一見、手ごろな商船に見えた。
マストの上にある見張り台からの知らせにより、ディードはその船と航路が交わるように舵輪を回し、乗組員たちは勇躍帆を操った。
マストには、ビルキット大陸の北部、アルセリナ地方にある小国の旗を掲げた。
相手を油断させ、なるべく近くまで接近できるように。かつてその国の商船を襲って手に入れた旗だ。
そう。
結局、カナロアは海賊船の様なモノなのだ。
ペガズ共和国という場所自体、海賊のたまり場なのだとも言える。
百年以上前のチェリチ海峡は彼らの縄張りだった。
それを、ビルキット大陸で大きく勢力を伸ばしたアレキサンドル王国の手先である海洋伯たちに奪われたのだった。
だから、彼らは海賊行為を「領海を取り戻すための私掠」と言い、その行為を正当化した。
ペガズの海軍は、単にペガズ政府直属の海賊船か有力者の私設艦隊の群れで構成されており、純然たる海軍の軍艦と言うものは殆ど存在していないのであった。
陸上では魔物に押されているが為に、農業もできない現状であった。従って良くて漁業、そして魔物狩りか闇貿易、若しくは海賊業しか産業が無いペガズでは、多くの男たちが否応なく悪事に手を染めざるを得ないのだ。
そして、この冬は何もかもが足りていない。
特に、春まで乗り切れるだけの食糧が不足している。
政府もほとんど唯一の手段である密貿易で必死に食料を得ようとしているのだが、情勢をよく知る者にとっては徒労のようにも思える。
ディード達の態度も致し方ない所だったのである。
ナナミはキャビン最後方の長椅子に座り、窓の外から泡立つ航跡を眺めていた。
海鳥が二羽、カナロアの後ろを付いて飛んでいる。
何度目かの溜息を、ナナミは吐き出した。
(どうなってしまうのだろう)
と彼女は考えている。
もしこの後海賊行為が成功したとしても、自分が艦長のままでいられるとは思えなかった。ただ、カナロア自体ペガズ海軍に籍は置いてはいるものの、ランプリー家の持ち船ではある。そして当主は兄のカツアキ・ランプリーなのだ。
何時滅んでもおかしくない状態のペガズの街に居るよりも、リスクは高いが私掠業をさせておいた方が安全なのだ、というカツアキの判断により、一応軍人としての訓練を受けていたナナミはカナロアの艦長となったのであった。むろん、国の重職も兼ねている兄は、大事な妹に積極的に国の仕事の中から、私掠よりも通信や工作などの比較的安全な任務を与えてはいた。今回も、アイデンの南部に諜報員を上陸させる任務を授かっていたのだ。
とは言え所詮、お飾り艦長。
ナナミ自身、国を守るとかそう言う高尚な志で志願しているわけではない。
ペガズにいれば居たで、連日の様に結婚話が押し寄せるうっとおしい日常だったからだ。
魔物と戦える実力もスキルも碌に持たない自分は、兄のお荷物になっているとの思いもある。
ただ、何か変わるかと思って漕ぎ出た海でも、やはりお荷物にしかならなかった。
それだけの事なのだ。
(七つの海、か。どこか別の海に行ければ何か変わるのだろうか?)
他人には見せない涙を流しながら、ナナミは窓の外を眺め続けたのであった。
目が覚めた。
おはよう。
前回は凶悪顔のグラムに起こされたが、今回は誰もいなかった。
相変わらず部屋は狭く、丸窓の外はまだ冬の曖昧な日差しが波を照らしている。
そんなに長い昼寝ではなかったらしい。まあ、そうそう長時間寝られるものではない。
冬ではあるものの、部屋の中はあまり寒くない。
気密は保たれているのはあるのだろうが、それだけではなさそうだ。何か魔法の仕掛けでもあるのだろうか。キャビンのカンテラは、間違いなく普通のカンテラではなかった。
スキル決定テーブルには「付与魔法」というのがあった。単に対象にバフを掛ける為の魔法かとも思ったが、そうではなく、物に何らかの効果を付与できる魔法なのかもしれない。
ああもう、スキルや魔法をよく知っている人に色々聞いてみたい。
攻略本欲しい。攻略W〇ki見たい。
さっきから、天井、つまり上の甲板からは、どたどたと足音がひっきりなしに聞こえ続けてる。
色々忙しいのだろう。
誰か捕まえて質問攻めにしたら迷惑だよな~。
と、寝ころびながら思うのであった。
カナロアが相手の船を視認してから二時間。
徐々に両者の間隔が詰まってきていた。
マストが一本のスループ。
ビルキット大陸周辺の交易や漁船でよく私用される船種である。
扱いやすく、必要な乗組員の数も少ない。
当然積載量は少ないのだが、交易に必要な資金が抑えられると言う利点があった。
ある程度近づいてしまえば、帆面積はカナロアが断然上である。
大体の獲物は猟犬を見ると逃げ出し、足の速さの差の前に追いつかれ、降伏するのだ。
抵抗できるような武装をしている商船など殆ど無い。
ペガズの海賊は、積み荷を奪い取ると、船や船員は奪わずに解放するのが常だ。
だが別の海域、例えば南の海域に居る海賊は、船も奪い乗組員も奪ってしまう事が多い。抵抗する者がいればあっさりと殺してしまう。
私掠と称するペガズ海賊が持つ一応の、そして一かけらの良心ではあった。
ディードは相変わらず舵輪を握りながら相手の観察をしていた。
マスト上に居る見張りには、スループに異常が無いか、変わったことは無いか、しつこい位に確認させていた。向こうもこちらを視認したであろう時点で、ダンセルの旗が上がっていた。つまり、ダンセルからアイデンかアイデンの北東のジャバル海沿岸へ向かう商船なのだろう。この時期なら、ワインや食料品、塩、もしかしたら木材を積んでいる筈だ。
対してこちらは、アルセリナにある国の旗が翻っている。
ディードは更に「貴船の船長に会いたい」と言う意味の旗を掲げさせた。
勿論嘘である。
第一、この海域でこの様に近づいてくる船を信用する船長はいない。
ただ、時々引っかかるお人好しの船はいるし、少しでも向こうが躊躇してくれれば儲けものなのだ。
目当ての船は、僅かに逡巡していたが、遂に帆を張り増して大陸沿岸へと針路を変えた。
「追うぞ! 風下へ1ポイント!」
ディードが吠えた。
1ポイントとは、全方位を360度としてそれを32方位で割った11.25度の事である。彼は舵を操作し、乗組員が帆の角度を調整した。
カナロアが本格的に狩りを始めたのだ。
彼我の速度に差があると言っても、一時間やそこらで埋まる距離ではない。
帆船同士の追いかけっこは、意外と長時間続く。
遠くに薄っすらと大地の黒い影が見えてきた。
風向きが変わっており、スループもカナロアも、大陸から吹いてくる風に詰め開きにして目一杯逆らっている。この場合、縦帆一本の艤装であるスループの方が、若干風上に向かって進める利点があり、当初は有利だった位置にいたカナロアは、それを失いかけていた。
しかも陸地が迫りつつある。
この付近は、海岸線の地形が複雑に入り組み、島嶼も多い。
ディードは海図を脳裏に思い浮かべながら、焦りを生じさせた。
日が落ちる前に捕捉したい。何処かの島陰に入られる前に捕捉したい。
沖合なら夜間でも追跡できなくはないが、海岸ギリギリを航行されると、座礁の危険性も増すので諦めざるを得ないのである。
(船首右舷に見える陸地は、半島だったはず。まだ二時間はこの風が続くから、スループは間切りでもしない限り半島の南側へ行くことは難しい。このままでは半島の付け根で我々に追い詰められるだろうから、恐らく……。そろそろ風下へ落ち始め、海岸すれすれを航行し始めるのではないか?)
だから彼は僅かに舵輪を廻し、帆のトリム(向きの調整)を命じたのであった。
ナナミは甲板に戻った。
結局、じっとしていられなかった。
目の前の獲物に夢中になっている連中の邪魔はしたくはなかったが、彼らとカナロアの行く末はこの目で見ておきたかったのだ。
見回すと、カナロアはダンセルとアイデンの国境付近に差し掛かっていた。この辺りの複雑な海岸線は、多数の良質な港になりうるのだ が、少し内陸入った場所に魔界の源「魔坑」が残存している為に、いまだ周辺には多少魔物が出現する事があるのだ。
魔界はゴルゴン大陸だけにあるのではない。
マルアクティ各地に存在する。
二百年以上の時を掛け、多数の有力な冒険者や各諸侯の軍の犠牲により、そのビルキット大陸の西部に根付いていた魔界が事実上封印されたのは、つい最近の十年ほど前の話なのである。
だからこの沿岸部には、まだ人の住居が殆ど無い。鬱蒼とした森林が覆う自然の残る地域なのだ。
近くにいたグラムに簡単な状況を聞き取ったナナミは、フォアマストのシュラウドを登り始めた。背中には望遠鏡を背負っていた。
ディードはきっと苦い顔をして見ているに違いない。
そうナナミは確信しているのだが、もうカナロアは自分の手を離れてしまっている様なものなのだ。ならばある程度勝手に動き回っても文句は言われまい。
やがて十数メートルを登り切り、見張り台へと至る。
「艦長、ようこそ」
見張りの男が出迎えた。
最後の一登りの際、彼は助けの手を伸ばしたが、ナナミは首を振って拒絶し、男の手は戸惑って空中をしばし舞った。
「邪魔する」
登り切ったナナミはそう言うと、早速望遠鏡を構えた。
スループは大陸からの風を横から受け、海岸線沿いを北へ(つまり艦首左舷方向へ)と向かっている。
カナロアとの距離は、一キロメートル程に縮まっていた。
元より地形は複雑で、左手に大きめの島が見え、スループはその海峡へと入り込みつつある。頭の中に刻みつけてある海図によると、この海峡はそこそこ水深があり、危険な暗礁は無かったはずだった。
マストの上は、甲板よりも大きく揺れる。
ナナミも久しぶりに上ったのだが、慣れない揺れ方に戸惑ってしまっていた。
それでも望遠鏡を使い、スループを観察する。
乗組員は確認できるだけで四人。もう一人二人いた方がいいが、人数としては普通だ。
船倉だけではなく、甲板にまで荷物を積んでいるらしく、防水処理をした布でそれらを覆っていた。
同じ横風を受けるのなら、カナロアの方が速い。
もうじき、船首に積んである大砲でスループに警告砲撃をするだろう。
そうすればまず止まらない船は無い。
ただ、ディードはそうしないかもしれない。
資金も資材も枯渇しつつある中で、一発であろうとも弾薬を惜しむ気になるかもしれない。
有りそうにも無いが、スループが空荷だったりすれば大赤字となるのだ。
(まあ、それもいいかもしれない)
ナナミは口元を緩めた。
その時には、元の任務に復帰するだけなのだから。
第八話、了。
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