講義後、大学の最寄り駅「環律駅で三馬鹿と別れ、夕暮れ時の電車に乗る。
帰宅ラッシュ時には亡命先へ向かう最終便のような混雑に見舞われる電車内だが、今の時間は比較的空いている。乗客は皆、人の顔をしており、ラッシュ時には消失してしまう社会的生物としての尊厳を保っていた。
そして、これも日常風景だが、乗客の八割方が両隣に空席を従えている。パズルゲームよろしく「同じ属性が四つ並ぶと消えてしまう。だから一つ飛ばしで座っているのだ」とでも言いたげな光景だ。
俺はリュックを肩から外し、乗車口から一番近い空席、大学生らしき茶髪の女性と、文庫本を読んでいる学ラン姿の青年の間に座る。着席時、両者は腰を浮かし、五分の一ケツ分俺から遠ざかった。
今はもう慣れたが、都会に来たばかりの頃は「もしかして田舎者ってバレてるのかな?」とあらぬ不安を感じたものだ。膝の上に置いたリュックに手を回す。背もたれに体を委ね、目を閉じる。
降車駅の「久十」までは約三十分。鉄の揺り籠で、しばし眠る。夕飯はおやっさんのところで済まそう。
□
あぶねぇ。寝過ごすとこだった。
一度、久十の二駅前で目が覚め「もう起きなきゃ」と思ったら寝ていた。乗車終了を告げるメロディで目が覚め、車内モニターに表示された「久十」の文字で完全に覚醒。
扉に食べられる覚悟で駆け降りた。
幸いにも無傷で、ホームグラウンドである久十駅のホームを踏むことができた。
「危険ですので、発車間際の降車、ご乗車はご遠慮下さい」
駅員さん。人ひとりが幸せになったんだ。ファンファーレでも流してくれや。
駅員のマイクも、周囲の視線も独占だった。ここにいる理由は一つもなかった。
リュックを右肩にかけ、上昇した心拍数を抑えつつ、北口改札を通る。駅前のタクシー乗り場は広く、周辺にのっぽなマンションもない。そのため、空がよく見える。六月の見事な晴れ空だ。
久十は下町と誇れるほど下町ではない。かといって、都会と言えば笑われる。俺を含む田舎民に「田舎舐めんな!」と怒られるだろうから、田舎とも定義できない。
事実、都会に来て俺の住んでいた土地がどれだけ辺鄙で未開拓な地帯だったかを思い知らされた。よくもまぁ、コンビニまで徒歩四十分の場所で生活できたものだ。
東京で徒歩三分の場所に二十四時間煌々と光るコンビニエンスストアを発見した時は、感動よりも憤りが勝った。
こんな生活が本当にあるなんて知らなかった。
国土交通省に騙された気分だった。教えないのは騙すのと同義だ。
タクシー乗り場を横切り、住宅街へと続く道を歩く。住んでいるアパートからは少し逸れるが、良い店とは得てしてみょうちくりんな場所にある。
腹の虫が鳴く。昨日の夜は何食ったっけ。思い出すつもりもない、どうでもいいことを考える。また、腹の虫が低く鳴いた。
住宅地ばかりの地方的なガワに、都会の機能性を備えた地方もんに親しみやすい街。
俺は久十をそう捉えている
□
駅から歩くこと十分弱、住宅地の果てで「鉄定」は今日も営業していた。
店の前には「うどん」「そば」と記された黒色ののぼりが二つ立てられている。入り口に「鉄定」の文字が並ぶ赤色の暖簾が掛けられ、その右隣には店内の座敷席を覗ける大きな丸型のガラス窓が一枚貼られている。
それ以外は、ありきたりでこじんまりとした二階建ての民家だ。
木材が格子状に組まれた引き戸を開き、入店。BGMもラジオ放送も流れていない店内は静かで、四つのカウンター席にも、三つの座敷席にも客は居なかった。ついでに店主の姿もなかった。
微かに薫る新品の畳の匂いが、空気に和の彩りを添えていた。前回来店した際「畳、新調したんだよ」とおやっさんが自慢していたのを思い出す。
「おやっさん、おじゃましまーす」
店内は広くないのでさほど声を張る必要はない。
「おーい、おやっさん」
店の奥へ向けて再度呼びかける。しかし返事はない。
「おーい。おやっさん、いないのかー?」
俺の声は受け手を見つけられず虚しく消えていく。
声の消失点から沈黙が湧き広がる。店が開いてるんだから店主不在、ってことはないだろう。
「おやっさーん、団体客が来たぞー」
「ホントか!? らっしゃい!」
カウンターの陰から、青い作務衣を着たオヤジが飛び出てきた。
白い頭髪を短く切り揃え、目じりには笑わずとも皺が刻まれている。顔立ちは、昔は二枚目だったのかな? と、触れるべきか否かを相手に悩ませる作りをしている。
「おい、あんちゃん、三十名超えの団体客はどこだ?」
と、釣り上げられたことに気付かない魚が陸地をぺんぺんと跳ねる様に、顔をきょろきょろさせ架空の客を探しているこの人こそ、俺が数年間通っている「鉄定」の主。
前倉聡。
通称、おやっさん。
御歳六十三歳。
年齢まで知っているのは、年齢が記載された大盛り無料券を誕生月に配布しまくるからだ。
「おやっさんが遅いから、『小師匠で済ませる』って行っちゃったよ」
「なんだと!? あのチェーン店め……。次は勝つからな!」
とリベンジを誓うおやっさんは置いといて、俺は指定席である奥から二番目のカウンター席に座る。おやっさんは、気づけば作務衣と同じ青色の小判帽を被っていた。
「んじゃ、改めてまして、らっしゃい。今日は何にする?」
おやっさんが布巾で手を拭う。
「今日は」
「ざるそばだろ?」
図星だった。
「何でわかった? 勘?」
俺の疑問におやっさんは作業の手を止める。
「勘なんてもんじゃねぇよ。これは願望だ」
「願望?」
「かけそば用のつゆ、切れてんだわ」
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