「暁斗さん」
奏人は不意に暁斗を呼んだ。暁斗が奏人を見ると、彼はいきなり抱きついてきた。暁斗は人目を感じたこともあって戸惑い、1歩後ろに下がったが、奏人はすぐに離れてくれそうになかった。
「……今からあなたの彼氏でいいのかな」
ああ、そうなのか。奏人はカフェを出たときに区切りをつけたのだ。暁斗は彼がスタッフとして今日自分と接したことは理解していたが、暁斗が彼をスタッフと見做して接してはいなかったために、しみじみとした気持ちはあったものの、区切りの深い意識はなかった。奏人は時に見せるその潔癖さにふさわしく、けじめと区切りを厳密に示したのである。
「そうだね、でも年末まではあまり大っぴらにしないほうがいい……のかな」
言いつつも、暁斗は奏人の華奢な身体を腕で包み込んだ。暁斗とて、こんなところを会社の誰かに見られたら微妙ではあるのだが。
奏人は答えず、暁斗の胸に顔を埋めてじっとしていた。通り過ぎる人がちらちら視線を送ってくるが、2人とも酔ってこんなことをしていると思われていそうだった。愛しいひと……これまでも、これからも。暁斗は腕に力をこめて奏人を抱きしめる。
駅のホームの隅で人の足音やアナウンスに聴覚を打たれても、腕の中の奏人の存在感は揺るがなかった。温もりとともに、甘い匂いが立ち昇り鼻腔をくすぐる。この甘い香りは仕事用なのだろうか。暁斗はこの香りが好きなので、奏人がトップスタッフでなくなっても、たまにリクエストしようと思った。他愛なく、楽しい計画だった。
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