「桂山さま
昨日はありがとうございました。
桂山さまが新しい一歩を踏み出す
お手伝いができたのならば
嬉しく思います。
ちょっと強引な振る舞いをしたこと、
どうか御容赦下さい。
少なくとも私にとっては
得難いひとときでした。
またのご連絡を心からお待ちしております。
かなと」
新しい年が明け、仕事始めを迎えるまでの数日、暁斗は思い直して立川の実家で過ごすことにした。誰に会う訳でもなかろうと思い、数冊の本を持参していたが、両親とまだ家にいる妹が歓迎してくれた上、名古屋に住む弟一家もやって来たため、ほとんど一人の時間は持てなかった。
離婚して以来実家に一度も顔を出さなかったことが、家族に要らぬ心配をかけていたと知り、暁斗としては家族サービスのつもりで色々なことに付き合った。5年会わない間に弟の2人の子――暁斗の甥たちはすっかり成長して、久しぶりに顔を見た叔父に学校での出来事をわれ先に話した。その様子には、独特の愛おしさを覚える。もし蓉子との間に子どもがいたら、別の人生があったのだろうかとふと思ったが、遅かれ早かれその子に申し訳ないことになっただろうとも考えざるを得なかった。
暁斗の本当の姿を暴き立てた可愛らしい魔物は、池袋のホテルで別れてからちょうど12時間後に、短いメールを送ってきた。自宅で新聞に目を通していた暁斗は、かなとらしい、折り目正しくわかりやすいメールを見て、一人でどぎまぎした。池袋から戻って軽い夕食をとったあと、朝までかなとの声や髪の匂いや肌の感触を反芻していたので、何か伝わってしまったのかとひやひやしたが、何のことは無い、アフターの連絡ということらしかった。
神崎綾乃からはかなとのメールのさらに12時間後に電話があった。自宅にいると答えると、年の瀬の夜の連絡を詫びてから、彼女はすぐにどうだったかと尋ねてきた。
「あの子は……」
暁斗は言い淀んだ。
「失礼がございましたか? お風呂でのぼせてしまわれたことは申し訳ございません」
それはあの子のせいじゃありません、と答える。
「かなと本人はとても良い仕事が出来たと思うと……あの子にしては随分熱のこもった口調だったのですけれど」
「失礼どころか良くしてもらいました、まあその……あの子はどういう子なのかとびっくりさせられたんですが」
神崎は声に笑いを混じらせて、かなとはたまに魔性なので、と言った。
「桂山様にはその面を見せたということかも知れません、だとしたらかなとは桂山様に本気で接したのですね」
「本気で?」
神崎はここだけの話ですが、と前置きをして続けた。
「かなとは誰にでも丁寧に……常に100パーセントで対応する子です、でも稀にお客様に120パーセントでぶつかってしまう、つまりあの子の中で振り切れてしまうことがあるようなのです」
では昨夜、かなとは目一杯で楽しませてくれようとしていたのか。誰にでも言うのだろうと思った言葉も、そうではなかったのか。
「何がきっかけでそうなるんでしょうね?」
暁斗の問いに、神崎はさっきと違う種類の笑いを含ませて答えた。
「好みですよ」
「好み?」
「スタッフも人間ですから、態度に出さないように指導はしておりますがお客様に対する温度差は皆多少ございます……かなとはほとんど好き嫌いを口にしない子です、でも好みの相手に対してより熱心になることはあるでしょう」
「あ、なるほど……」
暁斗はくすぐったいような気分になりながら、その後の神崎の事務的な説明を聞いた。彼女は暁斗に「迷い」が晴れたかどうかを、一切尋ねなかった。かなとの報告を聞けば十分だということなのだろう。これで暁斗は晴れて完全会員制ソーシャル・クラブ「ディレット・マルティール」の正会員になることとなった。
「今度は唇にキスしてくださいね」
ホテルのフロントでの別れ際に、かなとが無邪気な笑顔になって言ったことを思い出す。何とこちらの気を引き立てる言葉を、次々と繰り出すのだろう。暁斗がはい、と魂を抜かれた者のように答えると、かなとは約束ですよ、と軽く背伸びをして――かなとは暁斗より10センチほど背が低いので、暁斗の顎の先に微かに唇で触れた。そしてぱたぱたと小走りで建物の外に出て行ったのだった。
年始の挨拶回りが済み、社内全体の新年会も終わって、正月の空気がすっかり消えた頃になると、しきりにかなとのことが暁斗の頭によぎるようになっていた。当初の戸惑いは流石に薄れ、年末に衝動的に若い男を金で買ってしまったことも、買った男に翻弄されて自分が同性愛者であると納得したことも、暁斗は自分の胸の中に事実として落とし込んでいた。しかしかなとへの思慕(と認めない訳にはいかなかった)は時に御し難く、ある夜彼が夢に出てきた後、遂に自慰行為に及んでしまったのだった。マスターベーションなんて、高校生の頃以来したいと思うことがほとんど無かったので、暁斗はすっきりするどころか、一抹のショックを受けた。家に一人でいるのが良くないと思った。正月に実家で過ごしていた時は、かなとのことを思い出しても、ここまでにはならなかったからだ。
「課長、ハンコお願いしまーす」
営業事務の和束が書類の束を暁斗のデスクに持ってきた。確認しないといけない書類が増えてきたのは、年度末が近づいてきた証である。
「課長、最近何かいいことありました?」
和束の質問に、別にないけどどうして? と応じる。
「年明けから何だかいい顔をしてるって一部の女子が噂してますよ」
彼女はやや意地の悪い笑みを浮かべていた。暁斗は自分がたまに女子社員の噂の種にされていることを自覚している。そこそこ仕事ができる彼が独り身になり、自炊しているというシチュエーションは、彼女らの闘争本能を掻き立てたのである。桂山課長には今特定の女性はいない、みんなにチャンスがあるかも知れない!
「正月実家でゆっくり過ごしたんだ、こんなおじさんになっても実家は癒されるもんだなと」
「おじさんだなんて、もう〜」
和束は天然ボケのような暁斗の返答に、可笑しそうに手を振った。
「いい顔って何を基準に言ってるんだ」
「え? 何て言ってましたかね、ふふふ……お昼とかに物思いに耽ってる時に妙に色っぽいって、年末はくたびれて死んでたのに」
彼女の言葉に暁斗は苦笑した。そういう時はだいたいかなとのことを考えている。とある男の子のことを思い出してるからかな、と答えたら彼女はどんな顔をするだろうか。
「それみんなの思い込みだろ、俺モテ期来たのかって勘違いするからやめてよ」
「課長はここ数年ずっとモテ期じゃないですか、少なくとも3営業課の中ではダントツで」
「えっ、そんなこと初めて聞いた」
二人して笑うと、一番近いデスクの中堅社員・花谷が口を挟む。
「己を知らなさ過ぎですよ課長、僕らに順番が回ってこないの課長のせいなんだから……早く浮いた噂を立ててくれないと」
周りからくすくすと笑いが起こる。軽口は多少暁斗の気を紛らわせてくれた。女子たちの無駄話を嫌う男も多いが、他愛なく見えるこれらの会話が時に有用であることを、暁斗は経験上知っている。今だって、自分が感情ダダ漏れなことがあると知らしめてくれたではないか。
少し気を引き締めなくてはいけないと、暁斗は自戒した。これがもし、素人の女性――こんな呼び方をすること自体に違和感を覚えざるを得なかったが――が物思いの相手であるならば、実は素敵な子と出会ったのだと、軽口を叩くところなのだろうが。
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