大樹の間を抜ける際、景色が歪んだ気がして目を閉じる。通り抜けたと思う辺りで頭を振って瞼を持ち上げると、不思議な光景が広がっていた。
先ほどまで木々が広がっていた場所が切り開かれている。それだけじゃない、木々に扉がつき、窓がつき、その中から光が溢れ出していた。
「これは……」
「わぁ、すごいねセナ! 突然家が出てきたよ」
「そんなに驚くことか?」
普通は驚くところだろう。
四年前ここに少しだけ滞在していたから景色は思い出せるけど、こんな仕組みで外界と隔てられていたとは知らなかった。御伽話の国に迷い込んだかのようなワクワク感があたしの中で湧き上がる。
しかし、出歩くアールヴはいない。
差し込む月の明かりに照らされたアールヴの里は静寂が支配していた。家屋と思われる場所からほんのり漏れ出した光も嘘のように気配がしない。
「どこだ? 知り合いの家」
「えっと確か……」
「待たれよお客人。そう勝手に動き回られても困る」
記憶を頼りにシャトラの家を探していると、後ろから声をかけられた。優しげだがどこか威厳のある声。それに振り返ると、顔に皺が寄った老齢と思われるアールヴの男が立っていた。
彼は驚いた表情を見せる。
「まさかと思ったが、セナか。よもや一角獣と共に戻ってくるとはな。吉兆か凶兆か、なんにせよ変化の兆しであることに変わりはあるまい。……だがまずは、ツァイクーンの良い薫陶を得たようだな」
「はい。ラウルさん。お久しぶりです」
「その佇まいに風格……お前が族長だな」
「いかにも。――どのような相手であってもまずは来訪の理由を聞くのが習わしでしてね。まずは共に来ていただけますかな?」
「もちろんだ」
やっぱりだ。あたしやルネと話す時とは纏っている空気や、声音が違う。彼らの前では威厳のある立ち振る舞いをする癖に、あたしたちの前では粗暴な態度をとる。人間嫌い以外にも何か理由があるのだろうか。
そんなことを考えていると、ルネがあたしのグローブを嘴で突っついた。どうしたのかと視線を動かすと、デゼルと族長が既に歩き出しているのが見える。
「どうしたの? 置いていかれるよ?」
「なんでもないよ。ありがと、ルネ」
右腕にルネを止まらせると、あたしは彼らの後をついていく。
その間、族長とデゼルがどういう関係なのか気になって二人の会話に耳を傾けていたが、そのほとんどが聞きなれない言葉ばかりでロクに理解はできなかった。
「デゼル殿は家に入れますまい。ここで良いでしょう」
「気を遣わせたな」
「いえ、お気になさらず」
木々の間を通り抜け、家と思しき場所を通り越して辿り着いたのは、月の光が照らし出す広場のような場所だった。もちろん他には誰もいないが、精霊灯籠だけが囲む様に漂っている。
切り株でできた椅子に族長とあたしが腰掛け、ルネは変わらず腕に掴まり、デゼルはそのままといった風で落ち着いた。
「して、こんな夜分に何用でこんな辺境へ参ったのですかな?」
「それは――」
掻い摘んで話した。包み隠さず話してもよかったが、おそらく突っぱねられると思ったから。アールヴがこんな場所に住むことを考えれば当然のことだ。
「協力しかねる」
「オレの頼みでも難しいか?」
「ええ。よもや人間の争いに我らを巻き込もうというのか、貴方は。貴方こそ、彼らの数々の所業を知っているのではないのですか?」
「ああ。だからこそだ。こいつの家のことを考えればオレとてこんなことはしたくない。だが――そこからも弾き出されたこいつだからこそ、オレは賭けたい」
「何を賭けたいというのです。我らの命ですかな?」
ラウルの声には怒気が宿り、挑発的なまでに酷い言い草だった。彼のあたしを見る目は、とても冷ややかに見えた。
ああ、この感覚はよく知っている。ツァイクーンに拾われるまで毎日のように感じていたものだ。しかし、ラウルは四年前はああも言ってくれたというのにどうしてそんな目をするのだろう。
口から自然と言葉が溢れてきてしまう。
「ラウルさん」
「セナ。私は今彼と話しているのです、お前は――」
「あなたが昔あたしに言ってくれたことは、口から出まかせだったんですね。『生まれ持ったものは否定するものではありません。毅然と生きなさい』なんて言っておいて」
「それとこれとは――」
「わかりますよ。あたしみたいな石ころの命なんかより、仲間の命の方が大事ですもの。そんなことよくわかっています。でも――あなたがああ言ってくれたからこそ、今あたしはこうして無様なりに生きているのに」
「っ――」
自分の声が自分のものじゃないみたいだ。
ツァイクーンが止めてくれたものが、またあたしから溢れ出していた。少しそんな感情に晒されただけなのにこの様だ。もう感情が止まらない。
わかっている。国の外でも中でも、社会なんてものはそんなものだ。金色の右目を持って王家に生まれたせいであたしはどこからも爪弾き。
――あたしを守れるのは、やっぱりあたしだけだ。
父がくれたたくさんの知恵や技術はこんな気持ちにならないためだったのに。一人で――独りでも生きられるように鍛えてもらったのに。
ここにいたらそんな気持ちを全て吐き出してしまいそうだったから、立ち上がって踵を返し走り出した。
こんなところにはいられない。ここにいたらまた、あんな冷たい視線を浴びることになってしまう。
こんな場所はどうなってもいい。でも、ここにはあたしの面倒を見てくれた人がいる。せめてその人にだけは、迷惑をかけられない。
ルネがあたしを制止する声。デゼルが焦って族長を窘める声、そして族長の悔いの混じった呟き。全て聞こえたが、今のあたしにはどれも不要なものだった。
来た道を引き返して、村の入り口を目指す。
万が一にも、王家の誰かがあたしを追ってきていたら、ここにいるシャトラが危ないもの。
「セナ……?」
途中で耳に届いてきたのは、よく馴染む声だった。もちろん聞き覚えのある声。今は、一番会いたくなかった人の声。
でも自然と足は止まってしまう。その顔を一目でも見たいと思ってしまったから。
「シャトラ……さん」
「どうしたのさその顔。酷い顔してるよ。――でも、大きくなったね。それに別嬪さんになった」
「あ、あぁ……」
金髪に綺麗な碧眼の、目鼻立ちの整った綺麗な顔。彼女は薄手の浅葱色の布で作られた衣服を纏っている。普通のアールヴの女性と違うのは、骨細工の装飾品を首だったり腕だったりにしているところと、その鋭い双眸。その下にもうクマはなかった。
「大丈夫? ウチの家来る?」
彼女の顔を見てこみ上げてきた感情の奔流を必死に抑えながらあたしは首をぶんぶんと横に振る。しかし、足が動いてくれなかった。
そんなあたしに歩み寄るシャトラの足音。そこから後ずさろうとしたけど、それよりも先に抱きしめられてしまった。
「今にもウチの胸で泣きたいって顔してたよ。ほら、いっぱい泣きな」
「でも、あたし……シャトラさんにまで迷惑、かけられない」
「いいんだよ。今度は、ウチの番だ」
顔を上げる。そこにはあたしの様子から何かを察してしまったのか、今にも泣きそうな美しい顔があった。それをあたしは見なかったふりをして、彼女の豊満な胸に抱かれて泣いた。
そんな情けなくてズルいあたしの頭を、シャトラはずっと撫で続けてくれていた。
「そうか。やっぱりツァイクーンさんは亡くなったんだね」
「うん。――病気、だったみたい」
「そっかぁ。だけど、いい娘に看取ってもらったみたいだね。よほどいい父親になれたじゃないか」
快活に笑うシャトラの目尻には涙が浮かんでいたが、彼女は大声をあげて泣くことはしなかった。でも、その身につけている装飾品も、家の中に並んだ骨細工の道具も――ツァイクーンへの想いを如実に表しているのがわかってしまって胸が痛くなる。
「実はね、さっきこれが壊れちゃって、土に還してあげるつもりで外に行ったんだよ。そしたらきみに会えたんだ。ふふふ、ツァイクーンさんの導きだね」
広げられた手に乗せられていたのは首飾りの一部だった。牙だかツノだかはわからないが、丁寧に加工された跡がある。すぐに父さんの仕事だとわかった。
「父さんのこと、好きだったの?」
「んー、あー。うん。たぶんそうかな。ある日致命傷に近いあの人が来て、治してあげたら通ってくれるようになってね。それでね」
家の中にあるたくさんのものを見渡して、シャトラはあたしの方を見ずに続ける。あたしの耳ならわかってしまう。彼女が嗚咽を噛み殺していること、あたしに涙を見せまいと振る舞っていること。
「たくさん、綺麗な骨細工をくれたんだ。みんな、彼がくれたものなんだよ。あんな大柄なのに、手先がすごく器用でね」
「うん」
「ごめんね。ウチ、こんな気持ちになるの久しぶりだから――止まらないんだ」
それから少しの間、シャトラと父についての話をした。悲しみと思い出を分かち合える相手と話すことで、あたしの乱れていた心も徐々に落ち着きを取り戻していった。
やがて彼女は泣き疲れ、話し疲れたのか倒れるようにして眠りに落ちていった。
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