女の声と共に風切り音が降ってきて。
鋭く空を射抜く音は、次の瞬間には兄の身体に突き刺さり、その身体をいとも容易く貫いていた。
「ぐあっ……?」
「兄さんっ!」
槍だ。人を軽く串刺しにできるであろう騎兵槍が、兄の身体を貫いている。そして、それは軽い足音と共に深々と兄を抉っていく。
「ごぶっ……ジュディスか……なぜ?」
「兄様が私の姉様と手を取り合おうとしたからですわ穢らわしい。散々何もしなかったくせに今更良い人ぶるんじゃありませんよ」
「俺には、天使の肌があるはず……」
「あぁ。これですか? 兄様には非常に勿体無いのですが、特別サービスです。姉様に会えると思うと疼いて疼いて仕方ありませんでしたので私の――を先端にたっぷりと塗らせていただきましたわ。天使様との混血の体液を武器に塗りつければその肌をも貫ける。兄様がディノス兄様にやったことですよ? まさかこの私が知らないとでも思いました? この目に見通せないものなどございませんよ?」
「セナ……逃げろ、こいつは、ジュディスは……」
光を失いつつある琥珀の瞳があたしに必死に訴えかけていた。しかしその目は、あたしの目の前でゆっくりと持ち上がっていき、やがて視線が合わなくなっていく。
「あら? もしかして失礼なことをおっしゃろうとしてまして? あはは、姉様の前でそんなことはさせませんよ? くすくす。でも、ようやく一つになれますね、おにいさま」
「がっ……あ、あ、……あぁぁぁああ!」
ぶん、とランスが振り上がり、兄の身体から噴き出した血液の飛沫があたしの顔にもぴちゃぴちゃと付着した。
しかしそれを恍惚の顔をしてこれから浴びようとする女が目の前にいる。
らんらんと輝く金色の双眸、血を溶かしたような真紅の髪、白と赤を基調とした戦装束。
「姉様――私の姉様。久方ぶりの再会ですのにはしたなくて申し訳ありません。本当ならば初めては姉様がよろしかったのですが……くすくす。兄様が入ってくる、私の中にどんどん入ってきます……あははははっ!」
染まる。
その顔も、その戦装束も、その全てが兄の血で染まり尽くしていく。しかしさらに驚くべきは、その身体に起こる変化だった。
あたしの目の前で、幼い頃より散々聞いた力の奪い合いが行われている。
兄の血を啜るようにして女の肌に血が染み込んでいき、紋様へと変貌していた。それは、先ほどまで兄に描かれていた紋様と酷似している。
天使の翼のような、そんな紋様が女に次々刻まれていく。
「こいつは、狂っている……」
その言葉を最後にローランは息絶えたようだ。だらりと手足が垂れ下がり、光を失った瞳は何も捉えることはなくなっていた。同時に、身体からの血液の噴出の勢いが弱まる。
「これが天使の口……ふむふむ。まさか兄様の血液すらおいしくいただけるとはなかなか。そしてこの鼻……血生臭さに混じって姉様のいい匂い。オズ兄様ったら、毎日こんないいものを嗅いでおいてドブ臭いとか感性腐ってますわね……それとも、ふふふ、姉様のことがたまらなく好きだったのかしら。そして、へえ……まさかランスがこんなに軽くなるなんて腕もすごい。ねえねえ姉様、どうかしら私?」
おおよそ肌が露出している部位からはローランの血液は綺麗さっぱり無くなっていた。全て食い尽くしたかのように。その代わりに神々しい翼の紋様が広がっている。
あたしはその光景に声が出せずにいた。目の前で行われた力の継承もそうだが、眼前で妖艶に微笑む女があの――妹のジュディスであることが信じられなかった。
五年もあれば成長もする。確かに面影もあるし、切長の金色の両目は誤魔化しようがなく、綺麗な赤髪も年月と共に伸びたといえばそれまでだ。
狂気に満ちた瞳と、この状況さえなければ彼女はさぞ完璧な美女だろう。年齢から想像できる幼さなど、彼女は到底持ち合わせてはいなかった。
「姉様?」
「ジュディス……なの?」
「ええそうです。あなたが大好きな、そしてあなたを大好きな妹のジュディスです。私の大切で大切で、大切な姉様。ずっと探しておりました。狂ってしまうほどに。私しか味方がいなかったはずなのに急にいなくなってしまわれて。私の目でも、死んではいない、それしかわからず焦がれる日々でした」
「それは……いなくなったのはあたしにもよく――」
「あたし? 姉様、随分と変わられましたね。美しく美しく、より天使様に近く、それでいてその強くなられた瞳。見つめられるだけで感じてしまいますわ。オマセなのはお許しくださいませ」
半分くらい何を言っているかわからない。こんな話し方をする子ではなかった。こんな、捲し立てるような子では。
あたしがいなくなった後、彼女にいったい何があったのだろう。
「不思議そうな顔ですね。――私にとっても姉様は心の支えだった。それだけのことです。あなたを守ることで、あなたのそばにいることで私は私の自尊心を保っていたのです。それがなくなって少々、荒れてしまいまして――いえ、そんなことはもうどうでもいいのです。姉様に会えたのですから。これから姉様とも、一つになれるのですから」
狂気の瞳が違う色を宿してこちらを熱っぽく見つめる。
肉食獣の目だ。
獲物を追い詰める、楽しげかつ狡猾な強者の瞳。
それと目が合って我に返る。
呑まれてはいけない。とりあえず距離をとらなければ――
動くより先に右腕に衝撃が走る。嫌な音がして、あたしは地面を転がった。
「でも姉様にはお仕置きが必要です。私の前からいなくなることで私を壊したのですから。姉様にもその痛みをわかってもらってから、一つになりましょう」
悶絶するほどの痛みが襲ってきた。
しかし、蹲っているわけにはいかない。たとえ骨を折られても、その目から炎を絶やしてはいけない。目の前の強者に自分が獲物だと、強く認識させてはいけないのだから。
「へぇ……いい目ですね。ゾクゾクします。その目が絶望に染まって、昔のように私を求めてくださるまで徹底的にやって差し上げますわ」
飛び退くも、先を読んだようにジュディスが現れ殴り飛ばされる。
ああそうだっけ。天使の目はこういう時、嫌になる程強いんだった。妹も見事使いこなしているみたいだしこれは――勝てない。
度重なる衝撃のせいでいくらアンスールの脳でも、処理しきれていなかった。
あたしの意識が残っているせいだろうか。あたしだから、ダメなのか。でも、当たり前じゃないか。
心の拠り所だった妹がこうも変貌していては。
想定したよりも、もっともっと悪い展開だった。
「動きが鈍いですね。やる気あるんです? それとももう絶望してしまいました? ついさっきまで強い目をしていたのに」
胸ぐらを掴まれ強引に立たされる。
覗き込む金色の瞳と目が合った。そこにはあたしのボロボロの顔が映っている。
ひどい顔だった。でもその顔はほんの少しだけ。
「その顔です。私が一番好きな姉様の顔。世界の何もかもが嫌いって顔。今すぐ死んでしまいたい、そんな顔。でも私、本当は心まで全て奪ってから殺して差し上げたかった。私だけのものにして、一つになりたかったのです」
「それは残念だったね」
「え?」
全力で両足を持ち上げジュディスを蹴っ飛ばす。彼女の手が離れあたしは勢いのまま後方へ。ジュディスはその場で蹴られた箇所を押さえている。
「ったく……なんていうかさ、君たちあたしの家族はほんっと――心底くだらないね」
――でもその顔は、あたしの顔はほんの少しだけ生きていたんだ。
同時にあたしの中で何かが切れたのがわかる。オズワルドといい、ローランといい、ジュディスといい。
「姉様、なにを……?」
「いくらあたしが虐げられてて、死にたくて死にたくてたまらなかったからってさ……物扱いはないと思うんだよね? こうやって両目を出して戻ってきてんのにさ、何様のつもり? 確かに偶然とはいえあたしは逃げたのかもしれない。でも、あたしはあたしで生きてきた。大切なものもたくさんできた、もう自分の命を軽くなんて考えてない。なのに君たちはほんっとあたしの命を軽く扱うよね? 特にジュディス。何? 全て奪ってから一つになりたいって、気持ち悪い。そんな簡単に奪い尽くせるほどあたしの人生軽くないんだよ」
はあ、はあ、はあ。
息が続く限り捲し立ててしまった。でも、こんな言葉が出てくるなんて本当にあたしは、いい方向へ変わったらしい。
右腕は相変わらず激痛で嫌になりそうだし、勝てないという確信もあるから脚は震えているし、言葉とは裏腹で情けない限りだ。
でも、今度は諦めてなんかやらない。次諦めたら、デゼルに怒られてしまうんだもの。
「……ぷっ、あっはは」
「何がおかしいの?」
「いいえ。本当に、本当に魅力的です姉様。惚れ直してしまいました。私も姉様の特別になれればよかったのですのに……」
「今からでも遅くは――」
「いいえ、もう遅いのです。私は、あなたが欲しいという情動に逆らえない。その血を浴びて、一つになって、永遠を得たい。姉様が離れていくのが怖くて怖くてたまらないのですから」
ジュディスの瞳は静かな炎を宿す。狂気はその姿を隠し、妹を表に出した。
ああそうか。あたしも心のどこかに、自分なんかいなければいい、誰も自分のことなんか見てくれない、そんな闇を抱えている。
あの子もあたしと同じ部分が、確かにあるのだ。
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