あきとかな ~恋とはどんなものかしら~

その営業課長が愛したのは、手技と言霊で男たちを搦め取る、魔物。
穂祥 舞
穂祥 舞

1月 2

公開日時: 2021年7月16日(金) 08:00
文字数:4,372

 かなとと最初に会ってから、5週間。暁斗はようやく再びかなとに会う段取りを済ませ、19時に池袋の秘密めいたホテルで落ち合うべく、身を切るような冷たい風の中、道を急いでいた。

 暁斗がかなとに会うために動くことが出来なかったのは、仕事が立て込んでいたせいだけではない。決心がつかなかったのだ。今度あの「魔性」の青年と肌を合わせてしまったら、引き返すことのできない場所に踏み込んでしまいそうな気がした。しかし――ディレット・マルティールのスタッフは、アフターを除くと、緊急でない限り自分から客に連絡は取らない決まりになっているため、かなとからは何も言って来ない。それが暁斗にはいよいよ耐えられなくなった。よほど神経を張りつめていないと、仕事中でも熱い雑念に頭の中を支配されそうになった。あの子の顔が見たい、あの子と話がしたい、あの子を腕に抱きたい。

 

 ディレット・マルティールの会員専用ページは、なかなかしっかりしたシステムを構築していた。二重のパスワード認証、20分以上アクセスできない厳しいセキュリティ。クレジットカードの番号は、予約の都度入力しなくてはならず、一旦送られてくる仮予約のメールに記されたURLが有効なのは15分。まるで蜃気楼の中の建物を目指すようだと暁斗は感じた。しかし、限られた者がその鍵を開けば、春の空を思わせる薄青を基調とした美しいページに、20人のスタッフの写真つきのプロフィールが華々しく並ぶのを目にすることが出来る。プロフィールは比較的詳細で、生年月日、身長や体重、出身地、出張可能な地域、卒業した学校(現役の大学生はその旨だけ書かれている)も公開していた。指名料はスタッフによって違いがあるが、おそらく経験や客の評価に基づいている。そしてスタッフからのメッセージは、彼らの個性を把握するのに多少役立つようだった。

 暁斗はかなとが都内のミッション系の有名大学卒であることを知り、驚いたもののすぐに納得した。そもそも知性が無くては、あんなに心地良い言葉を操れない。出身地が北海道というのも、静かで澄んだ空気を纏う彼らしいと思う。そして、楽しい時間を共有できれば幸いです、という慎ましいメッセージ。もう他のスタッフのプロフィールを眺める気は失せ、かなとのスケジュール表をクリックした。

 

 寒さから逃れるように、約束の時間の10分前にフロントに入ると、そこにはマフラーに顔を半分埋めたかなとが待っていた。暁斗の姿を認めると、マフラーを下にずらし、こんばんは、と笑顔で言った。

「またご指名くださってありがとうございます」

 かなとは前回カフェの中でそうしたように、丁寧に頭を下げた。暁斗は何と声をかけたらいいのか迷い、元気でしたか、とやっと口にした。大げさな問いにかなとははい、と明るく答えて、ついと暁斗の側に寄った。

「前と同じ部屋でいいですか?」

 今度は暁斗がはい、と答えた。ホテルを使うデリヘルは、客が当日にホテルの代金を払うことが多いが、ディレット・マルティールは客に当日財布を開けさせないように、スタッフが立て替えて、後日客に請求するのだった。

「寒いですね、お風呂使いますか?」

 かなとは早足で廊下を歩きながら尋ねてきた。今日は1時間半で予約を入れているので、どれだけのことができるか、段取りをしているのだ。

「使いましょうか」

 暁斗の返事に、かなとはにっこりして頷いた。鍵を開け、温もった部屋に入る。我慢できなくなった暁斗は、かなとが扉を閉めたのを見届けてから、彼を腕の中に捕らえた。そのコートやマフラーから、冬の空気の匂いがした気がした。あ、と彼が小さく声を立てるのを聞いて、暁斗は腕に力を込める。

「嬉しいです、こないだいじめちゃったからもうお声がけしてもらえないかと思っていました」

 かなとはくぐもった声で言った。ああもう、何をどう言えばいいのかわからない。暁斗はかろうじて、そんなことないです、と返した。何だこれは、恋する高校生か。自嘲の思いが這い上がって来た。この子が俺に笑顔を向けるのは業務の一環でしかない。嬉しいだなんて、リップサービスの初歩だろう。わかっているのに、柔らかな黒い髪が今日も仄かに香っていて、愛おし過ぎる。

 ごちゃごちゃ考えていると、熱い激流のようなものがこみあげてきて、一気に視界が曇った。暁斗はこらえようとしたが、無理だった。顔が火照り、食いしばった歯から声が漏れた。

「桂山さん?」

 腕の中でこちらを見上げたかなとの顔がはっきり見えなかった。かなとから腕を解き、右手で口を押さえるが、嗚咽が止まらない。目から熱いものが吹き出し、顔を見られたくなくて俯くと、それがぼとぼと床にまで落ちた。

「桂山さん……」

 かなとは冷静だった。2歩暁斗に近づき、そっと手を伸ばした。頰を包んだ両の手のひらが、冷たくて心地良かった。暁斗は自分を見上げる瞳に焦点を合わせる。

「……あなたに会いたかった、ものすごく」

 暁斗はやっとの思いで口を開いた。かなとはちょっと目を見開いて、まっすぐこちらに送っていた視線を外した。その白い頰にわずかに朱がさしたように見えた。可愛らしいと思った次の瞬間、暁斗の頰を包んでいた手に力が入り、頭が前に引っぱられた。唇が柔らかくて暖かい、僅かに湿り気を帯びたものに押し包まれる。暁斗は反射的に目を閉じて、その感触を全身で捉えようとした。……これまで経験した中で最も気持ちのいい口づけだった。というよりは、暁斗は人と唇を重ねると本当はこんなに気持ちがいいということを、今まで知らなかった。

 

 その日のかなとは時間中ずっと、可愛らしい小動物のように振る舞ってくれた。何をするときも暁斗の身体のどこかに触れていて、時々いたずらをするように暁斗の敏感な部分を、唇の先でついばんだり舌の先でつついたりした。その度に暁斗は肩を震わせ、腰を浮かせてしまう。

「桂山さんは感じやすいんですね、確かここもこの間駄目でしたよね」

 かなとは言ってから、左耳の後ろに舌を這わせた。股間に血液がどっと流れ込む音が聞こえた気がした。

「あ、もう勃ってる」

 かなとがふふふ、と楽しげに笑う。暁斗はことごとく情けない姿を傍らの青年に晒していることに、屈辱感を覚える反面、今日はどう扱ってくれるのだろうという妙な期待感を抱いている。

「僕に会いたかったということは……して欲しいことがあるということですよね?」

「いや、そこまでは……そういう意味でなく……」

 暁斗の小さい訴えに、かなとは顔を寄せてきた。白くて柔らかそうな頰に触れてみたくてたまらなくなる。よく考えると、背中を抱いたくらいで、この間からかなとの顔や首などには少しも触っていない。暁斗は欲望を満たすべく左手を伸ばし、かなとの頰を包んだ。思った通り、すべすべして温かかった。かなとは目を細めて、ふわりと口許を緩めた。ああ、夢の中の彼もこんな顔をした。だからあの後……。

「……っ!」

 暁斗は思わず腰を引いたが、かなとの右手に硬直したものをしっかり握られていた。

「桂山さん、答えてください」

「え……えっ?」

 かなとが情け容赦なく手を動かす。

「僕に会わない間……僕のこと考えながら何回マスターベーションしましたか?」

 頭の中を読まれた気がして、暁斗はあっと叫んだ。股間の手の動きが大きくなる。

「してない! してないから!」

 自分の薄汚い欲望を、かなとの知らないところで彼にぶつけたと言いたくなかった。

「嘘だ」

「それを聞いてどうするんですか!」

「僕たちお客様が僕らをおかずにしている回数に応じてボーナスをもらうんです」

「ええっ⁉」

 かなとの言葉を暁斗はすぐに理解できなかった。それはスタッフの自己申告を信用して、神崎綾乃が支給するということだろうか。

「ああ、かなとさん、ごめん……1回だけ」

 意味がわからないまま、暁斗は自白した。もうかなとの巧みな攻撃に抵抗できなくなっていたのもあった。かなとがしごきながら、指の腹で裏の柔らかいものまで愛撫してきたからだ。くすっと笑い声が耳に滑り込んできた。

「正直で結構です、でも1回きり?」

 かなとはちょっと唇を尖らせていた。可愛い、と思いながら突き上げてくる快感に溺れる準備をする。

「いっちゃいそうですね、いいですよ」

 言われて暁斗は一瞬我に返った。こんなことを繰り返して、これから俺はどうなってしまうのか。そもそも、金を出して若い男の子に、性欲の処理をさせるなんて――。

「桂山さん、今罪の意識とか感じていますか?」

 かなとは暁斗の胸の内を読んだかのようだった。少し手を緩めて、優しく語る。

「男と触れ合うのも僕とこういうことをするのも、何も悪いことじゃないし誰に責められるようなことでもないですよ」

 左の耳に柔らかくて温かいものが微かに触れる。誘惑に溺れることを身体が選択して、既に薄いガラスのようになっていた理性に細かいひびが入っていくような気がした。

「……あ」

「我慢しなくていいんです、少なくとも僕はあなたの理解者だから」

 かなとが言い優しくティッシュで受け止めてくれるのに、子どものように安心しながら、暁斗はゆっくり昇りつめた。自分でした時なんかとは比べ物にならないくらい、気持ちいい。もう何がどうなっても構わない気がする。

「もっと僕のこと思い出してしてくださいね……桂山さんは感じやすいけど淡白なのかなぁ」

 かなとは丁寧に後始末をすると、暁斗の肩に両腕を巻きつけてきた。抱かれる格好になり、今度はかなとの肌の温もりに溺れる。

「気持ちいい……」

 思わず出た暁斗のつぶやきに、かなとはそうですか? と笑い混じりに応じた。ちょっと沈黙が落ち、かなとの口調が変わる。

「……ずっと寂しかったんですね、桂山さん」

 暁斗は何も答えなかった。

「奥様と別れてからずっと一人で頑張ってきたんですよね、自分はゲイじゃないのかって悶々としながら」

 あ、と暁斗は声を落とした。神崎は暁斗が苦しんでいると言った。かなとは寂しいのだろうと言う。どちらも正しいようで、そうではないような気がした。

「……僕はあなたの傍にいますから、能う限り」

 かなとの唇がこめかみの辺りに触れた。またじんわりと暁斗の視界が曇ってきた。ここまでするのか。金で買われただけの、通りすがりの相手ではないのか。

 暁斗はゆっくりと細い背中に手を回す。少し首をもたげて、白い喉元に唇を押しつけた。意外とふわりとして、熱かった。ああ、とかなとはかすれた声を立てた。

「それ以上は駄目ですよ、僕たぶん桂山さんに本気出されたら……」

 どうなるというのだろう。聞きたかったが、次の楽しみに取っておこうと思った。自分のものでない温もりに包まれて、睡魔の誘惑に身を任せるのは幸せだった。でも、誰の温もりでもいい訳じゃない……暁斗は焦がれた相手の腕に抱かれ、ほんとうに満足していた。

 

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