「どうだー晴人、楽しいか?」
垣峰さんの声がする。背中には軽い重さを感じる。
「うん! 楽しいよ! お兄ちゃん大丈夫? 重くない?」
頭の後ろから幸せそうな声がする。
「ダイジョウブダヨ。ダイジョウブダヨ」
「よかったなー晴人。お兄ちゃんにおぶってもらって。でもお兄ちゃんも人が悪いよなー。泣かせてないなら泣かせてないってはっきり言わないとなー。お姉ちゃん誤解しちゃうよなー」
「スミマセン。スミマセン」
涙が出そうだった。
でも、逆らってはいけない。
あんな目にはもうあいたくない。
「お兄ちゃん、ジャンプしてジャンプ!」
女郎蜘蛛へ目線を飛ばす。垣峰さんは小さく頷く。
許可が下りた。
「跳ぶからしっかり掴まってろよ」
晴人が抱き着くように首へ腕を回した。苦しくはない。左右の太ももを交互に数回上げる。準備は整った。
「じゃあ跳ぶぞ。いいか?」
「うん」
「いち、にのー」
「さんっ!」
床を軽く蹴り、膝を伸ばすイメージで真上に跳ぶ。床に着いたらまた床を蹴る、蹴る、蹴る。
一秒未満の空中浮遊だ。
「わー! 高い高い!」
ジャンプする度に晴人が黄色い声を上げる。すると巻かれた腕に力が込められ首が締まる。
ジャンプする、締まる。
ジャンプする、締まる。
そろそろ苦しい。
「お兄ちゃんストップストップもういらない」
晴人の満腹宣言を受け跳躍を中止する。
「お、もういいのか」
とか言っているが、運動不足の体は既に悲鳴を上げている。上手く呼吸が出来ない。膝が緩い。医者に診てもらいたい。
「屈むから焦らず降りろよ」
「ダメ! まだ降りない。もうちょっとこうしてる」
「はいはい。好きなだけどーぞ」
晴人が背中にぺったりくっ付いてくる。肩の上に顔を乗せ、首に巻かれていた腕は柳の葉のようにだらりとぶら下がっている。
耳元で小さな呼吸音がする。
「晴人―、そんなにお兄ちゃんの背中が気に入ったのか?」
「うん。気に入ったー」
「よかったなぁ。じゃあ、お兄ちゃんの背中に住んじゃうか」
うっわーババくせー。物凄く親戚のおばちゃん思い出した。
垣峰さん見た目は若いけど中身は中々年季入ってるな。こりゃ下着もベージュだな。
フゴッ
「今日は黒だ。あぁ?」
「すびばべんでひた。指ぬいでくらはい」
鼻腔を犯していた指が抜かれる。内面ババアが左の人差し指と中指をティッシュで念入りに拭いている。
普通、人の鼻の穴に指突っ込むか?
汚いとか考えないのか?
「おにいちゃん楽しかった。ありがとう」
「おう、最初っからおぶってやれればよかったんだが、すまんな」
「晴人―よかったな」
ふと、頭に感触。何か動いている。
「晴人―、それ何してるんだ?」
垣峰さんが俺の頭を見ている。俺も上目を遣うが自分の前髪しか映らない。
「お兄ちゃんの頭撫でてるの。いつもは撫でられるだけだけど、今ならお兄ちゃんの頭に手が届くから」
よしよし、と晴人の手が頭を撫でる。優しく、何度も何度も。
「そうか。ありがとよ」
なんかくすぐったかった。
□
「じゃ、晴人、また来るからな」
「うん。またね」
ベッドで横になっている晴人とタッチを交わす。
お姉ちゃんともタッチして? と、垣峰さんも晴人とタッチする。
スマホはある、財布もある、定期もポケットにある。忘れ物はなし。
リュックを背負い、帰り支度完了。背中がずっしりと重い。飲み物やら文庫本やらUSBメモリーやらが入っているせいだ。
垣峰さんと一緒に病室から廊下に出る。引き戸を閉める前に振り向き、手を振る晴人に右手で返事をする。
引き戸を閉める。
廊下と病室が遮断される。
「高柴、時間あるか」
「ありますけど、何でですか?」
「黒色だって物証を見せてやろうと思ってな」
「その節は誠にすみませんでした」
深々と頭を下げる。扉が閉まっててよかった。
「冗談だよ」
「ジュースおごっちゃる」
□
「何飲むよ?」
「苺ミルクで。紙パックの」
「了解。じゃああたしは飲むヨーグルトにしよ」
ガコン、ガコンと工事現場を連想させる音を立て、ジュースが産み落とされた。自動販売機が二台並んだ休憩スペースには俺達だけ。三つ平行に置かれた三人掛けの腰掛の内、自動販売機に一番近い列に座っている。
「ほれ。頑張り屋さんにご褒美だ」
「ありがとうございます」
右隣に座った垣峰さんから苺ミルクを受け取る。ストローを飲み口に差し、啜る。
ホッとする甘さが口に広がる。紙パックの苺ミルクはペットボトルのそれより甘い気がする。
「いつもありがとな。晴人に会いに来てくれて」
「いえいえ。俺も晴人に会うの楽しみなんで」
「そう言ってもらえると助かるよ」
垣峰さんが足を組む。白いストッキングが絡み合う。短すぎるスカートから太ももと白いガーターベルトが露わになる。
「お前が来るようになってから晴人は随分元気、というか明るくなってな。ご両親も喜んでる。晴人に必要だったのはお姉ちゃんじゃなくてお兄ちゃんだったみたいだな」
それは思い込みだ。俺だけじゃ晴人を元気に出来ない。これまで支えてくれた垣峰さんの存在があってこそだ。
「俺だけじゃ絶対ダメですよ。きっと両方欲しかったんじゃないですか」
「高柴、良いこと言うじゃないか」
「本心ですよ」
ストローを吸う。甘さが舌に纏わりつく。喉を這う様に液体が動く。
「病気の方はどうなんです? 晴人は回復傾向にあるんですか?」
「んー。可もなく不可もなくって感じだな。こればっかりは根気よく続けるしかない」
「根気よく……ですか」
「ん」
それ以上の会話を拒否するように垣峰さんはストローを口に咥えた。飲み物を吸うふりにも見えた。
根気よく。即ち晴人と病気の戦いはまだまだ続く。あんな軽い体で、あんな孤独な部屋で、子どもの時間を病気に奪われて、そうやって闘っている、俺達がストロー啜ってる今も。
理不尽だ。
病気なんてその辺の死にたがりにくれてやればいい。
晴人に健康を返してやってくれよ。
「大丈夫、晴人は勝つさ」
垣峰さんが口を開いた。
「あんなにいい子が負けるわけねーだろ。それに心強いセコンド達も付いてる」
「だろ?」
垣峰さんが俺の方へ首を回す。その口の端はキザっぽく上がっていた。
「はい。全力でサポートします」
うん。それでよろしい、垣峰さんが俺の頭を左手でわしわしと撫でてきた。出し抜けの行動に体がビクッと縮むも、構わず垣峰さんは頭を撫で続けた。
晴人の時はくすぐったかったが、今はただただ小っ恥ずかしい。
□
「高柴の方は大丈夫なのか?」
「何がですか?」
「ほら青少年は色々あるだろ? お姉さんに隠し事はナシだぞ?」
「俺もそう考えてたんすけど、現実はまるで違いましたね。つまらん講義受けて、ダチとつるんで、風呂入って目覚ましをかけずに寝る。なんなら二度寝もする」
俺の話を聞いて垣峰さんは右手をおでこに当て、くぁ~っと吠えながら背中を反らした。今度は親父臭い。
性別を飛び越えてもなお老けている。
「大学生はそんな羨ましい特権階級みたいなぐーたら生活してんのか。堪んねぇな、オイ! あたしは高校から看護の専門学校に進学したからさ、毎日ひーひー言って遊ぶ暇もなかったのに」
「なんかすみません」
先程反った反動か、垣峰さんは口を閉じるとだらんと猫背になった。横から見ると勾玉の形だ。出るとこがしっかり出ている。
「そんな幸せな日々なら、ちょっとの不安があっても同情してやらねーからな」
垣峰さんは足を組み直した。すらっと細い脚が交差する。
「垣峰さんはいつも大変そうですね」
「そう見えるか?」
「はい。結構」
発した言葉以上に口が渇いている。イチゴ味のストロー咥える。しかし、期待とは裏腹にいくら吸ってもスースーと空気が鳴くだけで液体は運ばれてこない。
「実はその通りなんだよ。早番、日勤、夜勤のトライアングルで乙女ホルモンは乱れるし、一週間には忙しい日ともっと忙しい日しかないし、給料安いし人間関係はヘドロだし出会いはねーし!」
日常の膿を言葉に変えながら垣峰さんが迫る。
「自分で生きるって大変なんですね」
生きるために働く、その理屈は分かるが納得はしていない。
毎日血だまりをつくってまでその仕事をする必要はあるのか。それは生きてると言えるのか。自分が笑顔で働けるフィールドが見つかるまで探すべきではないのか。
世間知らずなのは知っている。それでも大ハズレだとは思わない。
「そうなんだよ。でもな、不幸せだとは思わねーんだ」
「それってあれですか。『みんなそうだから。あなただけじゃないから』て、理屈からですか?」
「違う。そんな苦痛を薄めた思考のせいじゃない。もっと、ろくでもねぇ比較さ」
「それって」
俺にも覚えがある。
垣峰さんは体を引き、元の体勢へ戻す。だが、鋭い目は俺をしっかりと見ていた。いつもとは違う切っ先だ。
「なぁ高柴」
「晴人は不幸せか?」
答えられない。答えられる訳がない。
何を言っても誰かを傷つける。
「垣峰さん、いきなりどうしたんですか?」
苦笑なんかを添えてみる。
「質問が悪かったな」
「高柴お前は幸せか?」
目はいまだ俺を見ている。
病室でも見た、今にも泣きそうな目だ。
俺は
俺は
「八つ当たりだな。すまない。こんな話はお前くらいにしかできなくてな」
答えを吐けない俺を見限ったのか、垣峰さんは俺から視線を外し立ち上がった。
「今日は晴人のワガママきいてくれてありがとな。晴人、お前が初めて遊びに来た時と同じくらい喜んでたぞ」
垣峰さんは空っぽの紙パックを俺の手から取り、自分のと一緒にゴミ箱に捨てた。そして俺の頭をぽんぽんと叩き廊下の曲がり角へ去っていった。
ごめんねと言われた気がする。
その後、ラーメンを食べて帰ったはずだ。
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