東京に着く直前に、晴夏と蓉子から、示し合わせたかのように立て続けにLINEが来た。晴夏のメッセージは彼女の気持ちの乱れを反映していて、読んでいる暁斗のほうが申し訳なく感じた。高校時代の友達からずっとブラコンと言われていて、否定して来たが認めざるを得ないと晴夏は書いてきた。
「ゲイ専風俗使うあきにいとかマジ受け入れられないから、ちょっと時間おくれ。かなとさんは目の保養だけどあきにいをたぶらかしてる可能性が私的には捨てられない←これめちゃムカつくと思うけど、本音。」
暁斗は苦笑しながらゆっくりと会社のビルに入る。ムカつくが、この間みたいに撤回しろとまで言う気は無い。
朝の挨拶を交わしながらエレベーターに乗り込んで、蓉子とのトークルームを開く。彼女らしいねぎらいの言葉から始まり、まさかデリヘルを使うほど切羽詰まっていたなんて、とあり、そのやや的外れな同情に2度目の苦笑を浮かべた。
「桂山課長、面白い動画でも?」
隣に立つ経理部の社員が尋ねてきた。
「いや、元嫁さんのLINEがちょっと面白くて」
「別れた奥さんと繋がってるんですか?」
「うん、最近復活したんだ……復縁は無いけど」
ああ、と経理部の社員は微笑した。彼に困惑している様子は無い。あの会見が「桂山課長のカミングアウト会見」と社内で呼ばれ始めていることを暁斗はまだ知らなかったが、全社員に配信されたために、皆がそれなりに暁斗の性的指向を受け入れているようだった。もちろんそれがスムーズに運んでいるのは、山中穂積の長年の苦労があった上でのことだった。
蓉子は自分の会社が、とある学会と連名で出版社に抗議したことを書いていた。昔、単発企画で「西澤遥一監修・文学の舞台になった地を巡るフランス・スペイン・イタリア12日間」というツアーがあり、人気だったのでリバイバルの準備をしているのだという。監修なので、西澤は同伴はしなかったけれど、事前の講演を気軽に受けてくれた。今回は西澤が会長を務めていた文学系学会に所属する有名教授が、その任に当たってくれることになった。その教授があの記事に激怒しており、旅行会社としてもツアーの客足に影響が出ては困るので、抗議の話に乗ったらしい。
どこの会社も団体も、頼もしい。なのにこの会社ときたら……。暁斗が自分のデスクに鞄を置き、朝のお茶担当の藤江にコーヒーをオーダーしていると、岸がやって来た。
「部長もコーヒーいかがですか?」
藤江の誘いに岸はいただこう、と気楽に応じる。
「暁斗、11時に来てくれと先方が言ってくれた」
岸は何でもないように切り出した。例の得意先の件である。
「電話してくださったんですか?」
「うん、社長に懐かしがられたよ、感触としては悪くなかったけれどなぁ」
いつもながら手回しが早い。岸は持ち主が直行の外回りに行って空いているデスクの椅子を引く。すぐにコーヒーがやって来た。
「俺が暁斗と2課の子を連れて行くってことにしておこう、先方には二人が行くと言った」
「はい」
ほぼ悪巧みだった。社内で派閥を組んだり、やり易い人とばかり仕事でつるんだりするべきではないと暁斗は思っているが、やはり自分の動きやすいように段取りされると、そちらを有り難く感じてしまう。
「無理はするな、世代交代で社長が決定権を移行し始めている煽りかも知れない」
岸はコーヒーを美味しそうに口にして、言った。暁斗は大昔の記憶を昨夜辿ってみて、入社2年目の始めにその会社に岸と一度だけ行ったことを、やっと思い出したのだった。
「お嬢さんしかいらっしゃらなかったように記憶しますが」
「娘3人だったな、長女が婿を取ってるらしい、その婿が後を継ぐと考えるのが一般的かな」
岸はマグカップを空けると、ごちそうさまと言いながら、2課の部屋に向かった。傍で聞いていた花谷が話しかけてきた。
「もし課長が取り返せたら三木田さんマジヤバいですよね」
「うーん、正直難しいとは思うけど、もしそうなると微妙なんだよなぁ」
「とりあえず取り返せたら焼肉でいいです」
「期待しないように」
彼が後輩である手島から得た情報は重要だと感じた。昨夜奏人にこの件について少し話すと、同族嫌悪の可能性を彼は口にしたのだ。社長自身が同性愛者でなくとも、ごく近い人がそうであったりして、何か嫌な思いをしたのかも知れない。ならば暁斗たちがただ謝るだけでは良いアプローチにならない。
「……課長割とタフですよね」
花谷はパソコンの画面の上から暁斗を覗きこんできた。
「何か落ち込んでるなと思ったら知らない間に浮上してるし……僕ならこの状況で他所の仕事の尻拭いなんか出来ないですよ」
暁斗は苦笑する。自分の単純さと、彼のドライさの両方に。
「他所の仕事じゃないだろ、1課の仕事も2課の仕事もトータル会社の業務」
「それはそうなんですけど」
彼は自分のパソコンに視線を戻したようだった。浮上しているのは奏人のおかげだ。昨夜23時にタクシーを呼び、万札を2枚手渡そうとすると、奏人は頑として受け取ろうとしなかった。しかし暁斗がいろいろ言い募り、やっと1枚だけ持って行ってくれた。
一緒にいるところを極力誰にも見られない方がいいと言って、奏人は玄関で暁斗を止めた。抱きしめようとしたら、帰れなくなるから駄目、と困ったように拒むのが愛おし過ぎて、また涙が出そうになった。軽い口づけだけ交わし見送ると、本当に奏人がいた時間が幻だったように感じたが、疲れを押して、暁斗の萎えた気力を呼び起こすべく足を運んでくれた奏人の思いは、確かに暁斗に届いていた。
手島は、小さくなりながら暁斗と岸の前にやって来た。見送る三木田は不機嫌そうである。そもそも昨日の件を、岸に上げた暁斗が気に食わないし、岸自らが2課の持ち場に足を運ぶことも気に障る。それが暁斗にも伝わってくる。
「シャキッとしろ、陰気な顔で行くと不快感を与えるぞ」
岸に言われて、手島は小さくはい、と答えた。1課の面々が、行ってらっしゃいと3人を送り出す。東京駅まで来ると、岸は別の場所に向かうべく、頑張れよと言いながら、山手線の反対回りのホームへ向かった。
「えっ、桂山課長と僕だけで行くんですか」
「私だけじゃご不満ですか?」
手島が驚くのも無理はなかったが、暁斗は冗談で返した。
「まさか、でもいいんですか?」
「岸部長が三木田課長に謝ってくれるよ」
目指す会社は中野駅の近くだった。移動時間が割とあるので、暁斗は手島と他愛無い話をしながら、彼の緊張をほぐしてやると同時に、営業マンとして有利な面と不利な面を見極めていく。
「桂山課長は、その……あんな風にカミングアウトしちゃってほんとに良かったんですか」
新宿で乗り換えて一息つくと、手島は遠慮がちに訊いてきた。
「本当はもう少し後にしたかったんだけど、流れ的に仕方なくて」
「相手のかたもご存知なんですか、課長が会社で……きつい思いもされてるって」
「相手のかたって誰を想定して話してる?」
暁斗は念のため、横に座る若者に訊く。
「えっ、その……風俗店の人って恋人なんですよね」
「誰がそんなことを?」
手島は目をぱちくりとさせた。
「営業や企画じゃそういうことになってる感じですよ、会見で否定なさらなかったじゃないですか」
なるほど、と暁斗は呟いた。
「まあぶっちゃけそうなんだけど……」
「桂山課長が風俗に勤めてる人と仲良くなるとか、センセーショナルです」
「SEが本業だし普通の子だよ、高校生の頃には自覚があったらしいから俺より長くゲイとして生きてて……ゲイってことを隠して悩んでる客が多いらしい、そういう人のために働くのを誇りにしてる」
手島はふうん、と感心したような声音で言った。
「もうデリヘルは退職を決めてたんだ、でなくてもたぶん今回のことで辞めないといけなくなっただろうけど」
「あ、副業禁止なんですね」
「そこをきつく叱られたんだって」
奏人の話を他人にできることが、暁斗の気持ちを明るくする。隠さなくてはいけないという気持ちから解き放たれるのは、悪くなかった。
駅前の商店街を外れて少し歩き、小さな店舗が立ち並ぶ通りに、目指す会社はあった。手島は明らかに緊張した様子を見せたが、暁斗とて気楽な案件ではない。暁斗は時計を確認してから、扉を開けて明るく挨拶する。
事務室には70代とおぼしき男女が事務作業に勤しみながら座っていた。好々爺と言って良さそうな男性が社長で、恐縮そうに迎えてくれる。暁斗の記憶に、15年前の彼の姿が蘇り、この場で再会しなければきっと思い出せなかっただろうと、冷静に分析した。当然なのだが、歳を取ったなというのが一番の感想だった。暁斗は彼に名刺を渡して、先に手島に謝らせた。社長はきまり悪そうな表情になった。
「いやいや、別に昨日の話がどうこうという訳じゃなかったんですよ」
社長は奥の古い応接ソファに2人を案内した。おそらく15年前と室内のレイアウトなどは変わっていない。暁斗は事務室を見渡す。
「あら、あなた……すごく前に岸さんといらっしゃったわね、違うかしら?」
紅茶を淹れてくれた細身の女性は、確か社長の妻だ。暁斗は彼女にも名刺を渡す。
「覚えていてくださいましたか、嬉しいです」
「イケメンは忘れないのよ、うふふ……課長さんなの、偉くなられたのね」
彼女は笑顔になった。夫婦とも暁斗たちの訪問を不快に思っている様子が無いだけに、暁斗はどう話を運ぶかと逆に探る。
「初めてこちらに伺った時は今の手島と同じ年齢でしたので、多少肩書きがついていないとその方がまずいです」
「そりゃそうだなあ……あれ、桂山さん1課か、手島さん2課なのに?」
社長が名刺を見ながら言った。暁斗は呼吸を整えてから言う。
「そもそも私のことが書かれた記事でお気を煩わせたことがきっかけだったと聞きましたので」
社長は目を見開き、社長夫人は盆を持ったままその場で固まった。手島が息を詰めているのがわかる。
「あれ……桂山さんなのか」
社長が恐る恐ると言った風に確認してくるので、暁斗は笑顔を作りはい、と応じた。夫人が気を取り直したように口を開く。
「そうなの、驚いたわ……じゃあその……おひとりなのかしら?」
「今はそうです、5年前に離婚しています……私は自分の性的指向に気づくのが遅かったんです、別れた妻には申し訳ないことをしました」
夫婦はほとんどあ然といった様子で暁斗を見つめていた。やがて夫人が夫に言った。
「だから言ったじゃない、あんな話手島さんに振ったりして! 上司のことなのにしらばっくれる訳にいかないし、ましてや」
「おまえは黙っていなさい、まさかご本人が来るとは思わないだろうが」
「あなたがだめなんです、いろんな人が抗議してるような下衆な記事なんか面白がって」
2人の会話が夫婦喧嘩の様相を呈してきたので、逆に暁斗が慌てた。
「いやいや、すみません、私がこんなこと言っても仕方ないのは重々承知していますが、私個人のことでうちの会社のものを使っていただけなくなるのは……と考えたまでなんです」
夫婦ははたと静まった。仲が良いのだなと、場違いにも微笑ましくなった。5秒後、また夫人が口火を切る。
「違うの桂山さん、うちは来年度からこの会社を長女とそのお婿さんに任せることにしたのよ、それで古くなった事務所のものを新調したいとお婿さんが言ってて……」
そうなんですか、と想定の範囲内ではあったが、暁斗は驚いてみせる。社長が困ったように後を引きつぐ。
「婿の同級生におたくのまあ……ライバルみたいな会社に勤めてる奴がいるそうなんだ、だからそこに任せたいと言い出して」
「あ、なるほど」
「わしらはこれからのことに口出ししないと娘夫婦に言ったんだよ、そちらに春から机や椅子の買い替えを提案してもらってたのにそんな風で、言わなきゃいかんなと思ってたら……」
たまたま手島がやって来て、社長が暁斗の記事を話題に出した。揶揄するような口調になってしまい、手島が軽く嗜めた。少し腹が立ったのは確かで、勢いもあって会社に電話してしまった。
「申し訳ないことをした、桂山さんのせいじゃないんだよ、手島さんが若いもんだからちょっとムカッときたけど、今時は手島さんの言うことが正しいんだろうし……」
それでも、暁斗と手島に社長の気分を害する要素はあったということだ。
「社長、手島の言葉にムカッと来たとおっしゃいましたけれど、……何て言ったんだ」
暁斗は確認のために手島に話を振る。手島は言いにくそうに、社長のほうを見ずに口を開いた。
「同性を好きになるのは決して病気でも特殊なことでもない、そういう言い方をするとこれから社長のほうが非難されますよ……と」
若い手島と70代半ばの社長とでは、同性愛に対する感じ方が違う。
「まあ生意気だったかな」
暁斗に言われて、手島はすみません、と小さくなった。社長がためらいがちに口を開く。
「手島さんの言うことはわかるよ、しかし何というのか……ついこの間までそれは変だと言われていたことが正しいってなって、取り上げ方を間違えたら叱られるってのに……ついていけないんだよ、最近そういうの多くて、わかるかなぁ」
暁斗は頷いた。同性愛に関しては暁斗は当事者なので、それは違うと言えるが、他のことは分からない。分からないのに納得のいく説明も無いままそれは違うと言われると、確かに不愉快だと思う。
「わかりますよ、私も日頃自分の何気ない発言で他人を傷つけているかもしれないのが怖いです、皆があまりに正論を振りかざして、意味もわからないまま発言を封じられる人が出るのは困りますね」
社長は少しほっとしたような顔になる。盆を片付けた夫人が戻ってきた。せっかくなのでお茶に口をつける。いい香りだった。
「何の紅茶ですか? 甘い香りがしますね」
暁斗に訊かれて、夫人は嬉しそうにバニラですよ、と答える。言われてなるほど、と思う。そんな暁斗を見て夫人が笑った。
「昔いらっしゃった時に大福を出したのよ、今思えばあんなもの出してって思うんだけど、桂山さん美味しそうに食べてくれたの」
ああ、と暁斗は思い出して笑った。
「意地汚く食べて後で岸部長にちょっと言われました、おまえ何しに来たんだって」
社長がぷっと笑った。
「出されて食べない訳にはいかないしなぁ」
「それ以前にたぶん昼前で腹減らしてました、でも未だにあれ以上美味しい大福に巡り合ったことないですよ、近所のお店っておっしゃってましたね、確か」
あら、と夫人は声を立てて、さもいいことを思いついたと言わんばかりに、言った。
「店主が歳で今は週3日しか営業していないのよ、今日お店やってると思うからおみやげに持って帰ってちょうだい」
えっ、と暁斗は言った。これは想定外の展開だった。止める間も無く夫人は財布を握って飛び出していってしまう。
「手ぶらでお帰しすることになる、饅頭くらい納めさせてください」
社長の言葉に暁斗は恐縮する。夫人がいなくなったからか、社長は積極的に話し出した。
「桂山さんに訊きたい、不愉快だったら答えなくていい、桂山さんはほんとは男が好きだって気づかず結婚したってことなんだよね」
「はい、妻のことは好きだったんです」
「どうして違うと分かったの?」
「夜の生活が苦痛だったんです、自分でも何故だか分からないし、妻にはがっかりされるし……彼女と暮らすのにそれ以外は不満はありませんでした、だから悩みました」
手島まで暁斗のあけすけな話しぶりに驚き、興味津々な顔になっている。まあ仕方ないだろう。
「一人になってからもしかしたら、という思いはずっとあったんですが、自分が男が好きなのかどうか確かめたいと思ったんです……ゲイ専用のデリヘルがあると知って電話してしまいました」
社長はデリヘルも事実なのか、と呆れたように言った。暁斗は苦笑する。
「すみません、他に方法は無かったのかって話で……でもそれで確信を得たんです、しかも来てくれた男の子に夢中になりました、女性相手に感じたことのない気持ちでした」
「……それがあの28歳の……」
はい、と暁斗ははっきりと答えた。社長ははぁ、と応じたきり言葉を失った様子だった。
「夏に妹に変態と言われてしまいました、たぶん今社長も同じように思ってらっしゃるかと……そう感じられることを非難しません、ただ……私がパートナーを思う気持ちは、社長が奥様を思われるお気持ちとそう変わりはないし、そんな気持ちになるものなんだと教えてくれたパートナーに感謝しています、それは少しわかって欲しいなと考えています」
暁斗は話しながら思う。本当にそれだけなのだ。隣に寄り添っているのが男だからというだけで、奇異なものとして扱わないで欲しい。
「桂山さんは別れた奥さんとの間に子どもは欲しくなかったのか、あなたがその男性を愛していることは良くわかった、ただ一緒に生きて行くとか家族になるとかいうのは……相手を愛するだけでは成り立ちにくいと思うんだよ」
社長は真剣な表情になっていた。この人は「違い」に対する想像力は欠けるかもしれないが、分からないことを解決したいという気持ちがある人だ。取り引きの関係を失くしたとしても、このように話せる人だとわかっただけで暁斗は十分だと感じた。
「そうですね、弟の子どもたち……甥は可愛いです、でも妻との間に子どもがいたとしても……問題は解決しなかったでしょうね」
暁斗の言葉に社長は少し沈黙し、これまで見せなかった哀しげな表情をちらりと見せた。暁斗はそれに引っかかったが、彼が口を開くのでその言葉に集中する。
「同性と結ばれても子どもは望めない、桂山さんはわしらが仲がいいと思ってくれているようだが、娘たちがいなければここまでやって来れなかった……それは確かだ、鎹になるものを持たない番は弱いんじゃないかと思うんだが」
一理あるなと暁斗は思う。蓉子との5年間も、セックスレスを置いておいても、ずっと2人で顔を突き合わせる一種の息苦しさのようなものは、全く無かったとは言えなかった。
「そうですね……私はもともと、血の繋がりがあってこその子どもや家族だという考えはあまり無いんです、日本ではまだまだ難しいでしょうが同性カップルとの養子縁組ができる国もありますし……でも」
暁斗には蓉子との結婚を意識し始めた頃からの思いがある。それを話そうと思った。
「家族の基本って夫婦というか、まず一つの番ですよね、そこがしっかりしていないと、子どもが巣立ってから熟年離婚なんかになる訳でしょう? 異性カップルでも同性カップルでも条件は一緒なんじゃないでしょうか」
社長は腕組みをして、うーん、と唸った。
「……まさか社長、奥様と今から別の道を歩むことなんて考えてらっしゃらないでしょう?」
暁斗の言葉に、社長は小さく笑った。あちらがそう考えてたらわからんが、と言う。
夫人がビニールの袋を持って戻ってきた。
「午前に販売する分の残りを買い占めてきちゃった」
パックの中には大福餅が12個並んでいた。足りないかも知れないけど、会社に帰って分けてちょうだい、と彼女は言った。暁斗は手島と2人して頭を下げる。
「こちらが手ぶらでほんと恐縮です……あ、今朝新しいラインナップの仮カタログが出来たんです、紹介だけさせてください」
暁斗は手島に、出来立てほやほやの女子大コラボ商品のカタログを2人に手渡させる。ざっくりとした説明も彼に任せた。夫人はあらきれい、と感嘆の声をあげた。
「明るい色はやはり女性の目を引くと思いますが、ベーシックなお色も作製予定です、機能性にも注目して頂ければと」
「座ってて楽な椅子はいいわねぇ、私個人でうちで使おうかしら」
夫人は背もたれが背筋に添い、座る時間が長くても疲れないのが売りの椅子に目を止めた。女性のほうが腰に負担を感じる傾向があるようで、山中によると、大学生たちも楽な椅子のアイデアを一番に出してきたという。
「もちろん椅子だけでもお分けできます、もしご自宅のリビングや書斎でとお考えでしたらコロコロの無いタイプがいいですね」
手島は滑らかに説明する。社長は楽しげにカタログのページを繰る夫人を、苦笑しながら見ていた。
「いやはや、商売上手だね」
「たまたまなんですよ、発表が済んだばかりなものですから……もちろんお嬢さん夫婦のお考えに横槍を入れるつもりではありませんので、そこは一応」
暁斗は言うと、夫人が笑った。
「うちの娘がこれ見てお婿さんと喧嘩になったら困るわねぇ」
「余計な火種を蒔くことにならなければいいですが」
「あらやだ桂山さん、うちで炎が上がっても焼けずに残る自信がおありなんでしょ?」
暁斗は笑った。面白くてしっかりした女性だ。真面目な社長と良いコンビだと思う。
とにかくこれ以降のことはゴリ押ししないと決めて、暁斗は手島と事務所を辞した。代替わりの前に一度岸に会いたいと社長が言うので、そう伝え時間を作らせるよう約束する。
「……桂山さん、男が好きだという人たちの気持ちは基本分からんが、女が好きなのと一緒だというあなたの話はよく分かった、その子とどうなるのがあなたの幸せなのかも分からないけど、まあ……頑張って」
社長は少し迷ったようだったが、そう言って送り出してくれた。素直に嬉しかった。暁斗は深々と頭を下げた。暁斗たちが駅に向かう道の角を曲がる前に一度振り返ると、夫人が少女のように小さく手を振ってくれた。
「ご迷惑かけました、ありがとうございました」
手島は駅までほぼ無言だったが、空いた電車に落ち着くと、大福餅の入った袋を大切そうに膝に抱きながら言った。
「あれは全然怒ってるとは言えないよ、拍子抜けしたけどまあ良かった」
これまでに暁斗はもっと厳しい修羅場を経験している。あまり好ましくないが、こちらに非がある時は、土下座も辞さなかった。
「まあでもご縁は切れてしまう可能性が高そうだ、世代交代は仕方ないよ……岸部長と三木田さんにそう報告しよう」
はい、と言ってから手島は何か言いたげな表情をする。暁斗は話すよう促してやる。
「桂山課長すごいですよね、一瞬で奥さんのこと味方につけて結局社長を納得させた」
「家族経営の会社は女性が結構肝だよ、お嬢さんたち外回りしてるって言ってたけど会いたかったなぁ」
「それが他人に興味を持つってことですか?」
「興味湧かない? 俺がおかしいのかも知れないけど」
手島はいや、と言い、何か奥が深いと呟いた。暁斗は小さく笑う。
「別に奥なんか深くない、俺は結局人と話すのが好きだし相手が喜んでくれるのを見るのも楽しい、シンプルなことだ」
「……僕取引先の人に突っ込んで行くのがたぶん少し怖いんです」
これは手島の良いところだと暁斗は思う。昨日探らせた情報、つまり社長がそんなに怒ったようには見えなかったという手島の話はほぼ正しかった。彼は自分のことを含め、物事を客観視できる。そして若さのせいもあるだろうが、やや人見知りするようだと暁斗は感じた。これは必ずしも欠点とは言えない。図々しく突っ込む営業を嫌う人にとっては、手島くらいの距離感を保ってくれる営業マンのほうが気が楽だからだ。
「いつも突っ込まなくていい、それは相手を見て決めることだからな」
「はい……ああ、プライベートなお話いろいろ聞いてしまいましたけどオフレコですか?」
取引先の社長に話してオフレコもないだろう。暁斗は苦笑する。
「いや、もうオープン事案でいいよ……飯食って帰ろうか、昼から出る連中がいる時にそれ持って帰ったら争奪戦になるから」
暁斗は大福餅を指差して言った。せっかく社長夫人が走って買ってきてくれたのだ、絶対1個は食べたい。手島ははい、と今日一番の晴れやかな笑顔を見せた。暁斗もほっとして頬が緩んだ。昼を食べながら、年寄りの価値観を想像し尊重しながら話をする方法を、おじさんとしては伝授してやれば良さそうだった。
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