「夜に私の会社に来て
様子がおかしかったので、
奏人さんを預かっています。
先生のお通夜だったと話しています。
取り急ぎ。 桂山暁斗」
暁斗は神崎綾乃に短いメールを送ってから、レトルトのごはんを電子レンジに入れた。奏人はひとしきり泣きじゃくってから、素直に浴室に入った。顔をぐしゃぐしゃにしたまま買ったばかりの着替えを開封し、暁斗が手渡すタオルを受け取る様子が、小学生の頃に拾った、雨の中捨てられていた子猫を思い出させた。妹の晴夏がその子猫を飼いたいと両親に懇願したが、母は動物病院の先生に相談して、すぐに別の飼い主を見つけてしまった。晴夏は学校から帰ると猫がいなくなっていたことに激怒し、その日夜までずっと泣き、翌日中母に口をきかなかった。あの時の幼い妹の泣き顔まで、なぜか鮮明に思い出す。
奏人が目を真っ赤にし、髪を乾かしっぱなしにして浴室から出てくると、すぐに夕食にする。奏人が食べる気になってくれているのに安心した。好き嫌いは無いらしく、出来合いの食事を彼はゆっくりと残さず口にした。暁斗はその箸づかいと、上品な食べ方に見とれた。奏人は育ちが良い。後で浴室を使った暁斗は、そこがきれいに片付けられているのを見て、そのことを確信する。
風呂から上がると、奏人はリビングのソファで新聞を読んでいた。眠いかと思いベッドを整えておいたので、ちょっと意外に感じた。
「落ち着いた? ビールでも飲む?」
「お酒はいいです、ありがとうございます」
トレーナーに身を包んだ奏人の姿が新鮮だった。ばさばさの髪も、いつも見せない隙があって愛おしい。暁斗はようやく、この可愛らしい魔物を自分の家に捕獲した喜びを感じ始めた。会いたいのに会えなくてイライラし始めていたところに、何たる僥倖が訪れたのか。反面、大切な人を亡くして自失している奏人に対し、そんな感情を抱く自分を薄汚いと感じた。
暁斗は何となくどきどきする胸を抑えながら、奏人の横に座りテレビをつけてみる。ニュースでは、東北と北海道で台風並みの強風が吹き荒れていることを伝えていた。東京も、明日の昼まで雨と風が止まないらしかった。
「今日誕生日なんですよね」
暁斗の言葉に奏人は顔を上げ、小さく頷く。
「おめでとう」
暁斗は言った。奏人のぼんやりとした赤い目が、少し光を取り戻した。
「……ありがとうございます」
ほんのりと白い頰が染まった。どうして自分を訪ねてきたのか、どうしてここまでついてきたのか、聞き出したい衝動に駆られる。
しばらく見るともなくテレビを見て、順番に歯を磨いた(奏人は歯ブラシまで購入していた)。奏人が自分はリビングで寝ると言い出したので、暁斗は彼にベッドを使うよう諭し、半ば強引に寝室に連れて行った。
「じゃあ一緒に寝てください」
奏人はぽつりとうつむきながら言った。暁斗はその言葉を心の何処かで待っていたので、異存は無かった。
神崎からよろしくお願いしますという返信が来ていた。また明日の朝、連絡すればいいだろう。暁斗はスマートフォンを枕元のコンセントに繋いで、奏人がさっきから全くスマートフォンに触っていないことに気づいた。
「スマホ充電しなくていいですか?」
「あ……明日の朝でいいです、すみません」
奏人は少し小さくなって暁斗の傍らに身体を横たえた。そしてか細く話し始めた。
「今日見送った人は……いろんなことを僕に教えてくれた人で……」
暁斗は奏人が西澤という大学教授と懇意にしていたことを知った。学生時代、ゼミの担当教官が彼を大学の特別講義の講師に呼び、その時に紹介してもらったこと、専攻は違ったが卒業論文にたくさんのアドバイスをくれたこと、すぐにゲイだと見抜かれてしまったこと、同じくゲイで、そのことを若い頃から公言していた西澤に励まされ可愛がられたこと。
「先生はディレット・マルティールの立ち上げ人の一人です、障害者や性的マイノリティのセックスの問題に取り組んでいた団体から独立した組織なんです」
暁斗は驚いた。大学教授がこんな会社に噛んでいたことにもだが、母団体が存在していたなんて。
「僕は3回生の春に父を亡くして……学費が負担になって大学を辞めることを考えている最中でした、それでここでアルバイトを始めました」
奏人は自分が男たちの性欲の対象になることに、さして抵抗が無かったという。それよりも、同性愛者であることを隠し悩むセレブリティの役に立つことにモチベーションを見出した。
奏人は西澤の勧めもあり、大学を出てすぐにアメリカに留学していた。しかしそこで知り合った恋人を事故で亡くし、勉強を続けられなくなってしまった。コンピュータの知識は帰国してから職業訓練を受け身につけたものだ。そしてSEとして就職してから、奏人がアメリカにいた1年の間に組織を拡張したディレット・マルティールに請われて、スタッフとして戻ったのだった。
暁斗は自分の横で丸くなりながら話し続ける奏人が、愛おしくもあり恐ろしくもなった。この子は化け物だ。世の中には、本当に何でもできてしまう人間が確かにいる。職業訓練校の初歩的な訓練をきっかけに、中堅のコンピュータ会社のSEに収まってしまう。きっと奏人はその気になれば、世界的な論文を発表する研究者にもなれたのだろう。そしてあっという間に他人を魅了してしまう個性と容姿。奏人は本当に魔物なのだ。
「今の僕があるのは先生のおかげなんです……なのに先生はこんな仕事をずっとさせて申し訳なかったって……」
奏人は涙声になった。声は嗚咽に変わった。暁斗は声をかけようとしたが、先に奏人が泣きながら抱きついてきた。ゆっくりとその細い背中に腕を回す。これまでそんな風に感じたことがなかったが、今夜の奏人は頼りなかった。声をあげて泣く青年にしてやれることも見つけられず、暁斗はただその背中を撫でていた。
どれだけの時間かはっきりわからなかったが、とろとろと眠りに落ちていた。腕の中で泣いていた奏人がおとなしくなったくらいまでは、記憶にあった。
「……っ!」
暁斗はいきなり唇を塞がれて目が覚めた。熱い柔らかいものがぐいぐい食い込んできて、息ができない。薄暗い中で見えたのは、奏人の長い睫毛と、薄く開いた瞼から覗く瞳だった。
「……奏人さ……」
一度重みが離れたので喘ぎながら名を呼ぶと、奏人は再度襲撃してきた。何度も唇を押し付け直してくるのに、暁斗は恍惚となってしまう。何度目かに、奏人は口をこじ開けてきて、さらに熱いものを押し込み始めた。暁斗はもちろんこんな行為を蓉子と経験していたが、相手が奏人だと感じ方が圧倒的に違う。思わず自分から舌を絡めにいってしまい、それに反応した奏人は夢中で暁斗の口の中をむさぼりり始めた。身体の奥に火が灯るのを暁斗は感じた。
「抱いて」
ようやく唇を離した奏人は、指先で暁斗の口の端を拭いながら言った。
「桂山さんのやりたいことをやってみて」
暁斗は思わず身を引きそうになったが、全体重でもって押さえつけられる。ベッドが軋んだ。暁斗は奏人が熱に浮かされたような目をしているのを見て、いけない、と感じた。
「奏人さん、落ち着いて」
「僕は冷静だよ」
「全然冷静じゃない、こんな時にこんなことするのは良くない」
奏人は口を引き結んで険しい目になった。初めて見る顔だった。その冷たく美しい表情に、彼の言う通りにしたいと気持ちが振れる。
「どうして僕を拒むの、僕は桂山さんが……暁斗さんが好きなのに!」
暁斗は頭がくらくらした。他ならぬ奏人からこんな言葉が聞けたのに、何故言う通りにしてやらない? 自分で自分に問いかける。
「暁斗さん僕のこと好きだよね、わかってる……なのに何で……」
奏人の顔が歪んだ。瞳に涙が盛り上がってくる。そして叫ぶように言った。
「あなたのものにしてほしいのにっ!」
奏人の涙が暁斗の頰に落ちた。違う、いつもの奏人じゃない。今そんなことになるのは、きっと良くないのだ。暁斗は奏人の頰を手で包み、だめだ、と諭した。
「今みたいなあなたを抱くわけにはいかない」
「どうして!」
「俺に誰の代わりをしろというんだ、西澤先生か? 外国人の彼氏? というか今やるのは誰でもいいと思ってるだろ?」
奏人はぼろぼろと熱い涙をこぼす。暁斗は残酷なことを言っていると自分でも思った。
「ひどいよ」
「わかってる、でもだめだ……俺が嫌だ、明日後悔するあなたを見たくない」
暁斗は別に西澤や外国人の某の代役でも全然構わなかった。しかしおそらく、奏人が自分に対して申し訳ないと言うだろう。そんな謝罪は聞きたくない。
「あなたは俺の大切なひとだ、だから大切に扱わせて欲しい」
奏人の喉がひっく、と鳴った。ああ、こんなに泣いて。可哀想で、愛おしい。肩を押さえつけている力が緩んだ。奏人はふわりと暁斗の胸に倒れこんできた。力一杯抱きしめると、また嗚咽が始まった。暁斗はふと思う、この子はずっと自分のことで涙を流すのを、自分に禁じてきたのではないだろうか……。
慰めたくて、濡れた頰に唇をつけた。奏人が少し顔を上げたので、その唇の左側に自分の唇を重ねた。
「……やっと暁斗さんからキスしてくれた……」
奏人は呟いて、積極的に身体を暁斗に預けてきた。立ち昇ったのは、自分と同じシャンプーとボディソープの匂いなのに、ひどく心地良い香りに感じた。これでいい、と思う。傍らにいる温もりだけで十分だ。幸せだと思った。その半分、いや3分の1でも、奏人が幸せのようなものを感じていてくれれば。暁斗は誰にともなく願った。
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