五号館の扉を押す。エアコンが吐き出した冷気が建物内に別の季節をもたらしていた。
この五号館の一階から二階までがメディア室だ。各フロアーに百台近いデスクトップ型のパソコンが設置されている。再来年にはもう1フロアー増やす計画らしい。
俺たちの居なくなった大学に、俺たちの学費で購入されたパソコンが配置される。
あくまで可能性の話だ。
駅の自動改札機に似たゲートに学生証をかざす。一拍置き、ゲート先端のランプが緑色に発光し、目の前で通せんぼしていた短い壁が本体に収納される。
受付の女性職員がか細い声で「こんにちは」と挨拶をしてくる。
俺は「どうも」と短く返し、二階へと続く階段を昇る。エレベーターもあるが滅多に利用しない。ここに来るときはそれくらい急いている状況が多い。
二階に着き、フロア全体を見渡す。席は七割ほど埋まっていた。
長方形のテーブルにパソコンが背中合わせで十台乗せられている。一応パソコンの後側と両脇には高さ数十センチの仕切りがあり、プライベートスペースが確保されている。
その塊が十個、フロアー内に規則的に設置されている。
俺は一番奥のテーブル目指して歩く。机に分厚い本を置いている奴、イヤホンをして体を上下させている奴、白紙の文章作成ソフトだけ開いて、スマホに夢中になっている奴、アニメを視ている奴、ゲーム動画を視ている奴。
大体普段通りの利用状況だ。けれど、前から思ってることだが、最後の二つの利用方法については「家でやれ」と苦情を漏らしたくなる。
二階、壁際、最奥のテーブルの一番左端のパソコン。
自分のホームスタジアムと勝手に決めている座席へ腰かける。
設計上、この席より左側には壁しかない。そのため、この席の背後や横を人が通ることは滅多にない。その秘匿性の高さが気に入っている。
パソコン本体の電源を入れる。新品の面影の残るディスプレイが常連客の登場に相貌《そうぼう》を崩すようにも、物好きな奴がまた来たよ、と息を吐くようにも見えた。
このパソコンを利用し始めてから結構経つが、埋まっていたのは数える程度だ。
ただし、その数少ないハズレを引くと俺は明らかに不機嫌になる。
「お前、年下の奴にタメ口でもきかれたか? それとも呼び捨てにされた?」
と、お調子者の芳川さえ心配するほど殺気立つ。
平時なら「お前の沸点はそれでいいのかよ」等と返すのだが、そのときは「そんなんじゃねぇよ!」と声を荒げたのを覚えている。
芳川は何気ない冗談で仲の良い先輩を怒らせてしまった下級生のように、脳の理解が追い付かないまま怯えていた。すまない。
□
起動完了したパソコンに灰色のUSBメモリーを挿入する。大学でも遊びでも、どこに行くにも肌身離さず持ち歩く。過去と未来と欲望にまみれた大切な鍵だ。
USBが認識されるまでの隙間時間、椅子に座ったまま全身を伸ばす。椅子の足先についた車輪が少し転がる。ふと横を見る。先程より低い角度で、フロア全体が映る。
思えば、俺達が今利用しているパソコンも、もう大学には居ない誰かの学費で買われたのかもしれない。先人達の遺物が集うこの場所は、白い墓石の並ぶ墓場《はかば》かもしれない。
そこに足繁《あししげ》く通う俺達は、さしずめ熱心な礼拝徒か、もしくは墓荒しだ。
マウスで「創作」と銘打たれたフォルダーをクリックする。フォルダー内に押し込まれていたファイルがその名前を現す。その中から
「めっちゃ世界平和」
と命名されたファイルを開く。
未完成データが初期設定の草原の壁紙を下敷きにする。その文章は昨夜と同じ箇所で途切れていた。
心を炙っていた火を動力炉にくべ、容赦なく燃焼させる。キーボードに手を乗せる。
書く。
少なくとも俺は夢をみている。
□
この街は人と菌で溢れている。
人混みから逃れようとすれば、病原菌の住処が待ち受け、それから逃れようとすると、また人の群れに押しつぶされる。
空は狭く、誰も彼もが舌打ちの準備をし、一級河川よりも早い流れでどこかへ向かう。
ここの空気構成比の五パーセントは「ストレス」が占めているに違いない。
あと、人の悪口がよく通る不親切な性質も持っている。
ここに住み始めて数か月経つが、隔週で、そして現在も風邪を引いている。
今日は家で養生したい。
けれど、必修科目が五限にある。行かなければ。
溜息の代わりに咳が出る。つまらない洒落を思いつく。
これはメモしなくていい。
スマホが振動する。画面を触りスリープを解除。メールの送り主は米仲だった。その内容は至ってシンプル。
「今日の講義サボらねーか?」
魅惑的なお誘いだが、サボったところで一緒に何かやる元気もない。
「悪い、今日は出るわ」
一行でやり取りを終了させる。むくり、と気怠い体を起こす。室内は敷布団とテーブル、椅子にテレビ、ノートパソコン、そして一角に買ったばかりのベースが置いてある。米仲に勧められ買った新品だ。
楽器の相場は分からないが、一人暮らしの身に本体価格五万円は致死すれすれの出費だった。
ちなみに当日にカラオケ店で音出しをして以来、一度も触ってない。恐らく今後も触らないだろう。
だるい、熱っぽい、咳が出る、おまけに涙も出そうだった。
掛布団を頭からかぶる。
こうすると落ち着く。
歌詞を書きたい。
それだけを思い、講義まで眠る。
□
あくびを数回、そして物語の展開を練っていたら講義が終わっていた。この講義には知り合いがいないので創作活動をするにはうってつけだ。
初老の教授は教壇から姿を消し、数人からなる小集団が講義室の主勢力になっている。
背後からギャハハ、と親の顔が見てみたくなる笑い声が響く。ああいう奴には苦悩なんてないんだろうな、と想像力の欠落した想像をする。
講義の内容は全く頭に残っていない。去年履修した陸溝の話だと出席率重視の講義らしいので、平気だろう。
机に広げたノートや筆入れをリュックに仕舞う。リュックを背負い、最後に講義室内を眺める。
金髪、紺色のスカート、レンズの無い眼鏡、マンガ。多様な情報が飛び込んでくる。黒板が視界に入る。赤いチョークで
君はどこから始まった?
と記してあった。
「苦い質問だな」
俺の始まりはあまりカッコイイものではない。
□
「これ、どうかな?」
午前中の食堂、僕は期待をもって相手の返事を待つ。相手は同じ学科の男子学生。東京出身で、高校のころからバンド活動をしていたらしい。
彼は僕が渡した数枚の紙に視線を落とす。声を漏らさず、表情も変えずにぺらぺらと捲る。
「面白いんじゃない?」
彼はさして面白くなさそうに述べた。歌詞の印刷された紙が僕のもとに戻ってくる。
「ありがとう。で、どうかな? これでオリジナルとかやらない? アカペラもあるんだけど聴く?」
無邪気を装い、計画を進める。
「うーん、そうだな。俺はもう音楽やるか分からねぇから。ごめんな」
彼は片手で拝むようにして予想通り断ってきた。
「そっか、残念だけど仕方ないね。気が変わったら教えてね」
ああ、分かった、と、ほっとした声色が返ってくる。
「それじゃあ、またね」笑顔で席を立つ。
僕は知っている。彼が大学内でバンドを結成したことを。
もう永久に関わることはないだろう。
次だ。次。
「これどうですかね?」
午後の講義室。ストレートヘア―に黒縁メガネをかけた学生が、僕の書いた歌詞を目でなぞる。
彼は学内のロックバンドサークルの副部長。三年生が何で僕と同じ講義をとっているのかは謎だが、今はそれどころではない。
この偶然、逃してなるものか。
すべての歌詞を読み終えると、彼はトントンと長机で用紙を整え、こちらに渡してきた。
「面白いんじゃね? 特に『終わりたがり星人』とか」
メガネの奥に光る目は微動だにせず、彼は感想をくれた。
「ありがとうございます。ところで相談なんですけど、これでオリジナルとかやりませんか?」
地面すれすれまで腰を低くし、話を持ち掛ける。
「ごめんな。俺らのサークル、コピーが主流なんだわ」
オリジナルは誰もやってねぇなぁ、彼は顎に手を当て記憶を探るようにこぼす。
「そうなんですか……残念です。オリジナルやるって人が出たら教えていただけますか?」
「おう」
彼の表情には駅前の宗教勧誘から解放されたような晴れやかさがふんだんに含まれていた。
自分の席に戻り、筆記用具を長机に置く。
他人の曲を真似て何が楽しいんだよしね
にギリギリ触れない加減の義憤を燃やす。
講義が終わったら、もう一発だ。
「面白いんじゃね?」
本日何度目かのセリフ。なんかよく分からんが、音楽活動もしているサークルの男子学生の一言。同学年なのに老けて見えるのは気のせいか。それとも実際に年上なのか。
「なら、オリジナルとかどう? アカペラもあるんだけど」
このセリフも大分板に付いてきた。
「悪い。俺、音楽とか分かんねぇんだ」
彼は頭を掻きながら答える。どうやら、彼はそのサークルの「なんかよく分からん」部分をメインに活動しているらしい。
「そっか。オリジナルやりたい人とかいたら教えてね」
「わかった」
彼は席を立つと、講義室から去って行った。彼のモラトリアムは、なんかよく分からんことに捧げられるのだろうか。
活動内容はともあれ、好きなことに時間を捧げられるのは羨ましい。
歌詞作成もいいが、僕も早くバンド活動に時間を捧げたい。
ノルマに追われる営業マンごっこはいい加減卒業したい。
帰ろう
リュックを背負い、帰路につく。空はまだ青色を保っている。帰ったら作詞して、夕飯は昨日の残り物でも食べよう。明日に期待だ。
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