「――と、まぁこんなところだろうな。そろそろ出ないとお前がのぼせちまうだろう。顔真っ赤だぞ」
「あはは……そうだね。だいぶぽかぽかしてきちゃったかも。ごめんね、付き合わせて」
「それこそ気にすることはない。こういう時間も、本来は大切にすべきだからな」
「ありがとう」
デゼルが湯船から立ち上がり、飛沫があたしの顔に降りかかる。それを拭っている間に、彼はくつくつと笑いながら歩いて行ってしまった。
彼にとっても少しはリフレッシュになっていればいいんだけど。
しかし、デゼルはエインヘルのことを語る時、やけに饒舌だった。それこそ、なぜかあたしの胸がぎゅっとなるくらいには。
「……いったいなんだろうね、この感覚」
徐に立ち上がり、湯船の表面に映し出された自分の顔を見つめる。
幾度となく見た自分の顔で、ずっとこの右目のせいもあって苦手だった顔だ。しかし、つい先ほどデゼルから聞いたことと、自分の記憶にあるエインヘルの顔を思い出すことで――ほんの少しだけ、苦手意識が和らいだのだろう。――儚げにでも、口元が綻んでいるなんて。
一つため息をついて泉を出、ポーチから布を取り出した。
身体についた水滴を拭い去り、服を着て、装備を身につける。髪はまだ濡れているが、そのうち乾くだろうとほかっておくことにした。
最後にペンダントに手を伸ばして、その明瞭な変化に気がつく。
「また、光ってる?」
翼を象ったペンダント。
それがまた、僅かに震えながら微かな光を宿し、まるで鼓動のように明滅を繰り返していた。
いったいいつから? なにか、条件ないしは要因があったのだろうか。泉に入る前はそんな兆候はなかったはずなのに。
そっと手に取り、チェーンを持って目の前に垂らすと、様子にさらなる変化が生じた。
ゆらゆらとした振れ幅が少しずつ大きくなり、くるくると回り始め、それはほどなくしてある一点を指し示して止まった。
ペンダントの明滅とあたしの心音が重なる。
「もしかして、その先で――エインヘルに触れられるの?」
問いかけたところでペンダントが応えてくれるわけでもない。だがしかし、それは一分の揺らぎなく同じ方向を示し続けていた。
このまま行くべきか思案していると、蹄の音が近づいてくることに気が付き、そちらへ視線を移す。
「デゼル……?」
「ああ。少し時間がかかっているようだったからな。何かあったのかと思って様子を見に来ただけだ――っと、そいつは」
デゼルの大きな鼻先が僅かにペンダントに触れた。
その時、眩い光が空間に満ち、視界を真っ白に染めていく。
「あー、なるほどそういうことか。エインヘル……道標の条件にはオレも含まれていたんだな。――ったく、試すようなことをしやがって」
「デゼル……何を、言っているの……?」
光の中で、デゼルが納得したように漏らした言葉の意味を問う。しかし彼が答えるよりも先に、光が収束して彼の姿が露わになった。
一角の白馬がこちらを振り返る。
彼は初めて出会った時の、凛々しく力強い美しい顔をしていた。
「セナ、どうやらオレとお前の二人で来いってことらしい。エインヘルは、オレがお前のことをどれだけ信頼しているかを確かめたらしい。――そのペンダントを通してな」
「それで、合格だったってこと?」
デゼルが首を縦に振り、難しい顔をしながらあたしを見つめた。
「なんにせよ、あいつらにこのことを伝えてこなきゃならねえ。少し待っていてくれるか」
あたしが頷くと、彼は軽快に走り去っていった。
手元にあるペンダントが力なく垂れ下がる。光は宿したままだが、デゼルがいなければ方向を指し示すことはないらしい。
ポツンと一人残されて手持ち無沙汰になってしまった。
少し、と言っていたがデゼルにはみんなの場所の見当でもあるのだろうか。離れてからそれなりの時間が経っているのだし、見つけるには時間もかかるだろう。
――一緒に行けばよかったかもしれない。
などと思いながらも、これからのことを思えば無駄な消耗は避けるべきだし、心を落ち着けておく方が賢明のはずだ。
もう少し、あともう少しでエインヘルにたどり着くのだ。心に余裕を持たせておく方がいいだろう。リオンに世界の話を聞かされた時のように取り乱してしまうことは避けたい。
「待たせたな。――シャトラたちは物見遊山とばかりに色々見て回るらしい。心配はしていたがな」
はたしてそんなに考え込んでいただろうか。
本当に少しの時間で、デゼルはあたしのもとへ戻ってきたようだ。息ひとつ切らさず、その身体から汗の蒸気を上げることもなく。
「思ったより早かったね」
「そんな遠くに行っていなかったからな、オレとしても早く戻ってこれて何よりだ」
「じゃあ行こうか。一応、何があるかわからないから警戒はしておこう」
♢
ペンダントの指し示す方向へと進む。
白金色の街は、決まった方向に進もうとすると、まるで迷路のように入り組んでいるかのように感じられた。大通りから一本入れば細い路地が広がり、建物の高さもありその先が見えない。
あたし一人ならば、と思わないこともなかった。
建物の上を進んでいけば、ペンダントの指し示す方向へとまっすぐに向かえるのに、と。
ペンダントは本当に方向だけを示しているらしく、何度も壁に当たったし、遠回りを余儀なくされた。デゼルは非常に優秀だが、建物を軽々と登ったり飛び越える力があるわけではなかったためである。
しかしながら、予想外の敵に遭遇することは一度もなかった。
「悪いな、お前一人ならここまで時間はかからなかっただろうに」
あたしの心を読んだのか、力のことを知っている故か、デゼルは申し訳なさそうに嘆いた。その頭と首を撫でながら、大丈夫だよ、と返す。
このペンダントは現在、二人揃ってこそ意味を成すものなのだろうから。
間違いなく近づいていることの証左なのか、ペンダントの両翼の光は徐々に強くなりつつあった。相変わらず真っ直ぐには進めないのではあるが。
しばらくそのような状態が続いたがしかし、角を曲がると唐突に視界が開けた。
白金の床が一面に広がる。
中央には噴水があり、休憩スペースと思われるベンチが点在していた。本当にそれだけなのだが、ここはどうやら広場らしい。
噴水越しのその奥には大きな教会に似た建物が聳え立っているようだ。
ようだ、というのには理由がある。
「ニルィク……だと」
デゼルの数倍の体躯はあるであろう威厳のある存在が、その前に佇んでいたからだ。
あたしはデゼルの背から飛び降り、その存在にある程度近づき、見上げるようにして見つめた。
ズメウより遥かに厳格さに満ちた龍の顔をし、鱗を艶めかせ、デゼルより数回り大きい蹄で床を踏み締めている。
この間、ニルィクは一歩も動かず、さらに眉ひとつ動かさなかった。
「よくここに至った。使徒の末裔と、使徒の従者よ。余はかの者の最後の試しとしてここで其方たちを待っていた。――長い間、ずっとな。そして、其方たちの目指すところは余の背後――この建物にある」
「……試し、だと? エインヘルが頼んだってのか?」
「然り。余に傷を負わせた使徒故、それ以後時折親交があったものでな」
ニルィクは厳格だが非常に通る声でそれだけ言うと、纏う空気を変質させ、大きく空に向けて吠えた。
鼓膜がびりびりと震え、身体に畏怖が刻み込まれ、直感が逃げろと叫び始める。
あっという間に影が世界を覆い尽くさんとしていた。はっと空を見上げると、暗雲が立ち込め、すでに翠はその一端しか見えなくなっていた。灰色の雲に、稲妻が幾度となく迸るのが目視できる。
思考のいとまはなかった。
――雷鳴一閃。
世界は白色に包まれ、轟音が聴覚を食い尽くす。
「くぁ……耳が」
咄嗟に耳を塞ぐも間に合わなかった。雷鳴は聴覚に狂いを生じさせ、同時に平衡感覚までも狂わせる。
「この程度、されど其方には覿面。良き耳を持つ故の弊害よな。……だが、この程度で戦意を喪失してくれるな、使徒と変化の民の末裔よ」
正面からの声のはずなのに、どこからでも聞こえてくる気がする。それは頭の中を駆け巡り、聞こえるというだけでじわじわとあたしの心を蝕んできた。
くらくらとする意識の中で必死に恐怖を拭い、正面へと視線を向ける。
ユニコーンは、既に走り出していた。
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