その夜は少し眠れたが、明け方に嫌な夢を見た。暁斗の3メートルほど先に奏人が歩いていた。何度も呼びかけているのに、奏人はちらりとも振り返ってくれない。聞こえていないという事実に、暁斗は戦慄する。
「奏人さん」
声もうまく出なかった。奏人はふと立ち止まって、きょろきょろとその細い首を動かし、何かを探す素振りを見せる。自分を探しているのだと直感し、傍に駆け寄ろうとしたが、異様に足が重くて彼との距離が縮まらない。彼はがっかりしたようにうなだれ、前を向いた。もうその歩調を緩めようとせずに、どんどん先に進んで行ってしまう。
「奏人さん……!」
暁斗は自分の声で目が覚めた。自分の寝室の天井が視界に入って、昨夜どうやってここまで辿り着いたのだろうかと思う。しかもご丁寧に、カッターシャツとスラックスを脱いでいた。
スマートフォンの目覚ましが鳴るまでまだ30分あった。とりあえずシャワーを浴びることにする。……奏人に会いたかった。
「母さんとニュースを読んで、暁斗がその男の子と交際していることを聞きました。ニュースのどこまでが事実なのかはまた週末に聞きます。父は暁斗が男子が好きな子だと知り、何となく納得するような、でも認めたくないような複雑な気分です。母さんも晴夏もニュースの内容にややショックを受けていたから、余裕があるなら二人にメールしてやりなさい。よろしく。」
朝の7時からメールを寄越す父に、暁斗はそこそこ年寄りだなと感じたが、こうして言葉をくれることが嬉しく、泣きそうになる。山中の父親のように勘当までは言わないだろうが、しばらくまともに口をきいてくれないことは覚悟していたので、尚更だった。
まだ頑張れる。暁斗は昨夜相談室の面々と出版社への抗議文を作った(清水が持って来た草稿に皆で手を入れたが、酔っ払って作ったので見直しが必要そうだった)ことや、父からのメッセージに励まされた。マンションを出て、秋の匂いを感じる空気を肺に入れ、駅に向かった。
岸は西山と連名で、朝一番に出版社に抗議文を送りつけていた。その報告がメールで来ており、暁斗は緑茶を飲みながらお礼を返信する。酔っ払いどもが作ったけれど、まあ合格だったのだろう。
ネットのニュースのヘッドラインに、「ゲイ差別の女性誌記事に諸団体・企業から抗議20件以上」とあった。政治家を含め、個人からの抗議はその5倍はあるらしい。暁斗は当事者として有り難く思う反面、あの記事を出版社が早急に取り下げるところまでにならない限り、記事の拡散が止まらないことに焦りを感じた。暁斗はまだしも、奏人は特定されたに等しい。恐ろしくて確認する気になれないが、Twitterなどではおそらく、奏人の実名や勤務先が晒されているに違いない。
「課長、この5年の取引先のリスト出来ましたよ、女性が備品の決定に携わってる会社はクリーム色入れました」
花谷がエクセルで作ったA4の書類を提出して来た。暁斗はありがとう、と言いながら手を出したが、彼が心配そうに自分を見つめているのに気づく。
「課長、ちゃんと食べて寝てますか? 目の下にくま……」
「昨夜は寝たよ、昨日相談室のメンバーとちょっと飲みすぎたのはある」
花谷はならいいんですけど、と呟いた。
「せっかく俺が浮いた噂を立てたんだからこの間に女子たちにアピールしろよ、この仕事を任せようと思うから」
彼はぱっと顔を輝かせた。女子大コラボの新商品を、まずルート営業先に宣伝しようと考えていた。彼にその段取りを任せられれば、暁斗は安心して軟禁生活を送ることができる。飛び込みの開始はもう少し先になるだろう。
「女性が備品発注をしているか決めているかしてる会社で、女子社員が多く、最後の注文が古い順で行けば可能性は高いんじゃないですかね」
「うん、女子大側は女性向けというよりはユニバーサルデザインを意識してるから、それも心に留めておいて」
花谷ははい、と力強く答えた。彼は人当たりも良く頭の回転も早いので、良い営業マンなのだが、何の遠慮なのか、たまに自分の存在を消したいような、引く素振りを見せる。自覚が無さそうなので、この機会にそこを何とかしたい。
彼がデスクに戻り書類に手直しをし始め、人の少ない部屋の中で各々がキーボードを叩く音だけが静かに響いている。暁斗はこの3日間、やって来たメールをタイトルだけ見て優先順位をつけ、読んでいないものを溜めていたので、一つずつチェックした。会見に来ていた新聞社や女子大からのお礼の言葉を読み、礼を言われることもないと一人苦笑する。大学の話題として、当日の夕方に会見の様子がローカルニュースで取り上げられ、ついでに相談室の話もしてくれていたようだった。
昨日の午後以降、親しい取引先の担当者3人から、用件の後に、変な記事を見たが桂山さんなのか、と書いて来ていた。皆まさかと思って、人によっては半ば冗談で話題にしているのがありありと伝わって来た。暁斗は迷った末、虚偽かどうかを伝えず、自分を想定して書かれたものらしく困っていると、返信に追記しておく。
ひとつ、見たことのないアドレスからメールが来ていた。ドメイン名を見て、奏人の会社の者からだと察する。暁斗宛てに送信されているので、奏人が暁斗の名刺をこの人物に見せたのかも知れない。
メールは昨夕、総務部長の名で来ていた。当社の社員が原則禁じられている副業をおこない、そこに関係した桂山様に多大な迷惑をかけたという詫びの言葉から始まっていた。
「情報センター所属の高崎奏人が副業をおこなっていたことについては、
本人に厳重注意し、副業の退職を決めていることを確認いたしました。
問題は桂山様を含む高崎に関わった方々と、もちろん高崎自身の人権を、
この記事が大きく侵害していることです。
昨今の社会情勢を踏まえて、また当社のポリシーも鑑み、
当社としては看過できないと判断して、
本日付けで出版社と記者にかなり厳しい内容の抗議文を送付致しました。
御社ではこの度、性的少数者のための相談窓口を開設されたと伺いました。
可能でありましたら、そちらのご担当者様と、今回の件について情報交換をし、
このような差別と共に立ち向かうことを考えたいと存じます。
お忙しい折りに恐縮ではございますが、
桂山様からご担当者様に繋いでいただけますと幸いです。
もちろん、桂山様がこれ以上この件でお心を煩わせたくないとお考えでしたら、
このお話は無かったものとしていただいても結構でございます。」
暁斗は仰天し、このメールを放置していた自分のミスに打撃を受けた。とにかくこの原という名の総務部長に、気遣いへの礼と、自分が相談窓口担当の一人であること、至急全メンバーに繋ぐことを返信する。そして送られてきたメールを、相談室の全員に転送した。
「昨日はどうもありがとうございました。奏人さんの会社から昨夕このようなメールが来ていました、できれば至急お目通しください」
そしてうっかり奏人さんなどと打ち込み送信したことに、頭を抱えた。花谷が、一人で悶えている暁斗に、また心配そうな視線を送ってきていた。
「会社全体として多分対応出来ないと正直に言い、それでもいいなら協働しましょうと返信せざるを得ないですが、それでいいですか?」
「結構かと思います、先方は総務部長さんですから西山部長にお任せいたします。」
「いい会社ですね、対応も早くて。一度総務の仕事を見せていただきたいです。」
「きっと上層部の風通しもいいんでしょう、胸を借りるくらいの感じで良いと考えます。」
「桂山の気の緩みが散見され気になりますが、そのように運んでいただくことに賛同します。」
昼前には全メンバーの返信が揃った。山中のメールに毒があるが、まあ良しとする。暁斗が一息つくと、部屋の入り口が何やら騒々しくなった。
「課長、やめてください!」
暁斗はその声に聞き覚えがあった。一昨日朝のお茶作りを手伝ってくれた、2課の手島だ。彼の呼ぶ課長とは、暁斗ではない様子である。
「桂山くん! 話がある!」
花谷が、昼飯前に何なんだよ、と軽い軽蔑を含んだ声を上げる。暁斗は驚きのほうが先に立ち、部屋の入り口に向かった。2課課長の三木田は、最近マシになったと専ら噂ではあるものの、アンガーマネジメントが下手な人物として有名だった。暁斗より7歳上で、課長になったのも遅かったのは、それが原因だとされていた。果たして何にキレているのか、さすがに暁斗も緊張する。
「どうなさいましたか」
「きみのおかしな性癖のせいで」
三木田がそこまで言ったところで、手島が再度、やめてくださいと叫びに近い声をあげた。
「おまえは黙ってろ! この馬鹿が今朝桂山くんのことを得意先で尋ねられたんだ、先方は不快感を示していたようなんだが、こいつが……」
三木田は手島をねめつける。彼はびくんと身を縮めた。パワハラに近いなと暁斗は眉間に皺を寄せた。
「事もあろうに先方に説教したんだよ、同性愛に対する偏見だ何だと生意気なことを……おかげであちら様はカンカンだ」
暁斗は客観的に見て自分に責任は無いと感じたが、この若者がそんなことを言ってしまうきっかけを作ったのは確かに自分なので、どうしたものかと思案する。怒りの冷めやらぬ三木田が喋り続けるので、暁斗は不遜の自覚を持ちつつ、考えをまとめようとした。
「20年の得意先だぞ、どうしてくれるんだ⁉ 元々岸さんが開拓なさった会社だ、きみも若い時に行ったことあるんじゃないか」
「……では私が明日明後日に参りましょう、1課でも何かあれば私が直接話すと言っていますので」
至極真っ当な返事をしたつもりだったのだが、何か三木田の癇に障ったようだった。
「きみは簡単に考え過ぎじゃないのか、春みたいに取り返せると思っているなら甘いぞ」
春みたいに、という三木田の言葉に棘があった。2課が諦めていた案件を暁斗が結んだことだった。恨まれていたのか。少し動揺したが、顔に出さないよう堪える。
「少し天狗になってるんじゃないのか、得意先が皆きみの思うように動くと思ってるなら少し痛い目を見るといい」
「そんな風に考えたことないですよ」
「とにかく営業部全体に、いや会社全体に迷惑をかけている自覚を持つべきだろう!」
昨日の谷口相手の時と同様、返す言葉がない。暁斗は三木田に深々と頭を下げるしかなかった。
「……申し訳ありません」
三木田は軽く舌打ちをして、足音も荒く出て行った。暁斗が頭を上げると、手島は涙目になり、すみませんと何度も言い、ばたばたと三木田を追って去った。意味不明、とか、八つ当たりじゃん、という呆れ声が背後で上がる。
「課長が謝ることないでしょうに」
暁斗の傍にやって来た花谷は、困ったように言った。暁斗は溜め息をつき、言った。
「俺が蒔いた種だからな、それに……あの子が可哀想だ」
「とにかく事実を確認しましょうか、三木田課長の話が客観的事実とは思えないので」
花谷は唇を歪めて小声で言う。
「先様がからかうネタに課長の話を出して、あいつがそういうの今時NGですよ、くらい言ったのかなぁ」
「まあ何にせよ先方は怒ってるんだろうな、あの子に話を聞けないかな」
暁斗が言うと、花谷は聞きましょう、とあっさり言った。
「あいつ僕の大学の後輩で新人研修の時に割と話したんです、確か実家住まいの弁当男子だから、昼休み屋上に行けば捕まるかと」
ビルは、良い季節の良い天気の日、屋上を昼に開放している。
「きみも今日は弁当なのか?」
「いえ、買ってわざとらしく近づきます」
「わかった、俺の分も買って来い、奢る」
暁斗は彼に任せることにした。財布から千円札を3枚出す。
「アフターコーヒーつけていいですか?」
「あの子の分も買えよ、俺はいい」
彼は3000円を恭しく受け取り、この件に関する暁斗の意向を訊く。
「外出許可を貰って先方に行きたい、あの子にその気があるなら……いや、無くても連れて行く」
「2課の社員連れてったら三木田さんキレそうですね」
「だって三木田さん挽回する気無さそうだから……こんなことで20年付き合って来た会社とはいさようなら、って訳にはいかないと思わないか?」
だからあの人はダメなんだよな、と花谷は呟いた。暁斗はフォローしない。春の案件が示す通り、三木田は粘りが足りないのだ。取引先への提案は丁寧だし、怒りさえしなければ好感度も高いのに、損をしている。
「会社全体とあの子の将来のためだ、この間他人に興味を持つ話をしたらやる気が出たようだったのに」
「もう課長、方々で愛を振り撒かないでください、実ったものを回収できなくなりますよ」
何だよ愛って、と突っ込みながら暁斗はデスクに戻った。ほどなく昼休み開始のチャイムがなり、花谷は弁当とコーヒーを買うべく部屋の外に走って出て行った。
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