「背中痛い」
俺の膝から体を起こした晴人は背中をさすっている。
「あんな恰好してればなそうなるわな」
俺は右腕を伸ばし、今度は少し激しく晴人の頭を撫でた。晴人はうーー、と渋い顔をしている。
右腕を引っ込め、スマホを操作し時間を調べた。現在は午後三時十七分。
今日はもう少し一緒に居てやるか。
「晴人、何して遊ぶ?」
「あれ、お兄ちゃん帰らなくていいの?」
「おう、もう少し居ることにした」
「やった!」
晴人は両手でガッツポーズをした、と思ったら今度は腕を組み
「う~~~~ん」と悩みだした。
今の様なちょこまかとした動きは見てて微笑ましい。
答えが出るまで黙って眺める。晴人は唸 りながら天を仰いでいる。
「決めた! お兄ちゃん決まったよ!」
晴人は腕組を解き、宝物でも見つけたように興奮気味に体を上下に揺らした。飛び切りの名案を閃いたらしい。
「お、決まったか。何するんだ?」
本命 オセロ
対抗 クイズ
大穴 しりとり ってとこだな。
「うんとねー、おんぶ!」
「おんぶ!?」
「そう。おんぶ!」
予想外の注文に戸惑いを隠せなかった。座ってできる遊びが提案されるとばかり思っていたため、おんぶのリクエストは衝撃が大きい。
こんなことは今までなかったぞ!?
そもそもおんぶして大丈夫なのか?
おんぶは激しい運動に入るんですか!? 看護師さん!
「ちょ、ちょっと待ってくれ。おんぶは微妙だな」
右手を突き出し、ベッドから降りようとする晴人にブレーキをかける。
「晴人、おんぶは微妙だ」
ブレーキの利きが悪かったので、繰り返す。
「えー、何で?」
晴人はベッドの縁に腰を下ろし、足をぶらぶらさせている。
「他の遊びにしよう、な?」
「やだ、おんぶがいい」
「今度来た時やってやるから」
「今度はやだ。今がいい」
「晴人、うおっ」
水掛け論は晴人の涙で打ち切られた。ベッドの縁で晴人が泣きだしたのだ。両手で涙を拭い、鼻も啜 っている。
啜り音の合間からは「おんぶ……おんぶ…」と途切れ途切れに聞こえてくる。
今日の晴人はなんかおかしい。今までもぐずることはあったが、泣き出すなんてのは初めてだ。
「晴人、すまん。大丈夫か? どうした?」
明らかに大丈夫じゃない俺が聞く。何でこう人間ってのは、泣いてる人を目の当たりにすると怯み戸惑ってしまうのか。
「だって、おにいっちゃんが、おんぶしてくっ、くれないからっ」
目を擦り、鼻をすすり、しゃくりあげながら懸命に答えてくれた。
「だから、おんぶは今度するって。な、またのお楽しみだ」
晴人の両肩に手を乗せ、目線を合わせる。すると目をこする手が止み、潤んだ瞳と視線がぶつかった。
下瞼 いっぱいに、涙のもとが溜まっている。晴人の口が動いた。
「何で、何でそんな意地悪いうの? お兄ちゃん、僕のこと嫌いになったんでしょ」
僕が甘えんぼだからあああああ。徐々に上がる音量に反射的に身をすくめていた。
まずい、土砂降りになった。
晴人は目をこすることも止め、両の目から涙の粒を流し、口を惜しげもなく開けてわーわーと大泣きしている。
「分かった、分かった。今ちょっと聞いてくるから。すぐ戻ってくるから」
「そんなこといっで、ほんどはかえっぢゃうんだあああああ」
弱った。何をやっても大泣きの燃料になってしまう。
下手な説得は最早通用しない。冷静になれ。冷静に考えるんだ。
事の発端はおんぶをするかしないか、年相応の切っ掛けだ。
晴人はおんぶをして欲しい。俺もおんぶをしたい。両者の意見は合致する。では何故、晴人は泣いているのか。
答えは一つ、俺がおんぶをしないから。
なんで俺はおんぶをしたいにも関わらずおんぶをしない、という矛盾した行動をとるのか。
それは晴人の体が心配だから。
晴人は激しい運動を禁じられている。ここが公園かタンポポの咲く原っぱなら俺も二つ返事で晴人をおんぶする。
けれど、今俺が居るのは無機質で白い壁に囲まれた病室で、晴人は病気だ。
長期入院するようなわけのわからん病を患っている。
俺もおんぶくらいは平気だと思うし、こんなにワンワン泣いてるなら、いっそおぶって泣き止ませたい。でもどうしても『万が一』がちらつく。
看護婦さんとの約束の範囲内なら何でもしてやる、ただ境界線を跨 がれると俺には判断がつかない。
基礎問題は出来ても応用問題には手も足も出ないエセ優等生だ。そんな奴に決定権はない。
ここは看護婦さんの判断を仰ごう。
晴人には悪いが一旦部屋を出て受付まで行こう。
晴人をひとり残すのは心が痛いが仕方ない。そうだ。ナースコールはどうだ? でも、こういうことで呼ぶのは違うか。
あぁもう考えるのは止めだ。行くぞ。
ゆっくりと立ち上がる。
「ん?」
直立したところで下半身に感触。視線を落とすと立ち上がった晴人が、俺の左のズボンを引っ張っていた。鼻は啜っているが泣き声は止んでいた。
ゆっくりと顔を上げ、俺の顔を見つめてくる。涙が瞳いっぱいに貯まっていた。
「おんぶ……してよぉ」
鼻水が噴き出た。
グフッと空気と共に噴き出た。
そんな顔するな。そんな目で俺を見るなあああああ!
目をギュッとつぶり右手で鼻を拭う。顔を背けるが、潤んだ視線をバンバン感じる。
目は開けるなよ。もう一度あの目を見れば最後、俺はおんぶをしてしまう。うおおおお、くいっくいっとズボンを引っ張るなああああああ。
「晴人―遊びにきたぞーって、何してんだお前ら」
背後から聞き覚えのある声。
振り向き目を開けるとそこには一人の女性が立っていた。
看護師だ、白衣の天使だ。
この状況下ではクラスアップして救いの女神だ。
「垣峰さん! よかったぁ」
肩の力が抜けた。待ち合わせ場所に待ち人がやっと来た時の安心感だ。
「今日は高柴デイだったか。って晴人どうした? 鼻啜って風邪か?」
薄ピンクの制服を着た女神が晴人へ近寄る。
「垣峰さん、ちょっと聞きたいんだけど」
垣峰さんは晴人の前で屈み、ポケットティッシュで晴人の顔を拭き始めた。金色のポニーテールが微かすかに振れる。スカートが苦しそうに張っている。
「奇遇だな。あたしもお前に聞きたいことがある」
氷をぶつけて発生した音のような、冷たい声だった。
やばい。地獄に送られる。
垣峰さんの背中に鬼の顔が見える。
白衣の皮下には刺々しい地獄の使いが隠れている。地獄者の首が回る。こちらを向こうとしている。その横顔は美しく笑っていた。
「晴人、なんで泣いてるんだ?」
ヤバイ、泣きそう。
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