不思議な感覚に見舞われていた。
意識ははっきりしているのに、耳と脚の感覚しかしないのだ。
しかし耳にはなんの音も届かない。あたしにとっては静かすぎる世界が広がっている。
脚は、ふわふわとした感覚であるものの間違いなく何かを踏みしめていた。
ひとまず、目は見えないが真っ直ぐと思われる方向に歩いてみることにする。
ここにリオンがいるはずなのだから。
――歩いて、歩いて、歩いて。
永遠とも一瞬とも取れる時間を歩いていると、鼓膜が何かの音を拾い上げた。
たぶん、声だ。それも、啜り泣くような声。それが、どこかからあたしの聴覚を刺激している。
次はその声を追って歩みを進めていくと、やがてその声はどんどんと大きくなって――突然視界が開けた。
「ここは……」
広がっていたのは、リオンと初めて出会った場所。その全てが灰色に染まっていることを除けば、あたしの記憶通りで間違いない。
歩けば波紋の広がる黒い床、宙に浮かぶ多くの本棚と丸い天井。
あたしは今も聞こえる女の子の声を頼りにリオンの姿を探し、ほどなくして彼女の姿を捉えた。
「やっと見つけたよ」
リオンはたくさんの本に囲まれて、その真ん中で膝を抱えていた。彼女が声を漏らすたび、彼女の体が震えるたびに床が揺れているかのようにわずかに波が広がっていく。
あたしはリオンのそばに歩み寄り、本をどかして彼女の左側に座り込んだ。
「どうして、来たんですか。ボク、セナさんを信じてやってみたけれど、結局ボクは弱いままで――自分の力を制御できないでいます。きっと、これは大切な誰かを失うまで止まらないんです。でも、今度は失いたくなくて。だから拒絶してたのに。どうして、来ちゃったんですか、セナさん」
意外にも、先に口を開いたのはリオンだった。その声は終始震えていて力無い。
「んー……あたしはリオンともう一度お話がしたくて来たの。それと、謝りにね」
「謝る?」
「うん。疑って、ごめんなさい。みんなの言うことが正しかった。それがわかったから」
「そんなことのために、わざわざこんなところまで危険を冒して来たんですか……?」
「そんなことじゃないでしょ。だってリオン、あの時傷ついた顔をしてたから」
その時、ようやくリオンが膝の間から顔を上げる。紫に黄色が溶けたような目を見開いてあたしを見つめるリオンの頬には色濃く残る涙の跡があり、紅潮していた。
メガネはかけていなかった。
「それは、あの後セナさんがボクにお礼を言ったから終わったものだと思ってました」
「あれ? そうなんだ。なーんだ、それじゃああたしの取り越し苦労かあ」
大袈裟にため息をついてみせると、リオンはそのくすんだ黄緑色の髪を小刻みに振るわせた。目尻からは雫が一つ。
「ねえ、リオン。……これさ、止まらないの?」
「……はい」
「前は大切な人を失って止まったんだよね」
「はい。お母さんを、失いました」
「そっ、か。お母さんだったんだ。……思い出すのも嫌かもしれないけど、お母さんがどうやって止めたのか、わからない?」
リオンは首を傾げ、あたしのことを目を丸くして覗き込んだ。そして首を横に振る。
「えっと……あの時はボクも正気じゃなかったんですけど、一つだけわかるのはお母さんが最期までボクを抱きしめていてくれたことです。あっ、もしかして」
「もしかして?」
「たぶん、たぶんですよ? お母さんは大精霊だったから、ボクの力を自分の力で相殺し続けて……お互いに力を使い果たして、それで……」
リオンの目に涙が溜まっていく。その目をかっと見開いて必死に泣かないようにしているのがわかった。
それで、お母さんだけが亡くなってしまった、か。
聞いてはみたけど、あたしにはその方法は無理だし、現実的じゃない。あたしはあたしの身体の外に出る力はおそらく何ももってないんだから。
「んー、となるとあたしじゃ止められないかもなあ」
「でしょう? ボクが力を使い果たすまで待っていた方が良かったんです」
「……それは嫌、かな。だってそうしたら、たぶん君は死んでしまうんでしょう?」
リオンは目を逸らし俯いてしまう。図星らしかった。
そんな別れ方をあたしが望むわけがない。きっと、先程のあたしと同じように彼女は自分の命を軽いものだと思っているのだ。
こんなあたしだからこそ教えてあげたいんだ。
ルネが、たった一枚の羽根であたしを助けてくれたように。
「もしかしたら知ってるかもしれないけど、あたし、お母さんが最初からいないんだ」
「え……?」
リオンは心底驚いたという顔をした。
「あたしを産んだ時に死んじゃったんだって。だからあたしは、お母さんに何かをもらったことなんてないんだよ。――この、命くらいかな。でもね、たくさんそれを投げ出そうと思ったんだよ」
「……知って、います」
「でもね、ある日とっても綺麗な人に会ったんだ。あたしの家にそんな人がいるなんて知らなくってさ。そして気付いたら外にいたんだ」
「……はい」
言いたいのはそんなことじゃないし、リオンも知っていそうなことだし。でも、リオンを見ていると無性に言葉が溢れてきてしまうのだ。
「エリュマウントにひき肉にされそうになったとこをお父さん――じゃなかった、ツァイクーンに拾われて、シャトラに救われて」
「……」
「ルネに会って、それからも色々あって、父さんが死んで。デゼルに会って、シャトラと再会してここまできたんだ」
リオンは嫌な顔一つせず聞いてくれている。どうしてだろう、彼女にとってはともすれば既知の話のはずなのに。
「君はたくさんの世界を知ってるでしょう。でも、自分がこの広い世界の誰かからどう思われるような存在かは知らない。違う?」
「ズメウの中ではボクは落ちこぼれで、異端者で、みんなと違うからって蔑まれてきたんです」
「あたしも同じだよ。でも、あの綺麗な人……エインヘルやツァイクーンのおかげでたくさんわかったことがあるんだ」
「それはなん、ですか?」
「どこかの石ころにしかすぎなかったあたしが、外では誰かの宝石になれるんだってこと。ルネもシャトラも、デゼルだってあたしのことを大切にしてくれてることがわかったんだ。――だからあたしにとって、君は宝石なんだと思う。他の誰かじゃない、君が。……はは、何言ってるんだろうね。わからなくなってきちゃった」
伝えたいことが伝わったらいい。伝わらないかもしれないけれど。
「あはは、何言ってるんですかセナさん。まだボクがどんな存在かなんて全然知らないくらいしか、関わってない、の、に……」
リオンがこぼしていく言葉と涙が黒い床に波紋を作り、あたしにまで届いてくる。
「これから君のことをたくさん知っていきたいっていう気持ちじゃ、ダメなのかな?」
「セナさんが、ボクを?」
「うん。リオンがあたしと話したいって言ったのと同じように、あたしももっと君と話がしたいんだ、これから」
その時だった。
本当に唐突に、右目にピシッとした痛みが走る。そしてそれは電流のように全身に波及し、あたしは弾かれるように天井を仰いだ。
「セナ、さん?」
理解してしまったのだ。
あたしの身体はとっくに限界だったんだって。この空間の真っ只中でそんなに長くとどまれるなんて変な話だったんだ。ずっと、この右目にある何かがあたしを維持し続けてくれていただけ。しかしそれももうすぐ限界を迎えてしまうらしい。
――それだけじゃない、気がする。
「ごめん、リオン。君が自分の力を抑えられないならせめてあたしが最後まで一緒にいようと思ったんだけど、どうやらそれも叶わないみたい」
「なにを? 言ってるんです、か?」
右目の視界は真っ白に染まってしまっている。だから、頭を必死に動かして左目でリオンを探した。
「あたし、もうすぐ、いなくなるみたいなんだ。そしたら、リオンの力も収まると、いいなあ……」
「そん、な……」
そうはいうものの、あたしがここでどうなろうが、リオンは止まらないだろう。だからこれは、ただの願い。あたしは彼女のお母さんのように何かを、彼女にしてあげられたわけではないのだから。
今度は自分の意志で天を仰ぐ。もう、リオンは見えない。
「そんなの、そんなの嫌です! こんなところでお別れなんて! やっと会えたのに! やっと……やっと、あなたの手を握れたのにっ!」
天井が激しく揺れ、あたしの身体が地面に大の字に押し倒される。そして視界いっぱいに広がる泣き崩れたリオンの生気にあふれる顔、ふわりとあたしの顔を包む彼女の毛先の真っ白になった髪。その目は決意に満ちていた。
でもとても残念ね。半分しか見えないんだもの。
「失いません、絶対に。――どうしていいかわからないけど、やってみます。……あ、あの」
リオンが恥ずかしそうに頬を染める。彼女が瞬きをするたびに、あたしの顔に熱のこもった水滴が落ちてきた。
「手を握っていてもらっても、いいですか?」
「……ん。もちろん」
軋む節々に意思を伝達して、片手だけでもと左手を動かし、リオンの右手のそばへ。すかさず彼女はあたしの手を握りしめ、あたしもそれを握り返した。
「えへへ、頑張れそうです」
リオンの吐息がすぐそばで弾けた。その目が僅かに輝き始め、髪にもそれが伝播していくのがわかる。
「止まれ……止まれ止まれ止まれ止まれ。――どうかボクの言うことを聞いて。ボクは、この人を……セナさんを失いたくないんだ」
リオンがあたしの手を強く強く握りしめながら、静かに、しかし強く吐き出した。それは静寂な空間へと曇りなく響き渡っていったように思う。
それが消えゆくくらいで、小さな違和感を感じた。
あたしの身体がほんの少しだけ軽くなった気がしたのだ。
体内に響き続けるひび割れのような音も、心なしか少しずつ小さくなっていくような。
――そんな程度の違和感だ。
リオンが、泣き笑いのような笑顔を見せる。
「はぁ……セナさん、ボク、やれたみたいです」
そこからは早かった。
リオンの頭越しに見える黒が、空気が抜けるように、割れるようにして崩れていく。その小さな穴から覗くのはエメラルドグリーンの光。
次の瞬間にはバキバキと音を立ててヒビが入り、光に溶けていくように粒子となっていった。
「よく頑張ったね」
ようやく少しだけ動かせるようになった身体を必死に動かしてリオンを抱き寄せた。骨が悲鳴を上げるが気にしてなどいられない。
「わわっ、ごめんなさい。セナさんにはたくさんご迷惑を」
いいのいいの、とあたしはリオンの頭を撫でる。
そんなあたしの耳元で、シャランと金属が擦れるような小さな音がした。
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