――結果的に言えば、リオンの言っていたことが正しい。
あたしはやけに整備された廊下を歩いていた。乳白色の壁と、そこに規則的に並んだ扉が視界を埋め尽くしている。だがもうそのどこにも用はない。
探し物が、あっけないほど簡単に見つかってしまったから。
『私たちは失敗した。一世紀以上に渡るこの荒唐無稽な計画は、驚くほどにあっさりと終焉を迎えた。迎えてしまった』
左脇に抱えている、黄ばんでボロボロになった一冊のノートにはそれが綴られていた。意味のわからない場所を読み飛ばしながらでもはっきりと、リオンの言葉の裏付けが取れてしまっている。
あたしは歩くペースを上げた。
早く出なければ。デゼルとシャトラ、リオンをこれ以上待たせるわけにはいかない。
『死にゆく星を方舟として次なる星のそばへと転移させ、人類その他の生物たちの生存を図る。かのノアの方舟もかくやのこの偉業に胸を高鳴らせていた我々が間違っていたのだ』
突如轟音が鳴り響き、それに思わず耳を抑えてうずくまると、ぱさりと微かに音を立ててノートが足元に落ちた。拾わなければとそれに手を伸ばした瞬間、次は激しい揺れが襲ってくる。
あたしは縋る思いでノートを抱え、踏ん張るように大地に伏せ続けた。
目の前が真っ黒に染まる。
『母なる星はもはや影も形もどこにもなく、私たちは空の色、空気の匂いや味さえ違う場所へと突然に放り出されてしまった。だが不幸中の幸いというべきか、転移自体は正常に働いたのだろう。私たちが暮らす街はそのままの姿で移動したらしい。ただ、電気や水などのライフラインは停止してしまっているようだ』
髪を撫でる、吹き抜ける風。そして温もりをくれたのは、あたしを照らすためだけに顔を出したような、太陽の光。
ゆっくりと顔を上げ、その光景に愕然として言葉を失った。
『屋上から双眼鏡で遠景を眺めて驚愕に震えた。どうやら我々の住む街だけがここに来たらしい。その先にあったはずのビルやタワー、建物群のその全てが姿を消している。本当に、この街だけが飛んできてしまったようだ。これでは、移住も何もあったものではない』
建物が跡形もなく無くなっていた。あたしの今いる場所を除き、スプーンで掬い取られたようなように大地が抉り取られてしまっている。
維持区画はまだ残っているが、あたしのいた場所にあった建物は跡形もなく消し飛んでしまったらしい。
――どうして、あたしだけがそうなっていないんだろう?
『街から老人が姿を消していた。誰に話を聞いても、忽然と消滅したかのようにいなくなってしまったらしい。理由は不明。しかし、とてつもなく恐ろしい片鱗を垣間見ているような気分だ。あの日から、我々研究員への糾弾も後を絶たない。いっそ老人たちと同じように消えてしまえたらよかったのに。なぜ私は生きているんだ。こんな、希望すらも摘み取られた場所で』
こんな景色だったっけ?
見つめる先はこんなに建物がなかっただろうか。こんなに低い建物ばかりだっただろうか。いや、そんなはずはない。
視界の中で黒々とした謎の球体がいくつも浮かんでは消えていくのが見える。それが背の高い建物の中心に現れ、収束するように消滅すると、建物の胴も綺麗さっぱりと無くなっていた。そしてあたかも当然のようにそれは崩落していく。
何が起こっているの? とにかく、早くみんなのところへ。
大きく抉り取られ穴のようになった地面を見下ろして、あたしは勢いもなしに飛び上がった。
『糾弾もそうだが、自殺者が後を絶たない。当然か。希望と共に飛んだ先がこんな地獄だとは。いや、違う。本来の形であればこんなことにはならなかったはずなのだ。もし生物がいたとしても我ら人間の力ならばどうにかできたはずだ。環境さえも。なぜなら街の外にある水は濾過して飲めたし、動植物も、我らの腹を満たすことができたんだ。そうやって生きながらえている人も少なからずいる。私も、妻と娘は惨く殺され亡くしてしまったが、私だけは生き恥を晒してでも生きてみせよう。私たちがしようとしたことは、間違ってはいなかったはずなのだ』
力を上手く扱える自信はなかった。もう身体はボロボロだし、体力だって、ノートを読む間に少し休めただけでほとんど回復なんかしちゃいない。
――両脚の紋様はわずかに光を放つだけで、飛べるほどの力は発揮できなかった。
『トカゲの頭と体をして、二足歩行する生物と出会った。まるで、昔遊んだゲームのリザードマンのようだ。彼らとはとんと言葉が通じない。至極当然のことだが、異星の生物と言葉が通じるはずがない。しかし彼らは、怯え、震える私たちに手を差し伸べた。するとどうだ。彼らの言葉がわかるようになったのだ。我らを救ってくれるという。皆がそれに飛びついた。だが私は、そうしなかった。これ以上生き恥を晒してまで生きる理由がなくなった。それだけの――――――――』
落ちる。
ああ。本当にここで終わり、か。
こんなことを、こんな裏付けをするためだけにリオンを唆して無理をさせて。シャトラに深い傷を負わせて。デゼルにあんな顔をさせてしまった。
石ころのように、どこともしれない場所に叩きつけられてあたしの人生はここで終わる。
なんともあたしらしい最後だろう。――なんて、あんなにたくさんの言葉をもらったのにそう思ってしまう自分の、変わらない根っこの部分に辟易して瞼を下ろす。
――僕は、セナに生きていて欲しいんだ。
「ルネ……?」
ルネの声がやけにはっきりと聞こえた気がして、咄嗟に目を開ける。
すると、懐にしまっていた炎のようなルネの羽根がするりと外へと抜け出してきた。それは意志を持つようにくるくるとあたしの周りを舞い始める。
それがそうしているのかはわからない。だが脚と背中が徐々に熱を帯びていくのが感じられた。それはあたしの意志と関係なく身体の落下を食い止め、地上へと運んでいく。その間もルネの羽根はあたしの周りを回り続け、あたしがぺたりと座り込むと同時に手のひらにふわりと降りてきた。
――まったく、手が掛かるんだから、セナは。
そんな声が聞こえた気がした。
炎が灰へと変わるように、彼の羽根はさらさらと風に溶けてなくなっていってしまう。それを逃さぬように手を握り締めても、あたしの手の中には何も残らなかった。それでも、その手をもう一度固く閉じて、胸に抱き締める。
頬を熱い滴が流れ落ちていく。
あたしは、ルネに応えられるだろうか。ううん、答えてみせるんだ、必ず。
息を一つ整えると、忘れていたかのように周囲の激しい騒音が流れ込んできた。それに混じって、随分と聴き慣れた蹄の音。
「よお、無事だったみたいだな。これはまたずいぶんと酷い顔をしているが、何かあったのか?」
「ねえ、デゼル。あたしね、また、諦めちゃいそうになったんだ。でもね、ルネが……助けて、くれたの」
「……そうか。羽根一枚になってまで、つくづく健気なやつだ。主人思いもそこまで行くと尊敬に値する」
デゼルはそう口にして、それ以上は何も言わなかった。その背には、青い顔をしながら必死に死に抗うシャトラがいた。どうやら彼女はもう口も聞けないほどに酷い状態になっているらしい。
「デゼル、あのさ。ゆっくりでいいから、ついてきて」
「どこへ行くつもりだ?」
「リオンのとこ。これをやってるの、たぶんあの子だから」
「なぜわかる? 根拠でもあるのか?」
「うん。あの司祭が言ってたんだ。――今頃絶望しているだろうって。まぁそれもあるんだけど、こんなすごい力を扱えるのはきっとリオンくらいなんだって思うの」
それに、これだけ無差別に破壊が行われているのにデゼルとシャトラが無事に生きていること。そしてあたしが、巻き込まれたはずなのに無傷なこと。何の確証もないし、もしかしたら違う理由があるのかもしれないけれど。
「しかし、そんな身体でいくのか? せっかくルネが二度も拾ってくれた命だぞ」
「それでも、行かなきゃいけないんだよ。あたしはあの子に会って謝りたい。そしてもう一度、普通に話がしたい。似てるようで似ていないけれど、それでもどこか似ているあの子と」
「……いいだろう。まったく、いい顔になった。ならば今度は諦めてみせるな。次はルネの代わりにオレが怒ってやる」
頷いてデゼルに歩み寄り、頬を撫でた。彼のお腹周りを一瞥すると、べっとりと赤黒い血がこびりついている。
それから目を逸らし、右手のグローブを外した。そして、シャトラの生気が失われつつある顔に手を伸ばす。――まだ温かい。
「あたしに何ができるかわからないけど。今度は、あたしがあなたを救ってみせるよ。たくさんもらったのに、こんな顔をさせてごめんなさい。もう少しだけ、待っていて」
「セ、ナ……手を、貸して」
シャトラは血に塗れた左手をあたしの方へ差し出した。今にも糸が切れてしまいそうなほどに震えるその手を、両手で包み込む。しかし彼女の手に触れた瞬間、その意図がわかってしまった。咄嗟に手を離そうとするも、その悲痛な顔を見て離せるわけがない。
ずるいと思った。あたしにはそれを受け入れる以外にないんだから。
温もりが手を伝い、あたしの中に溶けていく。その感覚はほんの一瞬だったが、身体が幾分も軽くなった。
「早く戻ってきて、ね?」
「うん。……うん」
ぎゅっとあたしは彼女の手を握り締めてから離した。その手に今度はあたしのグローブを預ける。
シャトラが目を丸くして、それからくすくすと笑った。
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