暁斗が浴室を片付けて消灯し寝室に入ると、奏人は壁のほうを向いて眠っているようだった。割といつもバタンキューなので、と話していたが、朝からフルタイムで働き、週5日夜遅くまで体力を使う副業をして、疲れない筈がない。暁斗は彼を起こさないように静かにベッドに上がる。肌布団を占領されていたが、布団が無くても眠れる気温になっていた。次に彼が来たときは、エアコンが要るかも知れない。
スマートフォンのコードをコンセントに挿して、奏人の顔を背中から覗きこむ。無防備に眠っていた。よく懐かれたものだと一人で微笑しながら、暁斗は横になった。細いうなじが、カーテンの隙間から入る僅かな光に浮かぶ。
今日奏人がやって来てから今まで、そんな気持ちにほとんどならなかったのに、白いうなじやきれいな形の耳を見ていると、明らかに欲情と呼べる熱いものが暁斗の身体の奥で目を覚ました。起こしたら可哀想だと思いながら、触れたいという欲求に負けて、目の前に横たわる奏人の肩に腕をのばす。そっと腕を巻きつけて、頰に触れた髪の匂いや感触を楽しんでいると、奏人が僅かに身じろぎし、顔をこちらに向けようとした。唇の端にその柔らかな耳たぶが触れた瞬間、暁斗の中で何かが弾ける。
「桂山さん? ……あ」
耳たぶを熱い唇に挟まれて、奏人は声をあげた。自分が寝込みを襲われて、背後から羽交い締めにされていることにようやく気付き、驚いて上半身をよじろうとする。その動きを封じてしまうのが暁斗には楽しい。 暁斗がそのまま唇をうなじに這わせると、奏人は肩をすくめた。
「ごめん、奏人さん、少しだけ……」
暁斗は言い訳をする。自分でもみっともないと思う。腕の中でくすっと笑い声がした。
「少しだけで済むのかな?」
暁斗は横っ面をひっぱたかれたような気分になる。少しで済ますには、距離が近過ぎる。暁斗は今なら奏人を思いのままにできるし、それを拒まれるとは思わない。
どうしましょうか、と奏人は笑い混じりに言って、自分の胸の前でしっかり組まれた暁斗の腕に手をかけた。奏人の魔性が目覚めてしまったと暁斗は思う。もう溺れるしかないのだ。身を乗り出して、すべすべした頰に唇を押し付ける。そこは熱を帯びていた。眠くて体温が上がっているだけではない気がした。
「奏人さんが欲しい」
それでどうしたいのか自分でもよく分からないまま、思わず言う。腕の中の魔物は小さく息をついた。
「この間言ったことに変わりはないです、僕はあなただけのものになりたい」
「……本気だったら嬉しい」
「こんな冗談をあなたのような真面目な人に平気で言うほど僕は腐ってない」
うん、と暁斗は認める。腕に伝わってくる奏人の鼓動は早かった。
「でも僕は他人の手垢まみれです、自分で構わないと思ってしてきたことだけれど……何だかあなたにすごく申し訳なくて」
古風な考えかたをするのだなと、暁斗は少し驚いた。それは以前暁斗が、この部屋に通うようなことがあるならば、あの仕事を続けることは考えて欲しいと言ったのが影響しているのだろう。暁斗のその考えは変わっていない。やはり奏人が他の男の肌に触れているところは想像したくない。
ただそれは、奏人が今までどう生きてきたのかということではなく、これからどう生きて欲しいのかということだ。奏人があの仕事を大切に思う気持ちは尊重したいし、現在の奏人を暁斗がどう受け止めているかは、また問題が別である。暁斗は言葉を選ぶ。口先だけの、あるいは不明瞭な表現は、奏人にごまかしだとすぐ悟られてしまう。
「あなたが他人の手垢まみれであろうがなかろうが……俺の大切な人であることに変わりはないよ」
「……ありがとう」
「あなたがあの仕事をしていなかったら……出会うこともなかっただろうから」
それは厳然たる事実だった。熱い思いがこみ上げてきて、暁斗はもう一度奏人の耳たぶに唇をつけた。顎を撫でて、喉元へ。優しく数度唇をつけ直し吸うと、奏人は身体をぴくんと震わせながら、吐息を洩らした。どちらともなく唇を求めて、舌を絡め合うと、暁斗にはもう、今腕に抱いている生き物が何者であってもいいと思えてくる。男であろうが、女であろうが、人でなかろうが……ただ奏人という名を持つ、自分に全てを与えようとしてくれている愛おしい存在。
不自然な体勢でキスしていることが可笑しくなり、お互い少し笑いながら唇を離した。えっと、と言いながら、奏人はためらいもなく身につけているものを全部脱いで、暁斗の下に潜り込んだ。
「僕が上のほうがいい?」
「あ……これでいい、かな」
うながされて暁斗も服を脱ぐ。抱き合うだけで、相手の肌の温もりに陶然となる。暁斗が細い首に口づけを浴びせていると、奏人は強い力で肩を抱きしめてくる。紛れもなく自分が愛撫しているのが、生物学的に男であることを感じて、一瞬妙な気持ちになった。なのに身体は彼を欲していて、股間に熱が集まってくるのが痛いくらいだった。
「もうこんなになって」
奏人は口許に笑いを湛えて暁斗に言う。
「挿れてみる?」
暁斗は訊かれて、動きを止めた。興味はあった。どんな感じなんだろう。……しかし奏人の、長い睫毛に縁取られた目を見ていると、大切なことに気づいた。
「いや、それはいい」
「いいの?」
「だってあなたの顔が見えなくなる」
暁斗の言葉に奏人はそう、と唇をほころばせた。そう、こういう表情を見ていたいから、今はいい。間を置かず硬くなった二つの突起を舌と指先で刺激すると、奏人は声をあげた。
「桂山さ……」
「名前で呼んで」
暁斗は顔を上げて要求した。奏人はあ、とかすれた声を出してから、暁斗さん、と言い直した。愛おしくて、思わず指に力が入る。
「あ、気持ちいい……暁斗さん、そんなに擦りつけてこないで」
奏人の声に笑いが混じる。無意識に腰を動かしていたようだった。暁斗は顔に血が昇るのを感じて、つい冗談に逃げた。
「……しがみついて腰振っていいって言ったからしてる、みたいな……」
「いいけど……絡めてこられるとか初めてでちょっと変な気分」
奏人は暁斗の耳たぶに唇を触れさせながら囁いた。そんなつもりは無かったが、結果的に暁斗は勃起したものを奏人のものに擦りつけていた。奏人も硬く熱を帯びている。
「でもいい、あなたのしたいようにして」
潤んだ目で言う奏人の唇に、もう一度口づけした。それだけで身体が火照る。もっと、とか早く、といった言葉が意識に上る。
「奏人さん、手でして欲しい」
暁斗は行き着いた願望を、我慢出来ずに小さくねだった。奏人はほぼ無邪気と言える表情で頷いた。
「僕にも後でしてくれる?」
「俺の下手くそな手でよければ……」
奏人は身体を入れ替えるように言って、身軽に暁斗の上に乗った。そして暁斗の頰に軽く口づけしてから、胸に顔を埋めて、きゅっと抱きついた。可愛らしくて、守るように華奢な肩を抱いた。
「暁斗さんが大好き」
奏人は暁斗を見上げながら言った。
「いろいろ好きなところがあるんだけど……だからトータルで好きなのか、トータルで好きだから個々のものごとが好きなのか……どれだけ考えても分からない」
暁斗がそんな言葉に脳みそをほわっとさせている間に、奏人の指は暁斗のものを掴んでいた。いきなりの快感に、暁斗は思わず腰を折る。奏人が先っぽを指の腹で優しく撫でたので、暁斗は小さく声を洩らした。
「感じ過ぎ」
「前触れなく握らないで……」
奏人はふふっと笑い、手を動かす。全神経が股間に集中しているようで、暁斗の呼吸は自分でも可笑しくなるくらい乱れた。自分の部屋にいるせいか、今夜はどうも遠慮や我慢がききにくい。思いが身体中からダダ漏れになっている気がする。
「ああ……こんなことをされるのが気持ちいいって知らなかった」
「暁斗さんに新しい世界を見せてあげられて良かったと思ってる」
言いながら微笑する奏人は、もし天使が存在しているならば、きっとこんな姿をしているだろうと暁斗に思わせた。奏人はいつも暁斗を、彼がこれまで知らなかった欲情の甘美な地獄に叩き込むのに、そこから彼を救い出す者のような神聖な佇まいを見せるのだ。
「もうだめ……」
暁斗は降参を宣言したが、奏人はなかなか許してくれなかった。背中に腕を回し、いきなり唇を重ねてきた。痺れるような心地良さに目を閉じると、力ずくで暁斗の口をこじ開けて舌を入れてくる。下半身への刺激は続いていて、何をされているのかわからないまま、頭の中が真っ白になった。
「奏人さ……」
暁斗は奏人の執拗で蠱惑的な攻撃に、身体が形を失って蕩けてしまいそうな気がした。奏人はキスしながら、暁斗のものを膝で擦り上げていた。
「気持ちいい?」
奏人は分かっているくせに訊いてきた。暁斗の返事を待たずにまた唇を重ねる。喘ぎ声もあげられなかった。
「……!」
身体が浮いた気がした。視界が揺らぐ。奏人の唇が離れて、自分の声帯から音が出たのを暁斗は聴覚で微かに捉えた。どの瞬間に昇りつめてしまったのかも分からなかったが、奏人はしっかり暁斗が体内から吐き出したものを受け止めていた。敏感になった部分に、柔らかなものが触れる。暁斗は全てを奏人に委ねて、荒くなった呼吸が鎮まるのを待った。
「今日もいい感じにいってくれたね、こっちまで嬉しくなっちゃう」
奏人は今日も丁寧に後始末をしてくれていた。客とスタッフとしてでなくてもここまでしてくれることに、暁斗は嬉しさと困惑を同時に覚える。大きくひとつ息をつくと、奏人が腕を揺すった。
「暁斗さん? 約束だよ、寝ちゃだめ」
「奏人さん……こんなことはもう……」
暁斗の言葉に奏人はえ? と応じた。
「俺はあなたの客じゃないんだから、ここまで……」
奏人はきょとんとしたが、すぐに笑顔になった。
「お客様として接してるわけじゃない、あなたが好きだからしてるだけ」
「……あなたは仕事でなくてもいつもこんな感じなの?」
暁斗の言葉に今度は奏人が困惑した表情を浮かべた。
「ごめんなさい、仕事でなくするのってほんとに久しぶりで……よくわからなくて、僕はただあなたに気持ちよくなって欲しいだけなんだけど」
暁斗は言い方を誤ったことに気づいた。非難するつもりは毛頭無かった。あまり感覚の戻っていない身体を慌てて起こして、ちょこんと座る奏人の華奢な腕を掴む。
「ごめん、そういう意味じゃない……仕事でするほど一生懸命してくれなくていいって言いたくて」
掴んだ腕を少し引くと、奏人は何の抵抗も見せずに暁斗のほうに倒れてきた。細い身体をしっかりと受け止め、その額に唇を押しつける。
「女性と普通に……しかしたことないものだから」
暁斗はふと、山中から聞いた彼の贔屓のスタッフの話を思い出した。彼も暁斗のように、自分が同性愛者だと気づかず、高校時代から2人の女性との交際の経験があったという。
暁斗の話に、奏人は少し間を置いて、差し支えなければ誰なのか聞きたい、と言った。
「あなたに話すなら問題ないかな、隆史君」
暁斗の返事に、奏人はあ、と心当たりがある風の声を立てた。
「そっか、あの子女性経験あったんだ……」
「何かすごく普通の大学生らしいね、山中さん可愛がってるみたい」
奏人は軽く目を閉じて、良かった、と呟いた。
「あの子大丈夫かなって最初綾乃さんと心配して……若い頃の僕みたいに家庭の事情でお金が要るって言って来たんだけど、まだその時男性と触れ合った経験がほとんど無かったから」
「でも奏人さんもそうだったんだよね?」
「うん、だから同情というか共感というか、割とあった子で」
暁斗は山中から隆史の話を詳しく聞いた時から抱いていた疑問を、恐る恐る奏人にぶつけてみる。
「その……そっちのテクニックとか入社したらみんな研修するの?」
「うん、仕込まれる……今は僕も仕込みを手伝うよ、隆史も初めは僕が教えたし」
予想はしていたものの、やはり暁斗はあ然とする。奏人はあっけらかんとして語る。
「女性のデリヘルでも一緒だよ、1時間ですることの流れを覚えて……デビューの時はベテランのお客様に頼むの、初めての子が好きだってお客様は一定数いらっしゃるから」
「あ、そう……」
奏人は暁斗をじっと見つめてから、くすりと笑った。
「暁斗さん風俗使ったことなかったんだよね、一般企業のジョブトレーニングと変わらないから」
「……まあそうなんだろうけれど……密接な研修で変な空気になるとかはないの?」
暁斗はそれを聞いてどうするのかと思いつつ、尋ねずにはいられない。
「微妙なところかも……僕はほんとに童貞だったから、初めて教えてくれた人たちは今でも忘れられないんだけど」
「最初のお客さんとかも?」
「僕のデビューは西澤先生だよ」
暁斗は後頭部を殴られたような気がした。十分あり得ることだ。しかし奏人の口から聞かされると、衝撃度が違った。
「もう……暁斗さんはそうしてショックを受けそうなことを知りたがるよね、もしかしてマゾヒストの気がある?」
奏人は困った顔になり、少し笑った。自分に何の遠慮や配慮もない腕の中の魔物が、暁斗は俄かに憎たらしく思えてきた。
「奏人さんは分かってない」
「……何を?」
「俺はあなたのことを知りたいからいろいろ尋ねるんだ、でもあなたは俺がショックを受けると分かってるのに正直に答え過ぎだよ」
「隠しても仕方ないでしょ?」
奏人のあっさりした返事にやや呆れて、これ以上話してもたぶん平行線だと暁斗は思い、口を噤んだ。俺も大人気ないなと反省する。つい小さく溜め息をつき、奏人を抱いていた腕の力を緩めた。
「……諦めないでよ!」
奏人が強い声で言った。暁斗ははっとして目を吊り上げた奏人を見つめる。突然の彼の感情の爆発に、心底驚いた。
「どうせわからないって今思ったよね、僕も同じ言葉を返すよ、暁斗さんと僕とは生きてきた世界が違う」
あ然となった。何を飛躍したことを言っている。暁斗もかっとなり、奏人から腕を解いて、声を上げた。
「そんな話はしてない!」
「根本はそこだよ、でなけりゃ何なんだよ!」
今まで聞いたことのない奏人の強い口調に、暁斗は怯んだ。彼は怒りからか、言ったあと息を乱していた。
「それで諦めるんだ、結局僕のことを知りたいなんて嘘なんだよね」
暁斗は別の種類の衝撃を受けた。違う、どうしてそうなる。暁斗はそう言いたかったが、言葉が出なかった。しかしこのまま何も言わなければ、奏人が諦めてしまう。諦めて……夜の仕事の世界以上に暗いところに去ってしまう、そんな気がした。
「俺は何も諦めてない、確かに奏人さんが生きてる世界のことは何もわからないし違和感だらけだ、でも」
奏人は唇を噛んで目を吊り上げたまま、言葉を募る暁斗を見つめていた。理解して欲しいのだ、と強い視線を送ってくる彼を見て思う。透明なバリアを張り巡らし、慎重に他人から距離を置いている、本当は孤独な青年。
「あなたのことをちゃんと知りたい、あなたに俺のこともちゃんと知ってほしい」
随分長い時間、お互い身動きもせず言葉を発さなかったように暁斗には思えた。そして遂に奏人が根負けした。俯いて、手の甲で目を拭い始めた。小さく鼻をすする音がした。
「怖い」
奏人はほんとうに小さく、ぽつりと言った。
暁斗はためらったが、その細い二の腕にそっと手をかけた。涙声が続く。
「分かって欲しいけどその前にたぶん逃げられてしまうと思うから」
暁斗は悔やんだ。自分が無思慮に質問を重ねたあげく、つまらない癇癪を起こしたせいで、奏人の不安の火種に油を注いでしまった。
「逃げない、今だってそんなつもりじゃなかった、でも奏人さんを不安にさせたなら謝る」
「暁斗さんがいる日の当たる場所になんかたぶん出られない」
少し前まで奏人は、自分の夜の仕事の世界を日陰だとは言わなかった。……俺のせいなのか。暁斗は彼の副業を蔑む態度を取り、結果的に彼を傷つけていたことに気づかされる。俺と親しくなって、俺があの仕事への違和感を口にするから、そんな風に思い始めたのか。誇りを持って続けていたあの仕事を。
「奏人さん、悪かった……あなたが日の当たらないところにいるとは思わない、ただ……」
「もう辞めてもいいと思い始めてるんだ、最近少し辛いから……でも暁斗さんとどこで出会ったんだと訊かれても本当のことを言いにくいことに変わりはないし」
奏人は薄暗い部屋の中でもわかるくらい、ぽろぽろと涙をこぼしていた。暁斗は動揺する自分を叱咤する。今すぐ答えが出ない問題だと感じた。しかしこのまま黙って奏人を泣かせておく訳にはいかない。
「奏人さん、焦って今すぐ答えを出そうとするのはやめよう、俺も今あなたに何と言えばいいのかわからない……少し時間をかけて……二人で考えていこう」
暁斗は振り払われる覚悟で、奏人の頰に手をのばした。奏人は暁斗を拒まなかった。涙に濡れた温かくて柔らかい頰を、手の平で拭く。奏人が目を伏せると、長い睫毛が影を作った。暁斗はそれを美しいと思った。
「ごめんなさい、面倒くさくて」
「……だからお互い様だよ」
自分がもっと大らかな性格なら、奏人を悩ませずに済んだのだろう。暁斗は自己嫌悪に陥ってしまった。自分が奏人のことを好きだと言うばかりで、奏人のいる場所をしっかり見ていなかったと思う。……彼より10年も長い時間を歩いているくせに。
「俺はあなたを……例えば西澤先生のようには支えられないと思う、でも頑張りたいから少し……何て言えばいいのかな」
奏人は暁斗の手を取り、大切なもののように自分の手で押し包んだ。そしてそれを胸の前に運び、祈るように目を閉じた。
「僕を置いて行かないで」
奏人は静かに言った。暁斗は意味がわからず、え、と口にする。
「僕が愛したひとはみんな僕を置いて行ってしまったから」
その時暁斗はやっと、奏人の透明なバリアに小さな穴を開けて、素顔の彼に指先が届いたような気がした。彼の孤独感を構成しているもののひとつが、愛する者の死であることは、これまで彼といろいろな話をする中で、薄々感じていた。しかしその不安を自分にも向けてくるとは、思いもしなかった。
「俺はあなたより10も上だ、約束は出来ない」
それでも暁斗は真摯に受け止めた。奏人は目を上げて、暁斗の言葉の続きを待った。
「でももしあなたより先に旅立つことになったとしても……あなたが俺との沢山の面倒くさい思い出と生きていけるようにしたい」
奏人はじっと暁斗を見つめていたが、ようやく少し表情を緩めた。
「こうして素っ裸で延々と語り合ってるとか、面倒くさい思い出になりそうだろう?」
暁斗の言葉に、奏人は黙って頷いた。そして何も言わずに暁斗の胸に飛び込んできた。ほっとして、肌布団を奏人の少し冷えた身体に掛ける。本当に、奏人と沢山の思い出を作りながら、長い時間を彼と歩んで行けたらいいと思った……荒れ狂う、しかしすぐに過ぎ去ってしまうような一時の感情ではなく。
暁斗だって怖かった。奏人と生きていこうとすることで、これまで自分の手元に当たり前に存在しているものの一部を失うかもしれない。すっかり大人しくなってしまった奏人を自分の隣にそっと横たえ、肩に布団をかけてやりながら、暁斗は自問自答する。……奏人を失うか、何かを失うかの二者択一なんて、おかしいのではないか。奏人が男で風俗業に従事していると聞いて、自分を軽蔑し自分とはもう話さないという者がいるならば、そうすればいい。そんな奴などこちらから願い下げだ。ただ、失いたくない人には理解して欲しいと思う。好きになった奏人が、たまたま男だったのだ。それの何がいけないのか――。
「……暁斗さん」
奏人は思索に耽っていた暁斗に小さく呼びかけた。暁斗は彼のほうを向く。
「ありがとう」
自分に何を感謝するというのだろう。胸が痛んだ。暁斗は目を伏せたままの奏人の髪に触れた。奏人も何かと必死でたたかっている。たぶん暁斗の前に立ち塞がるであろうものよりも、ずっと手強いものと。
「少し落ち着いたらきっと元気になれるから……今何処かに行ったりしないで」
暁斗は大丈夫、何処にも行かない、と答える。奏人は遠慮がちに身体を寄せてきた。
「何も心配しなくていいし、無理もしなくていい」
少し冷えた頰を手で包むと、安心したような小さな溜め息がひとつ聞こえた。愛おしいと思う。しかしその思いは、今までと少し色合いが違っていた。愛おしいと思うだけでは、奏人を守れない。薄っぺらい、簡単に切れてしまうような関係は、自分の求めるものではないのだから、奏人の抱える闇も抱きとめていきたい。
自分のものでない温もりに安らぎを覚えながら、暁斗は自分の運命が、この愛らしく孤独な魔物に堅く結わえられたことを、感じていた。
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