階段を下る。
一段、また一段と進むたびに昏くなっていく中を、耳に届く反響の音を頼りに進んでいく。
城内の騒動が嘘のように静かだった。
どこかべたついた空気が肌に纏わりつき、じんわりと汗を呼び起こしていくのを感じながらあたしは進んだ。
ぺたぺたとした自分の足音よりも、早鐘を打つ心臓の鼓動のほうが大きいことに気が付く。
「はは……緊張してるんだ、あたし」
つぶやく声が行く当てもなく溶けていって、また静寂が広がっていく。
永遠にも感じられた階段はあっけなく終わりを告げ、湿った空気の張り付いた空間へとあたしは足を踏み入れた。
徐々に目が慣れてきて、そこが小部屋であることに気が付いた。あるいは牢獄とでもいうべきだろうか。ただ、格子があるわけではなく、飾り程度の小さな窓がひとつあり、ほのかな光を室内に取り込んでいるようだった。
そこにはベッドがひとつあるだけで、他には何もない。少し離れていてもわかる汚れたシーツと、鼻につく嫌なにおいだけが、彼女のここでの扱いを容易に推測させた。
彼女の記憶を見た今ならわかる。どれだけ――どれだけの仕打ちを受けてきたのか。
ベッドの中央に座り込み項垂れている女性がいた。その足は鎖につながれ、その服はボロボロで、あの時よりもひどく傷ついて見える。
女がゆっくりと顔を上げてほほ笑んだ。
その顔にはやつれなどなく、あたしが見た記憶そのままの天使のほほえみがあった。
「あらあら、女の子が間違ってもこんなところに来たら、怖い王様に殺されてしまいますよ」
「お父さんなら死んだよ。それに、来るのは二回目だけどあたしはこうして生きてる。――約束を果たしに来たんだよ、エインヘル」
「ええ。そろそろ来る頃だろうと思っていました。……産んだ時以外に会うことのできない我が子と、二度も会えるなんて夢のようです。今度は、こちらに寄ってくれますか、セナ?」
あたしは頷いてエインヘルへと歩み寄る。
懐かしい声だ。記憶から一度は消えていたその声。
鼓膜を震わせ、心に溶けていくような旋律が染みわたって目頭が熱くなる。それはやがて頬を伝って零れ落ちていく。
「泣いているのですね、セナ。悲しいのですか?」
「ううん、嬉しいんだよ、お母さん」
「あらら……もしかしてこの、あなたを見てから胸に広がるこのぽかぽかこそが、嬉しさ、ですか」
エインヘルは胸に手を当てて、ゆっくりと、嚙みしめるように頷いた。
その金色の双眸と視線が交錯する。
「セナ、ありがとう。私に嬉しさを思い出させてくれて。あなたと初めて会ったときも本当に嬉しかったのを思い出せました」
彼女は感情を学ぶ子供のように、無垢な笑みをあたしに向けた。天使様と呼ばれる張り付いたほほえみとは明らかに違う、彼女自身の笑みだった。
あたしはしゃがみこんでエインヘルと視線の位置を合わせた。すると、嫌でも彼女の身体が目に入る。
記憶にある彼女よりもはるかにひどくなったその肌に浮かぶ充血と傷跡を見て、吐き気を催しそうになるのを必死にこらえた。
エインヘルの足首から伸びる枷を睨みつける。
「足枷、外すよ。そうしたらここから一緒に出よう」
「――セナ」
諌めるような声に顔を上げると、彼女は悲壮な顔つきをしていた。嬉しいのに悲しいような、まるで人間のような顔だった。
「私は、理解は難しくとも多くの感情を学びました。あなたに会えた喜びも、我が子を失う悲しみもそうです」
「何を、言っているの?」
「その枷は、私をここに物理的に縛り付けているだけではないのです。それは、私の心を諦めで繋ぎとめるためのものでもあるのです。いろいろなものが浮かんでは渦巻き、それが波濤のように押し寄せてくる。それがなくなってしまえば、私は私がどうなってしまうか、わからないのです」
「でも、地獄から助けてほしいって言ったのはエインヘルのほうでしょう?」
エインヘルは金色の瞳を震わせながら、胸の前で祈るように手を組み、瞼を下ろした。
彼女こそがそうされる側の立場の存在だったはずなのに、いまでは彼女が何者かに助けを乞うているようだった。
その姿はどこかジレンマを抱える人間のようで、恐れを抱く人間のようで、あたしは彼女の存在をより近くに感じることができた。
「エインヘル――ううん、お母さん」
「はい……?」
あたしの呼ぶ声にエインヘルは薄目を開き、その金色の瞳であたしを見つめた。
彼女の強く結ばれた両手を包み込むようにして握る。
「あなたはあたしを絶望の淵から拾い上げてくれた。あなたとの出会いがなかったらここまで強くなれなかったんだ」
嚙み砕くようにして心を紡ぎ出していく。
エインヘルの目を見て、彼女が獲得した心に届くように。
「誰かの宝石になることもできず、ただの石ころのまま死んでいく運命だったんだよ。ほかの、あなたの子供と同じように」
あたしよりも少しだけ大人びた顔があたしの言葉に目を見開いた。
「――あたし、いま幸せなんだ。ツァイクーンに拾われて、ルネに出会って。デゼルやシャトラ、リオンとここまで来てさ。それは全部あなたがくれたものなんだ、エインヘル。だから、今度はあたしが返す番」
「ありがとう。でもそれは、すべてあなたの力で得たものです。私に出会えたことも、その先に紡ぎ出した多くの絆も、きっとあなたがあなただから得られたものでしょう」
「それでも、きっかけをくれたのはあなただから。この言葉もそのまま返すよ。――あたしがあなたを嫌いになることはないよ。だから、行こう」
エインヘルの目尻が微かにうるんだ、気がした。
あたしは彼女の次の言葉をじっと待つ。その苦悩にさいなまれる顔を見つめながら。
「……セナ、あなたもご存知の通り、私という力を持つものが何かを選ぶというのは、相応の影響があるのです。私は一度それに失敗して、私が選んだために――私を選んだ多くの民を傷つける結果となりました」
「あたしも、全然規模は違うけれど、あたしの選択でたくさん大切な仲間を傷つけてしまったの。でも、言ってくれたんだ。巻き込まれたくて一緒に来てるって。――それはつまり、それ込みで信じてくれているわけでしょう?」
「その信頼を私は裏切ったのです。裏切って、しまったのですよ。セナ、あなたとは違って」
小さくも強く言葉にする彼女には後悔が見えた。
アンスールというシステムが感情を獲得するとこうも悩み苦しむものなのだろうか。あたしという一人の人間には考えの及ばないところが、確かにあるのだろう。
それでも、あたしは彼女をあきらめたくない。
「これからも、そうやって悩みながら裏切り続けるつもりなの?」
「……え?」
「この世界の人たちはみんな寿命が長い。いまでも、当時の人がここにはそれなりにいるんでしょう? その人たちはあなたが立ち上がるのを待っているんじゃないの? 侵略者に蹂躙され続け、それを甘んじて受け入れ続けているあなたを見せつけられ続けていることのほうが、もっともっと辛いんじゃないの? あたしも人間だけど、ここの人たちがやったことは到底許されることじゃないと思うんだ。王が死んだいま、あなたは立ち上がらなきゃ。そして変えていくんだよ。――それが、彼らの信頼にこたえることでしょう?」
あたしの言葉は、彼女に届くだろうか。
デゼルがあの時してくれた叱咤。どれだけ傷つくことになろうとも信じた者の為すことの背中を押すこと、それが一緒に進むということなのだと。
エインヘルが唇をかみ、そしてそれをゆっくりと解いてから、あたしの目を見つめ返す。
「見違えるほどに成長して帰ってきたのですね、セナ。きっと、あなたの言う通りなのでしょう。いま私が立ち上がり、私を信じた者を助けずして何が管理者でしょう。アンスールでしょう」
エインヘルが立ち上がる。あたしもそれに倣って立ち上がると、彼女はあたしの頬を冷たい両手で包み込んだ。
そして彼女は、今までに見たことのないような顔で、あたしの瞳を覗き込む。
ぱきん、と足元で何かが壊れる音がして、ぞくりとする気配が背筋を這いあがった。
頬を伝って流れ込んでくる何かが、あたしの脳に到達して、触れる。
「え……?」
「ふふふ、甘くて、純粋で、愛らしくて本当に可愛らしい愛娘。――あなたのおかげでようやく決心がつきました。私も進みましょう。いまの私が信じる道を」
違和感を覚え口を開こうとしたが、意識を食い荒らしていく久しく感じていなかったそれのせいで、あたしの身体からは力が抜けてしまう。
「おやすみなさい、セナ。次にあなたが目覚めたとき、その時はきっと、私と共に歩んでくれますよね?」
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