瞼を起こした。
視線を彷徨わせ、ついと見上げると遠くにエインヘルの顔がある。
みんなが深い眠りに入るまでの間、ずっと瞼を閉じて考え込んでいた。仮眠が取れていたのなら幸いではあるが、そんなことはない。
教会の片隅で、あたしたちは身を寄せ合うようにして明日以降のために眠ることにしたのだ。
デゼルの傷は塞がったが、癒えるまでには少し時間が必要だったし、リオンにも過剰な負担はかけられない。シャトラも、無尽蔵に治癒の術が使えるわけでもないので、無理はさせられない。だからあたしたちは――いや、あたしは決めたのだった。
誰にも気づかれぬよう、起こさぬよう音を立てず、気配を殺して教会を後にする。
「今までありがとう。――さようなら。あたしが生きていたら、きっとまた会えるかな?」
あたしの大事な、大事な仲間たちに振り向くことなく空へと呟いて、ゆっくりと扉を閉めた。
深緑に染まる夜空には点々と星が煌めいていて、二つの月も翳り一つなく輝き誇っていた。
空気が澄んでいて、心地が良い。
停滞した時間を動かすには、これ以上ない日だろう。
ようやく、過去と、家族に向き合う決心がついたのだ。エインヘルを――母を救うというならば、どうあれその過程で向き合わなければならない問題なのだから。
「セーランヘルがまだ地上にある時でよかった。しかも、ここは今あたしの国からそんなに遠くないみたいだし」
エインヘルの記憶に触れ、脳が共鳴したからだろう。彼女の居場所を、朧げではあるものの確かに感じ取ることができるようになったのだった。
それによれば彼女のところまでそれほど距離はない――とはいえ何日もかかるとは思うのだけど。
とん、と踵を鳴らし、軽い足取りでセーランヘルの外縁へと向かう。今度はまっすぐに、建物の上を突っ切り、ひたすら向かった。
誰に会うこともないし、誰の姿も見ることはない。ただただ自分の鳴らす足音と息遣いだけを聴き続けるだけ。
生きた気配のしない街は不気味なほど静かだった。
「ふぅ……わぁ、綺麗な景色。もしできるなら、昼に見たかったかも」
また、来れたらいいな、今度はみんなで。そんなことを思ってしまうほどに夜でも見惚れる景色に出会った。
外縁のその向こうは黄金の山脈、とでも言おうか。
月光に照らされ淡く輝くまるで天国のような様相は、これから死地に向かうにしては豪華すぎるだろう。
「行くのだな」
「随分とあたしのことを気にかけるんだね、獣の王様は」
誰かが近づいてくるのはわかっていた。もちろん、足音にも聞き覚えはある。
あれだけの巨体だ。気配を隠すのは難しいだろうし、そもそも彼にはどうも隠すつもりもないようだ。
「狭間の身となりながら、其方は余との闘いにおいて個を強く示した。それが興味深く、また心配でもあるのだ」
「心配?」
「その個故に遠ざけるのであろう?」
「……はは、伊達に王様じゃないんだね。――そうだよ。あたしにはみんなを守れるだけの力がないし、家族と決着をつけるんだもの、巻き込めないんだ。もう、みんなが傷つくのは見てられないから」
「先刻の様子を見るに、それは彼らも――いや、余が口出しすることでもあるまい」
あたしが首を傾げると、獣の王は頭を振った。やれやれといったふうに。
「狭間の子よ」
「なに?」
「本来ならばわざわざ口を出すべきでも、首を突っ込むべきでもないのだが。余の試しを乗り越えた其方に……餞別と忠告を与えよう」
あたしは妙な面持ちの王様にくすりと込み上げてくるものを必死に堪えながら次の言葉を待った。
「我らとは違う系譜の龍の子らが其方の故郷に迫っておる――おそらく、其方にはこの状況に心当たりがあろう」
少し逡巡し、ズメウの司祭が口にした言葉を思い出し、頷く。
『お前がその存在を我らに露見したという事実は、お前が思うよりもはるかに大きい』
あたしにアンスールの脳が宿っていること――つまり、彼らが求めるアンスールの力が他者に受け継がれるという事実は、そうまでするのにあまりあるということなのだろうか。
「気をつけよ。其方に待ち受ける壁は同胞だけでは決してない。そしてこれが――ささやかな餞別だ」
獣の王は首を垂れ、あたしの掌に何かを乗せた。
これは、彼が身に纏っている鱗だろうか。軽くもなく重くもない。色鮮やかでもなければ地味でもない。不思議な存在感を醸し出していた。
「狩人にはこれ以上ない戦利品であろう? 使徒をも屠る余の一部だ――験担ぎとやらにもなるだろう。大切に持っておくが良い」
「うん、ありがとう」
一度握りしめてから懐にしまう。
加工できるほどの大きさではないので、残念だが何かに作り替えることは難しそうだ。お守り程度に持っておこう。
「獣の王様は、思ったより不器用なんだね」
「そうかもしれん。だが、其方の行く末は見守るとしよう。それが、縁というものだからな」
あたしはもう一度お礼をしてから、セーランヘルの外縁の外へと飛んだ。
♢
夜の山中とは思えないほどに煌々と月光に照らし出される黄金の大地を駆ける。それは時折拍動するように、呼吸するように動いていた。
岩肌付近には点々と光が灯っているが、精霊灯籠ではなく精霊そのもののようだ。ふわふわと動きながら、度々あたしの周りを興味深そうに飛びながらそれは辺りを照らしている。
こんな場所もあるのか、この世界には。
しがらみが何もなかったら静かに旅をして、世界を見て回るんだけど。こんな、一人で飛び出してなんてこないで、みんなと一緒に穏やかに過ごすのに。
エインヘルを助けると決めてしまったから、そんな未来はそれを成し遂げてからしか見られない。とはいえ、あんなに傷つき助けを求める人を放ってそんな未来に生きることなんて、あたしには到底できそうになかった。
あたしは軽快に山道を下っていく。夜明けを迎える前にはこの山の麓にはたどり着いてしまいたかった。この景色をゆっくり見られないのは残念だが、それよりもなすべきことをなさなければならない。
ショートカットできそうな崖を見つけ、迷うことなく飛び出し、空を舞う。
ふわっと浮かび、身体を大の字にして下降していく。視線に捉えた鱗のような黄金の岩肌が艶めいていて、まるで天国に落ちていくかのようだ。
「くすくす。なに、天国に落ちるって」
呟きながら体勢を立て直し着地する。そしてまた駆け出した。
あたしの脚なら、夜明けより前には山を抜けられるだろう。
♢
数日の間、狩りをしながら、たまに休憩を挟みながらも進み続けた。眠れない、というあたしが獲得した体質も今はありがたく、移動速度に拍車をかけている。
道中、戦闘の形跡を何度も見かけた。ズメウと、そして王国の兵士たちの遺体もかなり転がっていたし、中には息絶える寸前の者もいた。
兵士を助けることは叶わなかったが、あたしを天使だと誤認してくれたおかげで、いくつか戦況の話をスムーズに聞くことができた。
王国軍は徐々に後退しているが、ズメウも苦戦を強いられているらしいこと。そしてこの方角に派遣された指揮官たる王族は――ローランであるということが確認できた。つまり、この兵士たちは彼の部下ということになる。
それともう一つ、王権闘争について確認できたことがあった。
オズワルド、そして弟のディノスはローランが既に殺害し力を奪っているらしい。
――ローラン・ハルモニア。
現王の長子であり、あたしのもう一人の兄にあたる人物。あたしが国にいた頃から国王候補として育てられ、兄弟の筆頭を務めていた人物だ。聞きたくもないことだったが聞こえてきた話の内容によれば、兄弟の誰も、ローランに模擬戦で勝つことはできなかったらしい。
「この先にいるのはローラン兄さん、か」
よりによってローランとはついてない。話によれば、妹であるジュディスも別部隊としてズメウ撃退のため派遣されているらしい。
この二人が王国の領土の主たる守り手であるのは確かだろう。武勲を稼ぐというやり方も、民心を掴むには有用であるだろうし。
あたしはこの状況を好機と一度は捉えた。兄弟が王都の外にいるのであれば、エインヘルを助ける障害は現王を除き存在しないことになるだろうからだ。――しかし。
「ローランが西方の守りでジュディスが北方となると……難しいかもしれない」
エインヘルの記憶で見た融和の地は、どうやら大陸の東部にあるらしいのだ。ズメウが攻め込むとしたら間違いなく西か北の方向からしかあり得ない。融和の地の東と南には広大な海が広がっているから。
王都から出たことのなかったあたしは、そのすぐ外に海があることすら知らなかったのだが。ツァイクーンも地理に関しては自身の狩りの範囲に限って詳しかったのみであったし。
「このまま進んでローラン兄さんを突破するか、北から回り込んでジュディスと会話を試みるか。はたまた迂回して南から行くか……んー」
現実的なのはジュディスとの合流かもしれない。迂回は地理や地形の把握に時間をかけなければならないし、ローランは突破するにはリスクが大きい。
考えろ考えろ。そのために父さんにたくさん教えてもらったんじゃないか。
その中でジュディスに宿る力について思い出し、あたしは悩みつつもローランを突破するという結論を下した。
妹は金色の両目、つまり天使の目を持っている。確かその能力の一つに未来予知があったはずだ。それでもし、彼女が今もあたしの味方であるならば、ローランを挟み撃ちにしてくれる可能性がある。
余計な消耗は避けるべきだし、もしもジュディスがこなくともローランさえ突破できれば王都には向かえる。その場合も死線には変わりないが、それでもジュディスと事を構えるよりは幾分マシなはずだ。
――万が一ジュディスが敵であった場合、その目のこともあり一方的に殺されてしまうことも十二分に考えられる。
「楽観的な考えは避けるべきだね。最悪の想定もしておかないと」
一番悪い想定は、ジュディスが敵の場合かつ、その目の力でローランを救援に来た場合だろう。
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