暁斗は目を開き、自分のものでない体温や静かな呼吸音に最初驚き、すぐに安堵した。夜中に暴走していた魔物は、おとなしく寝息を立てている。そっとスマートフォンに手を伸ばすと、6:50と白い字が浮いた。いつもより少し遅めだが、休日でもこれくらいの時間には目が覚める。カーテンの隙間から射す光が弱い。まだ雨が降っているのだろう。
奏人がもぞもぞと肩と足先を動かした。暁斗は蝶が蛹から出てくるのを観察するような気分で、自分に寄り添っている奏人の挙動を眺める。ん、と小さい声がして、長い睫毛が微かに揺れた。瞼がゆっくりと持ち上がり、瞳が覗く。右手が動き、細い指先で頰を掻く仕草が子どもっぽかった。
奏人は自分の横に人がいるのに驚いたように、あっ、と言って、暁斗を見上げた。ぽかんとした顔に、暁斗の胸の中がじんわりと暖かくなる。
「桂山さん? 僕……」
覚えていないのか。暁斗は苦笑した。しかも昨夜は名前を呼んでくれたのに、また苗字に戻っている。
「ゆっくり寝てください、今7時前です」
暁斗も口調を前のように戻す。一晩一緒にいたからといって、過度に馴れ馴れしく接するのは図々しいと考える。
「僕、昨日……ごめんなさい……」
「気にしないで」
「すっかり迷惑をかけてしまって……」
いいから、と暁斗は答えて、我慢できずに奏人を抱き直そうとした。奏人は一瞬身体を固くしたが、すぐに暁斗の思うままになった。
「あったかい……」
奏人は暁斗の胸に顔を擦りつけて、言った。俺も寂しいのかも知れないけれど、この子も寂しいのではないのか。暁斗は奏人の髪の感触を確かめながら考えた。
「桂山さん、……勃ってる」
奏人は声に笑いを含ませて、言った。暁斗はうめいた。たぶん赤面していた。
「朝だから仕方ないでしょう」
「朝勃ち? 健康的ですね」
ふふっと笑う奏人は、暁斗の良く知る彼だったので、安心した。
「僕昨日いろいろ言っちゃったけど……あなたのこと本当に好きなんですよ」
奏人ははっきりと言って、腕の中で暁斗を見上げた。
「元々見かけは好みなんです、顔だちとか背の高さとか、筋肉のつき方とか」
暁斗は神崎の言葉を思い出した。好みですよ。……この曖昧なのに大きな価値基準。
「照れてお風呂でのぼせたり……会いたかったってぼろぼろ泣いたり……そんな人初めてだったから、それに桂山さん僕の顔を見たらいつもめちゃくちゃ嬉しそうだし」
暁斗は10も年下の青年に言われて、心底恥ずかしくなった。思わず顔を背けたが、狭いベッドでは逃げ場が無い。
「何か昔飼ってた犬を思い出して」
「犬⁉」
暁斗は声を上げた。奏人は笑いそうになりながら続ける。
「雑種でした、賢いいい子で……発情期になると必ず僕の足にしがみついて腰を振るんです」
「発情期……」
「実家を出て札幌の高校に入ったんですけど、2年の夏にとても嫌なことがあって……家に帰ったらずっと側にいてくれました」
暁斗は犬と比べられて承服できないものがあったが、奏人にとってその犬が大切な存在だったことは伝わってきた。
「今あなたがそうしてくれているみたいに」
「……そう」
暁斗はちょっと奏人の身体に回した腕に力を入れた。おあいこだ、昨夜自分は奏人を見て拾った猫を思い出していた。あの猫は貰われた先で幸せに過ごせただろうか。……俺はこの魔物を悲しみの淵から救い出せるだろうか。
「だから僕にしがみついて腰を振ってくれても全然OKなんですけど……」
冗談なのか本気なのかわからなかった。冗談で返すことにした。
「前向きに検討します」
「昨夜の僕にがっかりしたんですね」
そんなことない、と暁斗は思わず言って、あとを続けられず困った。しかし自分への好意を言葉にしてくれる奏人に、何とかして気持ちを伝えたい、返したいと思う。
暁斗は奏人の細い身体を自分の体の下に引きずり込んでみた。何の抵抗もなく、軽々と華奢な身体を組み敷くことが出来た。奏人は少し目を見開いてから、そっと瞼を閉じた。どきどきしながら、きれいな形の唇を自分の唇で包み込む。美味しい、という言葉が頭に浮かんだ。思い切って舌を入れると、奏人は昨夜とは違いやや遠慮したように応じた。熱くて滑りを持つものが触れるのが気持ちいい。一瞬で溺れそうになる。
「……あ……」
いつも奏人がするように、暁斗が奏人の耳たぶや首筋に唇を押し付け、舌を這わせると、小さな声が彼の口から洩れた。暁斗は喜びが脳天まで突き抜けるのを感じた。義務的に妻に同じことをしていた彼は、相手が悦んでくれるのがこんなに嬉しいものなのだと、分かっていなかった。
「桂山さん、暁斗さん、もっと……気持ちよくして」
奏人の懇願するような声に、暁斗は何をして欲しいのだろうと思いつつ、トレーナーの中に右手を差し入れてみる。暖かくてすべすべした肌に、こっちがのぼせてしまいそうになった。手を上げていくと、小さな硬いものに触れた。親指の腹で優しく撫でると、奏人が息を強く吸って身じろぎした。
「どうしよう、感じ過ぎかな……」
薄暗い中でも奏人の頰が染まっているのがわかった。可愛い。もっとよくしてあげたい。暁斗がどうして欲しいのか尋ねようと口を開きかけた時、無粋な音が耳を打った。暁斗の腹の音だった。確かに空腹を感じてはいた。
「桂山さん……餌の時間なんです、かね」
奏人は3秒後に言った。良いムードは掻き消えてしまった。暁斗はまた失策を犯し、恥ずかしくて泣きそうになる。上半身を起こした奏人が、笑いを堪えながら手を伸ばしてきた。
「朝ごはん食べましょう、昨日たくさん買ってくれてたから」
頭を撫でられて、暁斗はごめん、と呟いた。奏人は暁斗の身体にすばやく腕を回し、きゅっと力を入れた。
「楽しみに取っておきます、すごく素敵なセックスができるって確信しました」
今する気になっていたのに。暁斗は奏人の背中を撫でながら、意気消沈するのを自覚した。完全に勃起した股間が少し辛かった。
奏人が作ってくれた朝食をたらふく胃袋に収め、くだらないことを言いながら順番に顔を洗って、暁斗は幸せなことこの上なかった。突如訪れた同棲ごっこに、暁斗は自分が世界一幸せだと結構真面目に思っていた。世界一は大げさとしても、奏人の誕生日の数時間をホテル以外の場所で独占したことは、彼の崇拝者たちに自慢していいだろう。
奏人は彼の言葉によると、活字中毒だった。暁斗の取っている新聞が自分の家のものとは違うという理由で、数日さかのぼって読みたがった。彼が集中して紙上に目を走らせる間に、暁斗は洗濯機を回す。雨は9時頃に上がり、薄日が射し始めている。
「ここしっかりしたつくりなんですね、昨夜風の音もあまり気にならなかったし」
奏人の声に、暁斗はそう? と答えた。古いマンションだったが、家賃やアクセスを含めて気に入っている。結婚するまで実家暮らしだった暁斗にとって、初めての一人暮らしの城だった。1LDK、南西向き角部屋。不動産屋に勧められるままに決めた物件だが、若い子たちがユニットバスのワンルームで、あまり変わらない家賃で暮らしていることを聞くと、ラッキーだったと思う。
「眺めも良くていいですね」
奏人はベランダに面した窓から外を見る。住宅の屋根が続くばかりで、良い眺めとは思えなかったが、2階に住んでいるという奏人は、空が見えて気持ちいいと言った。
「たまに泊まりに来ていい?」
奏人の言葉に暁斗はえ、と返事に詰まる。
「僕、金曜は公休日というか……夜の仕事は基本的に入れてないんです、昼の仕事が済んでから会って……って僕の都合ばっかだけど」
「……奏人さんがそうしたければ俺はいいですよ、でもそういうのNGなんじゃ……」
暁斗は戸惑いながら答えた。
「はい、NGです」
「じゃあやめたほうがいいでしょう、神崎さんも心配する」
暁斗は神崎の柔らかい声を思い出しながら言った。支えになって欲しい。こういうやり方での「支え」は、彼女の希望ではあるまい。
「綾乃さんは……西澤先生もだったけど、僕にこの仕事を早く辞めて欲しいと思ってて」
奏人は言いながら窓の外に視線を移した。
「日の当たる場所で生きて欲しいんだって、それって何処のことを言うのか僕にはよくわからない」
「奏人さんはあの仕事が好きなんですよね」
暁斗が訊くと奏人はこっくり頷いた。好き、というのも暁斗には理解し難かったし、どう贔屓目に見ても影の仕事だろうが、奏人の考えにケチをつける気はない。ただ……。
「でもここに定期的に泊まりに来たいと言うなら……あの仕事から離れて欲しいような気がします」
「そう……なんだ」
暁斗の言葉に奏人は視線を落とした。美しい横顔。この家でこの顔を見ることができたら、こんなに嬉しいことはない。しかしこんな時間を過ごした後で、彼がシャワーを浴びて日が落ちてから出かけるのを、心穏やかに見送れそうにない。
「桂山さんもやっぱりそういう見方をするんですね」
「俺の立場になって考えたらわかりますよ、その……好きな人が……他の人に触られるために出て行くのを見て嬉しい訳がない」
洗濯機が仕事を終えてアラームを鳴らしたので、暁斗はすぐに洗面室に向かった。あまり長く続けたくない話題だったからである。ほぼ1週間分のタオルや下着を、洗濯機から引きずり出す。洗濯かごを持ってリビングに戻ると、奏人が可笑しそうに言った。
「桂山さん家庭的、コインランドリー使わないんだ」
「週末晴れたら洗濯はしますよ……洗い物入れておいてくれたらよかったのに」
「初めて泊めてもらうお宅で汚れ物を出せとおっしゃる?」
暁斗の言葉に、奏人が芝居掛かった口調で応じたので、思わず笑う。手伝うと言ってくれるので、二人して寝間着のままベランダに出て、ひんやりした風を受けながら洗濯を干す。そうしていると、ずっと前から奏人とこんな風に暮らしているように錯覚しそうだった。
奏人は今日の夕方以降、3人の客から指名を受けているらしかった。昼過ぎまで居てもいいかと訊くので、迷わず構わないと答えた。きっと彼が一度帰宅するのを見送るのは寂しいだろうが、考えないことにする。
暁斗は奏人にLINEのIDを教えてもらって、心の中で小躍りした。パトロヌス制度の特典より余程嬉しかった。パトロヌス制度の話を振ると、奏人は無理しないで、と苦笑する。
「僕は上限を月2万にしています、桂山さんそんなのしなくていいですよ」
「でも」
「みだりに施しを受けるのは好きじゃないから」
暁斗は奏人がはっきりと口にするのを聞いて、逆に戸惑う。金が目的で、あの仕事をしているのではないのか。
「お金なんていいんです、つましく暮らすに十分な給料は昼の仕事で貰ってるから……夜の仕事にしか僕の居場所がないから続けているんです」
暁斗には返す言葉が見つからない。何が奏人をあのいかがわしい仕事にこだわらせるのか、全く想像がつかなかった。そのことが、自分は奏人のことをまだほとんど知らず、彼との距離が縮まった訳ではないという現実を突きつけた。この子を救い出せるのだろうか、現在の悲しみからだけでなく……この子が背負っている全ての悲しみから。……やってみなくてはわからない、飛び込み営業と同じようにはいかないだろうけれど。暁斗は思わず深呼吸をする。
雲の間から太陽の光が降り注ぎ、濡れた家々の屋根をきらきらと輝かせる。奏人がそれを見てきれい、と笑った。奏人は雲が太陽の光に透ける空を仰いで、しばらく目を閉じていた。西澤遙一の葬送式には出ないと言ったが、彼が師のために祈っているように、暁斗には思えた。
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