「鎮まるがよい! もうあの忌々しい歌は聞こえぬはずだ。各々己の心の声を聴くがいい!」
まるで王都全体に響き渡らせるかのように、厳格な龍の顔を持つ彼――獣の王が叫んでいた。
意志を奪われたズメウたちを叱咤しながら、はたまた蹴散らしながら彼はその声を轟かせている。それなりの距離があるはずだが、その声ははっきりとあたしの耳に届いていた。
彼の――ニルィクの言葉通り既にエインヘルの歌は止んでいる。弾かれるようにエインヘルへと視線を移すと、空に浮かぶ彼女と目が合った気がした。
「行け、セナ。オレがいなければあいつに暴力は使えないはずだ。感情を獲得し、アンスールの枷が弱くなっているにも関わらず、いまだオレを使ったのがその証左だろう。あいつはある意味自由だが、己の制約にも縛られている。――あいつとつながったからわかるんだ。あいつはいまアンスールとは到底思えないほどに不安定だ。オレを奪われたいま、急がなければ何をしでかすかもわからない」
「――ふふ、偉そうに。解放されたのですからあなたはあなたで天使様に向き合うべきでしょう。何を姉さまに丸投げしているんですか? そんなにあの女に拒まれることが怖いんですか? それとも、拒んで彼女が傷ついてしまうのが? ったく、みっともない色男ですわね。姉さまを選んだのでしたら相応の覚悟を示したらどうです? そんなだから――」
「いいよ、ジュディス。あたしが行くから。だからそんなにデゼルをいじめないであげて」
「ですが姉さま、この馬は卑怯者です。いまのままでは姉さまには到底ふさわしくありませんわ」
「セナ、オレは……」
しゅんとして小さくなってしまったデゼルの頬を撫でる。ぎゅっと瞑ったその瞳が力なく半分ほど開いた。
「いきなり自由になっても困るよね。いままで君が一番大切にしていたエインヘルとのつながりを壊したんだから」
「ああ、いや。……だが、感謝しているのも本当なんだ。お前を殺してしまわずに済んだことも、心からよかったと思っている」
「うん、いまはそれでいいんだよ。落ち着いたら、もう一度彼女と話をしてあげて。きっと、彼女にとってあなたが唯一の寄る辺だったのも確かだろうから」
「はぁ……なら色男――いえ、デゼル。あなたは私と共に王都のズメウを止めに行きましょう。いいですわね、姉さま?」
あたしが首を縦に振るのを確認して、ジュディスはデゼルを促して去っていった。
この間もエインヘルに変化はない。彼女が何を思ってそうしているのか、見当がつかない。何も考えていないわけではないのだろうが。
どうしたものかと考えに耽っていると突然手を握られた。
「セナ、さん……あなたがいなくならなくて本当によかった……ボク、肝心なところで役に立てなくて」
「いいんだよ。お父さんと必死に戦ったんでしょう。たぶん、エインヘルとも」
「ボク、何もできなかった。デゼルが守ってくれたから、こうしてここにいるのに。デゼルに対して何もしてあげられなかった」
「大丈夫。――くすくす、その姿で言葉遣いが変わっても、リオンはリオンなんだね」
そうこうしているあたしたちに近づいてくる足音に振り返ると、そこにはシャトラがいた。彼女も難しい顔をしているが、リオンほど感情を露わにしてはいない。
「ウチも街のほうに行ってくる。けがをしてるのがたくさんいるだろうから。リオンちゃんもウチとおいで。――ルネちゃんは、どうする?」
「僕は、ここで彼女を見届ける。それで――この夢も終わりだから」
「そっか……いままでありがとうね」
「こちらこそ。楽しかった、役割に戻ること忘れてしまうくらいには。――どうか元気で」
不死鳥は小さく鳴いて、シャトラとリオンを見送った。彼はここに来てからずっと、少し距離を置いてあたしたちを見ていたらしい。あたしを見つけたとき以降確かに気配を感じられなかったが、そういうことならば合点がいく。
もう彼の中にルネはいないのだから、あたしのためだけに命を懸けるだけの思いが存在しないのだ。それでも、彼はルネのためにあたしを見つめ続けている。それがどんな思いからなのかは、あたしの考えでは及ばない。きっと、彼にもわからない感情がそこにはあるのだ。
――矛盾だらけの、心が。
「でも君は、結局最後までいてくれるんだね」
「それが彼の、貫くに値する思いからくるものだったから。僕には理解が及ばないんだけれど、だから。だから残ったんだ」
そっか、と小さくつぶやき視界の端のエインヘルの姿を捉えると彼女に動きがあった。
白い翼をゆっくりとはためかせながら、移動しながら緩慢な速度で降りてくる。少しずつ大きくなるその姿が、あたしから数歩離れたところに素足を下ろした。それと同時に翼は光の粒子となって消えうせ、ただただ美しい女性だけを残す。
あたしを見つめる金色の双眸から、透明なしずくがとめどなく零れ落ちていくのが見えた。
「セナ、私は――」
「お母さん。あなたから、デゼルを奪ってごめんなさい。あなたにとってなによりも大事な存在だったのに」
「……ああセナ、私は、私はいま消してしまいたいほどにあなたを憎んでいます。私の唯一を奪ったことだけではありません。どうしてあの王までも味方につけて私の決意を踏みにじるのですか。私に、私に決意をさせたのはほかでもないあなたなのに。それをどうして、あなたが――」
「それが、間違っていると思ったからだよ。――確かに、あたしにとってこの国の人たちはどうでもいい。でも、一方的に殺されるのが正しいとは全然思えないの。力あるものが間違えたら、いろんな人に迷惑をかける、そういったのはお母さんだよ。感情に任せてこぶしを振るうのは子供でもできるんだ。でも、誰かが叱ってあげないと、わからないでしょう? それはきっとあなたの娘である私がやらなきゃならないこと、なんだと思うんだ」
「叱、る……?」
「あなたがあたしの宝石だから、叱るんだよ。……それでもね、あたしにはどうしても許せないことがあるんだ」
キッと睨みつけるとエインヘルの肩がびくりと跳ねた。その瞳に宿る感情を彼女は果たして知っているのだろうか。
「自分の手でやらなかったこと。――デゼルを使ったことだよ。感情に任せてこぶしを振るうこと……子供にだってできるそんなことすら、あなたはしなかった。デゼルに任せて、嫌がるデゼルを血にまみれさせて、あなた自身の手を汚さなかった! あたしはそれが一番許せない! それはあたしが大っ嫌いな、あの国民どもと一緒だから」
「……っ」
歩み寄る。力強く、射抜くようにエインヘルの目を見つめたまま。彼女がたじろぐことなどお構いなしに。
そして、エインヘルの目の前に立って彼女の手を取った。
「ほら。あたしを消したいんでしょう? 殺したいほど憎いなら、殺せばいいじゃない、他ならぬあなたのその綺麗な指で。――あたしはあなたから唯一を奪った。あなたの邪魔をいくらでもした。そしていま、あなたの心をきっと誰よりも傷つけている。そうなんでしょう?」
その両手をあたしの首にあてがわせ、その手首を逃がさないように握りしめる。
「ほら、ここを強く握りしめたらあたしは死ぬんだ。あなたの手で、あなたの手を汚して、どうかあたしを殺してみせて」
狩人としてツァイクーンにどれだけ仕込まれたか。ここをつぶせば、大抵の動物は死ぬのだ。いつだってあたしはこの手で、この手に握ったナイフでその感触を焼き付けてきた。
それだけは、譲れないのだ。あたしの手から離れたところで殺してなどやるものか。自分の手を汚していることを常に自分に刻み付けなければならない。自分の手から離れたところで命を傷つけ、奪うなんて所業は所詮逃げなのだから。
「どうしたの? できないの? デゼルにあれだけのことを、ズメウたちにいいだけ虐殺させておいて、自分の手は汚せない?」
「私は……私は」
首に巻き付いた細い指にぐっと力がこもり、あたしの身体が持ち上がる。
それはゆっくりとあたしの喉を圧迫し、気道を狭めていった。徐々に浅く、荒くなっていく呼吸を感じながら、エインヘルの涙にぬれる瞳を見つめる。
いろんな感情のないまぜになったその瞳が、あたしをじっと、一分も見逃さぬよう見つめていた。
「そう。それでいいんだ……くはっ……刻むんだ、あたしの命を、その、手、に……」
「あっ、嫌……私は、こんな、セナ……ああ……」
「ぐっ……かはっ……げほげほ――うぇ」
パッと離され、地面にしりもちをついた。濁流のように流れ込んでくる空気を調整できずに呼吸が暴れる。目からは涙があふれ出し、あらゆる場所から汗が噴き出すの感じた。
「え、あ……セナ……私……私にはあなたを、殺すことなんて、できません」
揺れる視界の端に白い柔肌が映りこむ。それはしゃがみこんであたしの背中をさすった。啜り泣くような声が、自分の呼吸に交じって聞こえてくる。
その情けない顔に一瞥をくれて、あたしはまた彼女を睨みつけた。呼吸もままならず、身体も思うように動かないが、口を開いて言葉を絞り出す。
「この……意気地なし。そんな覚悟で、誰かを、殺そうだなんて。ほんと、ばかみたい」
「それでも、私は」
「知ってる。どれだけのこと、されてきたか。嬉しさ、喜びで塗りつぶせないほどの憎悪を最初に覚えてしまったこと。それを、どうしていいか、わからないんでしょう?」
「……はい」
ようやく落ち着きを取り戻してきた身体から、そうだよね、と言葉を吐き出した。
感情を覚えたての存在なんてきっとこんなものなのだろう。とはいえ、人間が大人になるまでよりもはるかに長い時間、その感情を抱えていたはずなんだけど。
「誰もいなかったんだもんね。お母さんには」
「……誰、か?」
「うん。あたしにとっての、輝く宝石みたいな存在。あたしっていう小さな宝石箱に、ぎゅうぎゅうに詰まってるんだ、みんなが」
「羨ましいです。こんな私にはきっと、できないのでしょうね」
「融和を掲げる天使様が何言ってるの? 融和ってのはね、心と心がつながるからできるんだよ。――ああ、きっとそういうことなんだ」
得心のいくことが一つあった。だから、だから彼女は、エインヘルは。
「融和を冠にされたその日から、あなたは心を獲得する運命にあったんだよ」
「え……?」
「融和に心は不可欠だし。それを知らない存在が、それを広げるなんて滑稽だもん。きっとそうだよ。――だから」
エインヘルのいまにも崩れてしまいそうな綺麗な顔を両手で包み込む。そして、あたしは。
「これはあたしにしかできない、エインヘルへの――たくさん頑張ったお母さんへのお返し」
「セナ、あなたは……ああ。こんなものを背負う必要なんて、どこにもないのに」
「あたしにだってできたんだ。きっとお母さんにもできるよ。本当の意味での融和が。だからしばらく、これはあたしが預かってあげる」
エインヘルの脳の中で燻る心、その中にある一部を奪い取ってあたしの脳の中にある心へと流し込んだ。
それはぞぐりと心を蝕むけれど、あたしがそんなものに染まってしまうことはない。
彼らと出会えたのだから。
あたしに縋りついて泣き崩れるエインヘルをそっと抱きしめ、頭を撫でた。
「いつかあなたがこれを分かち合って、消化できるような存在と出会い――心をはぐくむその日まで」
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