女将さん、つまりおやっさんの奥さんには何度か会ったことがある。
おやっさんの居ぬ間に二人で、とかではなく「鉄定」に足を運ぶと、たまに店の前を掃除しているのだ。
和服を着ていて、肌は白く、鼻筋が通り、目じりが少し垂れている。若々しさは無いが落ち着いた大人の美しさを放っていた。
年齢は幾つだろう。何歳と予想してもそれより数歳若い回答が返ってきそうだった。
言葉を交わしたことは無い。交わすのはいつもお辞儀だ。俺と目が合うと、おかみさんは竹箒を真横に持ち直し、丁寧にお辞儀をしてくる。
あまりにも丁寧なものだから、お辞儀の後に「いい天気ですね」といったフランクな会話を始めるのにも気おくれしてしまい、逃げる様に鉄定の戸を開ける。
「いいか。あんちゃん。女性と付き合うにあたって忘れちゃならねぇことがある」
「記念日を忘れるな、とか?」
「違う。もっと血生臭いことだ」
言うと、おやっさんはカウンター脇の暖簾を抜けて俺の目の前までやって来た。
さっきまで見上げていた顔を、今は少し見下ろしている。
おやっさん、意外に肌のハリは落ちてないんだな。
「俺もそうだったが、若い時分は女性の外見や仕草、香りといった自分と異なる情報、つまり異性の特徴に意識を取られがちだ。それはある意味正常で、仕方のないことだ。しかし」
そこでおやっさんは語気を強めた。表情も険しくなっている。
「花弁にばかり目を奪われて、肝心の根っこに気付かないのはよろしくない。つまり、どんな美人でも可愛い子でも、あんちゃんと袖振り合うまでに歩んできたこれまでの人生がある。つまり、あんちゃんに愛でてもらうために、地面から即席で束ねられた花束なんかじゃないってことだ。あんちゃんが日常でするようなことは、大体相手もしている」
「異性と言っても、別宇宙の存在なんかじゃない。根っこは同じ人間。何かしらを食って、出して生きてきた。何も違っちゃいないんだ」
「女性も、一歩間違えれば男なんだ。それに」
ドンっ
鬼気迫る演説を止めたのは、頭上からの鈍い音だった。
その音は一度では止まず、今もなおドンドンドンと祭り囃子を締めにかかる和太鼓のテンポで鉄定を叩き続けている。
「今日は親戚のやんちゃ坊主でも来てるの?」
一縷の希望を胸に、おやっさんに聞く。
「いや、今日の来客はあんちゃんだけだ」
悲しい回答を以て望みは打ち砕かれた。けれど和太鼓奏者の正体があの人だとはどうしてもイメージ出来ない。
おやっさんも俺と同じく頭上が気になって仕方ないはずだが、どちらも見上げられずにいる。
ピンと張った視線の糸で結ばれたように、俺とおやっさんは、瞬きもせずに、見つめ合っている。
「じゃあ、上の階、工事中とか」
「そんな金があるなら、店を広くする」
「それはそれで勿体ない気が」
「やかましい」
ドンドンドンと鈍い雨は降り続く。
「やんちゃ坊主が間借りしてるとか」
「あんちゃん、やんちゃ坊主好きだな。フェチか?」
「違わい。俺はインドア派の女の子が好みだ」
ドンドンドン
「おやっさん、サイでも飼い始めた?」
「いくら何でも、サイはうちのかみさんに失礼だろう」
あ、言っちまったよ、この人。
ズドンっ
今日一番の音と共に、鉄定がみしりと揺れた。二人同時に身をすくめる。天井が落ちてこないのが不思議だった。
ズドンっズドンっズドンっ 稲妻が荒れ狂う。
「あんちゃん、さっきの女性の話だがな」
「うん」
「あれはそうだな、男も女もお互い様だ。だからこそ愛しいんだ」
ピタリと雷が止んだ。
雲間から鉄定に陽光が差す。
すくめていた身体を、ゆっくりと伸ばしていく。
「了解。胸に刻む」
「うむ。焦ることは無い。ただ若い時間は短い。気を付けて帰れよ」
「うす」
軽く手を挙げ、鉄定を去る。
□
外では太陽が西に傾き始めていた。普段は白粉ばっちりの雲も、頬を朱に染めだしている。
日を捲る度、日照時間が延びている。何となく嬉しい。
そばを蓄えた胃腸を引っ提げ、家路をゆっくり進む。帰ったらシャワーを浴びて、小説を書くか。
前方から赤い普通自動車が、住宅地に相応しい速度で向かってきた。鉄定に行くかも、と思ってもないことを思い、立ち止まり、目で追う。
のっそりと歩みを進める車は、その色も相まって、大きなテントウムシが這っているようだった。徐に後部座席のドア、もとい羽が開き、夕日めがけて飛び去らないかと、期待した。
そろそろ犬の鼻先ほどしかない、鉄定の駐車場に差し掛かる。
案の定飛ばず、寄らず。
大きく立派なテントウムシは、一つも願いを叶えなかった。今はもう、鉄定後ろの曲がり角を右折し、その姿は見えない。
「鉄定、良い店なんだがな」
その二階建ての一軒家は、地面に短く影を描いていた。
再度、家路を歩く。さっきの飛ばないテントウムシよりは、颯爽としているはずだ。
初めて鉄定を見つけた時は「お喋りオヤジ」等の仮想の常連客にビビっていたが、現在は客の少なさにビビっている。
もしあの時、仮想の常連客に負けていたら、こんなに良い店、良い人を知らずに、大学生活を送ることになっていた。そう考えると、現在がとても幸運に思える。
意志ある者に、女神は微笑む。
並んで走る自転車に追い抜かされた。その二台の乗り手はどちらも学ランを着ていた。あれを見て、若いな、と思う様になったら、おっさんへの第一歩だろう。
ふと思う。俺はいつまでこの土地に居るのだろうか。
大学を卒業しても、あんな田舎に帰る気は更々ない。就職活動もこっちでする。出来れば今の部屋から通える職場が望ましい。
だが未来は信念を除き、不明瞭だ。
就活も特にやる気はないし小説の出版以外どうでもいい。労働にそこまで真剣にはなれそうにない。妥協の妥協の最妥協の結果、他県での採用になっても、俺は鉄定に来るのだろうか。
来るだろうな。
もし久十を離れても、おやっさんに会いに来る。鉄定は不定休だから、事前に電話して確認をとってから来る。これは信念に出来る。
大学を卒業するまでの付き合い、なんて悲しい言葉は要らない。
「あ」
脳が何かに気付いた。体がその証明に取り掛かる。
リュックを背中から腹の前に移動させる。今の俺を横から見れば、ちょっと直線的なアラビア数字の9だ。チャックを開いて財布を取り出し、その中から今年配られた「鉄定そば無料券」を抜く。
画用紙に似た質感の紙に
鉄定そば・うどん無料券
(ざるそば・ざるうどんに限る)
と黒字で、カッコの中は赤字で印字してある。それ以外は何の情報も載っていない。
「やっぱり無いか」
財布をリュックに喰わせ、背負い直す。
どうやら俺は鉄定の電話番号を知らなかったようだ。というか、不定休なのに今の今まで、鉄定に来て失意の内に帰るってことは一度もなかった。これは結構低い確率を突破してるのではないか。
自分の持つ運に感心する。
電話番号については、鉄定には当然ホームページなんて現代の必需品はないから、おやっさんに直接聞くしかない。
そのついでに、次回からは無料券に店の連絡先も加えたほうがいい、とも伝えよう。
歩行再開。
やっぱちょっとストップ。
踏み出した右足を、左足の隣へ戻す。
おやっさん、スマホ持ってるよな?
五十三歳の俺の親父は、電話とメッセージとちょっとしたネット機能をスマホで利用できている。
今年、齢七十になる父方の祖父も持ってはいるが、文字通り持ってるだけだ。
「こうして握ってると、お前たちが近くにいるみたいで安心する」
半分、お守りと化している。
おやっさんの世代的には持っていても持ってなくてもどちらでもおかしくない。俺のイメージだと子どもか誰かに勧められて「そこまで言うなら、仕方ない」と持ち始める、そんな世代。
真相は今度行ったときにでも聞いてみるか。
今度?
今、今度って言ったか?
そんな不確定なものをお前はあてにするのか?
何の保証もない、お前達が勝手に「来る」と決めつけている空白の未来を?
俺は回れ右し
駆けだした。
競馬のゴール前最後の直線で「走れ走れ逃げろ逃げろ」と何度も鞭を振るう騎手のように、走れ走れと、急かす自分もいれば、それを見て呆れる自分も居る。
だが、止めようとする自分はいない。
鉄定前の黒いのぼりが小さく映った。そばを蓄えた胃腸が噴門を締め、そばの滝登りを必死に防いでいる。
頑張れとしか言いようがない。
赤い暖簾は、
大丈夫だ。まだ掛けられている。
想像より走れるな、俺。
まだまだ若い、はずだ。
鉄定に着いたら、引き戸はゆっくり
引こう。
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