「カナ」
骨と皮だけになった、という表現がぴったりの老いた手が、奏人の手の甲をそっと包む。いつも温かかったはずのその手は、無機質な冷たさで、老人が死の時を迎えつつあることを奏人に伝えていた。
「はい、先生」
「明後日病院に放り込まれることになった、今日好きな本を選んで帰りなさい」
西澤老人の言葉はしっかりしていた。身体は病み衰えても、日本最高とされる大学の名誉教授であり、複数の学会の会長を務めたその頭脳は、最後まで明晰だろう。そうであって欲しいと奏人は思う。
「幾つかは私が選んでおいた、それも検分して要らないと思うなら置いて行くといい」
「ありがとうございます」
奏人の礼儀正しさを西澤は愛した。それは彼が若い頃……今の奏人よりずっと若い頃に憧れたひとを思い起こさせるからでもあった。
そのひとは金谷という名で、彼をカナさんと呼んでいたこともあり、西澤は目の前の孫ほどの年齢の美青年――奏人は世界各国の小説に登場する美青年たちのような華やかさは持ち合わせてはいないが、西澤にとっては十分その称号に相応しい者だった――を、この6年間「カナ」と呼んできたのだった。
「きみには大学院に進んで欲しかったな、今からでもそうする気はない?」
西澤の言葉に、奏人は苦笑を返した。
「マメが悪い、アメリカから戻ったきみの受け入れ先をちゃんと用意しなかったんだからな」
マメとは、奏人の学生時代のゼミの担当教官だった豆谷教授のことである。豆谷が奏人を研究者への扉に導き損ねたと西澤が考えているのには気づいていた。それを奏人の前で口にしたことが、西澤の遺言のひとつを聞かされているようで、奏人はそのどす黒さを伴う思念を振り払おうとする。
「豆谷先生は声をかけてくださいました、僕がその気になれなかったんです……僕が決めたことです」
「そう言うと思った、カナは優しいね」
西澤は薄く笑った。奏人が彼と出会った時、彼は80に手が届く直前だったが、その若々しい語り口や行き届いた身なりは、スーツが映える体格と相まって、後期高齢者の男性のイメージと掛け離れていた。こんなに痩せてしまわなければ、今だってカルチャースクールのご婦人方や、鄙びたものの価値を知る女子学生の憧れの紳士だったに違いない。ただし、彼は男性しか愛さない人だけれど。
「僕には研究者になる能力も才覚もありません、先生は僕をいつも買いかぶってくださるけれど」
奏人は何度となく口にした台詞をまた繰り返す。西澤は小さく笑った。上下する胸板の薄さが痛々しかった。
「カナ、誰かの光になりなさい……これまで私の光であったように」
「光?」
西澤は頷いた。
「私のせいであんな仕事を長く続けさせて申し訳なかった、今だと感じた時は迷わずすぐに辞めなさい」
奏人は言葉を探した。西澤の真意がわからない。
「愛する人が見つかったならばその人のためだけに……私は本当はきみにもっと……別の方法で沢山の人の光になって欲しいけれど」
「僕はあの仕事が好きです、指名してくださるかたには、その……光とは言わなくても」
珍しく言葉に迷った教え子を見て、やはりきみは若いな、と西澤は小さく言った。
「妙に老成していると思ったらそうでもなかったり……言い方を変えよう、他人のために自分が在るのではなく、自分のために自分が在るのだと考えて欲しい」
西澤の落ち窪んだ眼窩の奥の目には、力があった。
「そして何が自分の幸せかを考え掴みなさい、アルコール漬けの牢獄に収監される哀れな囚人の最期の願いだ」
奏人は西澤が少し話し疲れたことを見て取ったので、言葉に甘えて彼の書斎に向かった。カーテンが開け放され、部屋の中は明るかったが、部屋の主があまり使っていない侘しさがあった。いくつかの本棚に空きがある。豆谷も手伝って、蔵書を処分したと聞いていた。一部は西澤が教鞭を執った二つの大学に寄贈したというが、なかなか多くは受け入れてもらえなかったのだという。
奏人のために西澤が選んだ本は、ダンボール箱にきっちり詰められ、持ち主がもはや座れなくなってしまった大きな机の側に置かれていた。背中だけざっと確認する。続けてヨーロッパの古い図書館のように、天井近くまでびっしり本の並ぶ棚を見上げ、踏み台を動かした。こんな作業も今日が初めてではなかった。
研究者の蔵書はその人の血肉だ。奏人は様々なジャンルの、数カ国の言語の本のタイトルを目で追いながら、西澤が召されてもこれらに彼のかけらが残るのだと思う。本来、ここにある本は研究者や学生が読むべきで、一介の労働者でしかない自分には相応しくない。なのにまず自分に好きなものを取れと言う西澤の気持ちが切なく、重い。そして奏人は、知恵の実をかじって罰せられた者の末裔として、ある意味性欲なんかよりずっと罪深い、飢えたような好奇心と知識欲に身を委ねてしまうのだった。
軽い音の呼び鈴が鳴る。奏人は数冊の本を紙袋に入れ、西澤の代わりに玄関に向かう。訪問診療に来る医師と看護師だった。
「ああカナさん、いらしてましたか」
この中年の気のいい医師が自分のことを、西澤のお屋形様のお小姓などと呼んでいるのを奏人は知っていた。こんにちは、と笑顔で応じる。
「先生はどうですか?」
「眠ってらっしゃいます、40分くらいかな」
医師は西澤の意向に沿って、彼を自宅で看取りたいと考えていた。しかし横浜に住む西澤の妹夫婦が、強引に病院を決めてしまった。
看護師と3人で寝室に向かうと、痩せて小さくなった老人は静かに寝息を立てていた。奏人は息をついた。一瞬、嫌な想像をしたからだ。
「カナさん、あなたの連絡先をいただきたい」
医師は西澤を起こさないように脈をとりながら、奏人に言った。
「ちょっとあの横浜の人たちは……先生ももう少しお元気ならきっと入院を拒まれたのでしょうけれど」
「僕でいいのですか?」
たまたま医師が来る日に、世田谷方面で仕事があり、西澤の家を訪問することが続いただけなのに。奏人は困惑したが、寝室の隅に置いていた鞄から名刺入れを取り出した。奏人の名刺を見て、医師は目を丸くした。
「えっ、SEさんなんですか? ポスドクさんか何かだとばかり……」
あの子は私の最後の教え子であり恋人なんだ。西澤は医師に奏人のことを、笑いながらそう説明していた。そのことを奏人は知らない。
「はい、外回り中だとすぐに電話に出られないかも知れません」
医師はそれは構いません、と応じた。
「先生もあなたを呼んで欲しいとおっしゃるでしょうから」
「……ではお願いします、番号を登録しておきたいので頂戴できますか?」
奏人は西澤のために、病院で使う身の回りの品や着替えを準備してから、医師と看護師に暇を告げた。仕事の約束があった。
もうこの家でこの人に会うことはないだろう。西澤の頰の痩けた寝顔を見ながらそう考えると、奏人の胸に迫ってくるものがあった。
「……カナ、帰るのか」
西澤は奏人が鞄とパソコンケースを手に取った時、小さな声で言った。奏人は二つの鞄を床に置き、ベッドに近づく。膝をついて上半身を西澤のほうに傾けた。
「本は神楽坂に送ればいいかな?」
「はい、よろしくお願いします」
西澤の目には、さっきのような力がもう無かった。奏人はそっと腕を伸ばして、彼の肩に巻きつけた。こんな姿になっても身だしなみを忘れない彼から微かに香るオーデコロンと、その中に混じる死を感じさせる匂いに、奏人は涙を堪えながら、ごつごつとした肩を温めるように抱きしめる。今まで何度となくそうしたように。しかし今日は、相手から背中を抱いては貰えなかった。
「病院には来てはいけないよ」
「……それは僕が決めることです」
「生意気になったね」
奏人は西澤がいつも喜ぶ場所に唇を押し付けた。頬骨の固さが胸に痛かった。
「カナさん」の愛情表現にやや呆然としている医師と看護師に深々と頭を下げてから、奏人は古い洋風の建物を出た。腕時計を見て、夜までのタイムスケジュールを頭の中で整理する。あちらの仕事の開始は、今日は20時。これから一件回り、本社に戻り、本とパソコンを置きに帰ってシャワーを浴びる。大丈夫、今夜も僕は僕を求める人の光になれる。奏人は涙を押し込め、自分を鼓舞しながら、駅を目指した。
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