深呼吸をして、念の為身体の調子を確認する。
うん、問題ないと思う。体力は戻りきっていないようだけど、短時間なら全力で動いても問題なさそうだ。
「大丈夫? ウチがそっちのほうが」
「ううん。あいつはあたしに執着してるっぽいから、あたしの方が適任。それに、あたしはシャトラの弓を信じてるから」
「あはは、改めて言われると緊張するなぁ。――あ、この子を連れて行ってね。その子があいつの位置をウチに教えてくれるからさ」
シャトラが首の装飾品から精霊を呼び出す。その姿は黄色の光体で、彼? 彼女? は一通りあたしの周りを飛び回った後、腰につけていたポーチの中に滑り込んでいった。
「じゃ、頑張ってくるね」
「気をつけろよ」
うん、と頷いて足踏みをすると翼の紋様が淡く光り始めた。これで準備は完了だ。欲を言えば、軽くでいいから笛を吹いておきたかったものだけど。
建物の影から飛び出して、比較的ゆっくりな速度で姿を晒しつつ移動する。もちろん、聴覚を研ぎ澄ませたまま。
司祭に目立った動きの変化はない。だが、集中すればするほど彼の息遣いの機微が伝わってきた。相対したときの態度が嘘のように、彼の慎重さが感じられる。
別の建物の、彼の死角になるであろう場所に移動して一度息を潜めた。
相手に目立った動きをさせなければ囮が失敗に終わってしまうだろう。あたしは少しだけ考えてため息をついた。
「んー、こうなったらもっと大胆に行かないとダメかな?」
あたしが囮役を引き受けたのには理由があった。
司祭の大体の位置を把握できていること、そしてこの脚の力があればたとえ空中のど真ん中であっても回避できる可能性があるからだ。
相手に先手を打たせるためには無防備を晒す必要があり、それは回避しづらい状況であればあるほど効果を発揮するだろう。幸い、彼の前では脚の能力はその一端しか見せていないため、なおさら有利にことを運べると思ったのだ。
「あたしに意識を完全に向ける状況にするなら……そうだね、ギリギリまで攻めないと」
囮役はより派手な方が効果的だ。第一に、シャトラの動きを悟らせないようにしなければならない。
まだ少し遠いが、司祭は倒壊した建物の一室にいるらしい。詳しい状況までは直接見ていないからわからないが、接近したことによりおおよその位置は掴めてきていた。
あとはこの利を活かして相手に悟らせるのだ。――お前の位置をこちらはわかっているぞ、と。
もう一度安全地帯から飛び出して今度は建物の上へ。位置関係的にはあたしのいる場所は既に死角ではないはずだ。いつ攻撃されてもおかしくない。――しかし。
「まだ仕掛けてこないんだ。んー? もしかしてまだなにかあるのかな」
ならもっと大胆に挑発してやろうじゃない。
あたしは姿を晒したまま、笛を取り出して目を瞑り、吹き始めた。これならシャトラもあたしの大体の位置が掴める上、だんまりを決め込む相手へのこれ以上ない挑発になるだろう。
――ガキン。
ほどなくして、金属が何かに触れる冷たい音がする。そして呼吸が乱れたのがはっきりとわかるほどに、彼はあたしの挑発に乗ってきた。
「ナメた事をしていられるのも今のうちだ」
呟きが鮮明に聞こえた。――捕まえたよ。
あたしが声の出どころを睨め付けながら飛び上がるのと、司祭の得物から発射された金属の矢が地面を抉るのは同時だった。
「――っ、なんだと? だが、まだだ」
司祭の声とほぼ同時に視界に淡い光が飛び込んできた。そちらに一瞥をくれた瞬間その光は収束し、閃光を放ちながら爆発を起こした。
自分の意志以上に空へと打ち上げられる。
――してやられたのはあたしも同じというわけだ。
「……けど、こちらの方が上手かな?」
爆風でさらに浮かされた先で、あたしはポーチから飛び出していく光体を視界の端に捉えた。――シャトラの精霊だ。どうやら彼も司祭の位置を把握したらしく、一目散に彼の元へと飛び去っていく。
これであたしの仕事は完了。あとは、彼の注意をこのまま引き受けながらせいぜい生き残るだけだ。
一番大きな仕事を終えた安堵感も束の間、何かを引き絞るような、金属が擦れ合う音がして――あたしの目線の先に光る紋様が浮かび上がった。
「もう加減はせん。殺した後にじっくりと解剖して調べ尽くしてやろう」
それこそ当初の狙い通りだ。
今、彼はあたしにしか意識を向けていられないはずだ。獲物を殺せる絶好の好機を前に、他のことに意識が向くことなどあり得ないのだから。
「この勝負はあたしの勝ちだよ……っと!」
右目にピリッとした感覚がする。それは脚の紋様へと流れ込み、淡い赤色の発光を促した。あたしはその場で体勢を立て直す手間すら省き、最低限の動作で身をよじるようにして中空をわずかに移動した。
刹那、耳を劈くほどの風切り音が真横を通り過ぎていく。
――回避成功だ。あたしの仕事はここまで。
あたしはふっと力を抜いて自然な落下に身を任せることにする。
下方で大地を軽く蹴る音がした。
「ベストタイミング。あとは任せたよ――シャトラ」
「ありがとうセナ。……この距離なら外さない」
鮮やかな金髪と中空ですれ違いながら入れ替わる。矢をつがえながら飛ぶその凛々しい背中に後を託し、あたしは落ちながらその後を見守ることにした。
「それで勝ったつもりか。図に乗るでないぞ、原始的な武器に頼りっぱなしのアールヴ風情が」
「精霊の加護を捨てたきみたちこそ、足を掬われないよう気をつけるんだねっ!」
シャトラが精霊を纏わせた矢を放つのが見えた。それは建物の影に吸い込まれるように流線を描き飛んでいく。――しかしほぼ同時に、この距離でも耳が痛いほどの鋭い風切り音が突き抜けていくのも聞こえてしまった。
「シャトラっ!」
どのような当たり方をしたのかはわからない。だが間違いなくシャトラの身体がわずかに後方へと押し出されるのを目が捉えてしまった。
あたしにはもはやどうすることもできなかった。彼女の身体を支えに行きたくても、体勢を立て直す体力すら残っておらず、落下に身を任せることしかできない。
「大丈夫だよ、セナ」
遠くに見える彼女の一瞥と、耳に届く力強い声。
「――ウチの勝ちだから」
その声を最後に、あたしは背中から何かに打ちつけるように着地した。しかし、それは沈み込むようにしてあたしの身体を受け止め、衝撃を最小限にしてくれようとしている。
首をくすぐったのは、今となっては慣れ親しんだ肌触り。
「無茶しやがって。二人とも後で説教してやるからな」
「デゼル……いつもありがと」
「あー……ったく。調子狂うな」
「デゼルー! ウチのことも受け止めてーっ!」
「はぁっ!?」
デゼルにぼんやりと向けていた目線がシャトラの声に反応して戻る。途端に目と鼻の先に現れる、彼女の美しい顔と透明感溢れる碧色の瞳。
そして感じる、軽い衝撃と抱きしめられる感触。
「冗談キツイぞシャトラ。流石にセナが危ないだろうが」
「えへへ、ごめんね。でも大丈夫だったでしょ?」
「ったく……心臓に悪い」
言葉とは裏腹にデゼルの声は嬉しそうだった。
全身に触れるシャトラの温もりと柔らかさが、彼女が生きていることを如実に教えてくれる。
「殺したの?」
「ううん。生きてる、と思う。――咄嗟にずらしたの、何か情報を持ってるかも、って」
「そういうことなら今すぐに確かめに行くぞ。時間が経てば経つほど状況がわからなくなる。早くリオンの元へ戻るのだろう?」
そうだね、とシャトラが返してあたしの上から器用に身体を持ち上げる。その身体からぱたぱたと赤い液体がこぼれ落ちるのをあたしは見逃さなかった。
「シャトラ?」
「ん? ああ、大丈夫だよ。しばらくすれば治るってば。それよりも行こう、あの司祭のところにね」
「無理をしないで。辛くなったら言ってね?」
「うん、わかってるよ。ふふ。セナは心配性だなあ」
シャトラの顔にわずかな翳りが見えたような気がしたが、口には出さずに飲み込んだ。きっと気のせいだろう。彼女はアールヴ一の治癒師のはずだ。そんな彼女が大丈夫と言えば大丈夫、なのだろう。
デゼルの背で身体を起こして向きを変えて跨り直す。シャトラも後ろに座り、あたしの腰へと腕を回した。
それを合図とするように、デゼルは司祭のいる建物へと走り出す。おそらく遠目に見ていたのだろう、彼は迷うことなく一直線に彼のところへ向かっていった。
耳をすませば、司祭のかすかな息遣いが少しだけ遠く聞こえる。それよりもずっと鼓膜を叩き続ける音があった。
シャトラの拍動だ。常に落ち着くことなく、早鐘を鳴らし続けている。呼吸も浅く、彼女は時折言葉にならない呟きをこぼしていた。
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