焦りと恐れ。
その根底にあったのは自分が授かった天使の能力だった。
あらゆるものを嗅ぎ分け、あらゆるものを見つけ出す天使の鼻。ただ、それだけ。それ以外には何もない。
そういう意味では兄は恵まれていたし、妹も忌み嫌われる片目違いでなければ次期王の筆頭候補でもあった。
だが妹はその生まれ持った金色の右目のせいで後ろ指を指され、いじめられ、石を投げられていた。それに乗じて、この煩わしい劣等感を紛らわすことしか自分にはできなかった。
鍛錬をして来るべき日を待つ日々。そして妹の――セナの心を砕いてその能力を我がものとするための策略を練り続ける日々だった。
だが妹は忽然と姿を消してしまった。そしてその捜索は早々に打ち切られた。外で野垂れ死ねば誰かの元に妹が持っていた部位の能力が振り分けられるからだろう。
しかし、しかしだ。王位継承争いが始まる、もう一人の妹が適応年齢となる年になっても、誰のもとにも彼女の能力は振り分けられなかった。
それは如実に、セナが生きているということを意味している。
焦りと不安に駆られ、私兵を連れて王国を飛び出して痕跡を探した。幸運にもそれは意外にもすぐに見つかり、それを辿って追跡した。これならば、他の誰よりも早く辿り着ける自負がある。
ようやく、この時が来た。抜け駆けだとか、期日前とかそんなことは関係ない。
こんな劣等感に苛まれる日々は、もう終わらせなければならない。王になる者にこんなものは不要なのだから。
「くっ……ぷはぁっ!」
「セナ!? 立ったまま動かないから心配したよ。大丈夫?」
「ん……なんとか。オズワルドは?」
我に返ったあたしは倒れそうになったらしい。シャトラに抱きしめられるように支えられていた。どうやら足元もおぼつかない状態のようだ。膝が笑っている。
シャトラが指差す方向へとゆっくりと視線を泳がせる。すると、地面に倒れ伏してぴくぴくと痙攣する兄の姿があった。彼にいったい何が起こったのだろうか。
「この男、セナが触れた途端奇声を発して倒れたんだよ。それでそんな状態に……ちょっと診たけど、抜け殻みたいに反応もないんだ」
兄のそばにしゃがみ込み、その顔を見るが酷いものだった。目は見開かれ、泡を食い、ぶつぶつと何かを呟き続けている。
「そうなってしまったらウチでも治癒は難しい。放っておくしかないよ。――手遅れだ」
頭上からかけられた言葉に頷く。
酷い疲労感に襲われる身体を持ち上げ、立ち上がる。そして兄だったものを見下ろして目を逸らした。
何が起こったのかはわからない。でもあたしが何かをしたのは確かみたいだ。触れた途端流れ込んできたオズワルドの記憶と、もしかしたら関係があるのかもしれない。デゼルなら、何かわかるのだろうか。
「セナ」
「ん……?」
「行こう。このままここにいたらコイツの仲間が戻ってくるかもしれない。ひとまず離れるよ」
「……うん。わかった」
シャトラに肩を借りる形で少し歩き、その場を離れた。
誰もいない森の中、耳の力で周囲を確認する。よし、近くには誰もいないみたい。
大樹の幹に背中を預け、震える手でポーチから笛を取り出し、吐息を吹き込んで高い音を鳴らす。ルネへの呼び笛だ。
もしデゼルがこの音に気付いたとして、彼はここに来てくれるだろうか。たとえ来なくてもルネさえ来てくれればここから離れることができる。
心配そうにあたしの顔を覗き込むシャトラの顔を見て、安堵感からか当然の疑問が浮かんできた。
「そういえば、シャトラさん」
「なんだい? 改まって」
「いったいどうしてここに?」
「んん? あー! それはね――綺麗な一角獣が里に来て危険を知らせてくれたんだ。その時にきみのことを聞いたらこっちの方に向かったって教えてくれてね。止められたんだけど追ってきたってわけよ。それでその一角獣がね、苦い顔しながら『オレじゃアイツの心に言葉が届かない。一緒に過ごしてたみたいだからアイツのことはアンタに任せる』なんて頼んできたのさ」
「そっか……デゼルが」
「――そういうことだ。本当ならオレがここでお前を助けに戻るつもりだったんだが、どうやら適任ではないみたいだったからな。里のこともあったし実力もあるようだったから任せたんだ」
あたしの言葉に応えるデゼルの声がした。彼が駆けてくる音にはとんと気が付かなかった。
今日のあたしはとことん狩人としては失格らしい。今は疲労もあるんだろうが、シャトラのおかげかどうにも気が抜けてしまっているようだ。
「待ってよデゼル! 置いてかないで」
「まったく、遅いぞルネ。だが小娘は無事だ、安心するといい」
デゼルを追ってあたしの相棒もすぐに駆けつけてくる。そんな彼らの会話にふと違和感を覚えて、それが口をついて出た。
「あれ? 二人ともお互いの名前……?」
「あぁこれか? 共に戦場を駆け抜けた者同士。敬意を表すのは当然のことだろう」
フルルッと鼻を軽く鳴らしてデゼルが言う。それにルネも同意するようにピュイっと鳴いた。どうやら彼らの距離は縮まったみたいだ。あたしはデゼルとの距離をあけてしまったのに。
「それでね! 里は無事だよ。みんなで協力して追い払ったんだ、誰も死なずに済んだんだよ!」
「そっか、よかった。ありがとう! デゼル? にルネちゃん?」
「うわっ、くすぐったい」
「ふん。悪くない気分だ」
シャトラが二人を撫で回したり抱きついたりしていた。だがどうやら二人ともまんざらでもないらしい。
「お前の方も、なんとかなったようで何よりだ」
「一応ね。でもあたしのせいで里にも迷惑が――」
「こんなに早く追ってくるとはオレも予想していなかった。お互い様だ。ラウルには頭を下げておいたぞ。里の皆にもな」
「そっか……あたしも謝りに行かないと」
「いや、それはやめておけ。火に油を注ぎかねない。下手をすればここから出られなくなる」
「うん。それはウチも同意かな。アールヴは基本余所者が嫌いだし人間を特に嫌ってる。ウチみたいな例外もいるけど基本はみんなそう。特に族長みたいな長く生きてるのは人間を毛嫌いしてるよ」
「でもあたしのこと、ラウルさんは」
「きみが悪いわけじゃないっていうのは本心だと思うよ。でもね、建前でもあったと思うんだ。――あの時きみの隣にはツァイクーンさんがいたからね」
「そっか……そうなんだ」
あたしを前向きに促し、支えていた言葉。それがどんな思いから出たにせよ、今のあたしの礎であることは変わらない。
「生まれ持ったものを否定するなかれ。否定する者は社会にあらず、心そこにあらず。転がる石屑となにも変わらぬ――だろう?」
「どうしてそれを」
「ラウルから直接聞いた。お前を里から追い出そうとしたことを少しは悔いていたからな。だが、結果的にそれが正解だった。今は戻らない方がいいだろう」
「あたしのこと、心配してくれるんだ?」
「それがオレの役割だからな。それに、これからは少し違う」
姿勢良く寄ってくるデゼル。その顔つきからも雰囲気からも刺々しさがほとんどなくなっていた。そしてあたしの手に頬を触れさせる。それに応えるようにあたしはその頬を撫でた。
「お前は自分の同胞を一人でも打ち破る力と、その覚悟を示したようだ。ならばオレはセナ、お前を認めなければならない」
デゼルは、まるで先ほどのことを見ていたかのように話した。
「あたし、あんなに酷いことを言ったのに?」
「あの程度でオレは傷付かん。お前の何倍生きていると思っている?」
「そう、なんだ。……デゼル」
「なんだ?」
「ありがとう。君、思ったよりもよく喋るんだね」
「っけ……言ってろ。だから馴れ合うのはごめんなんだ」
ぶつくさと文句を垂れながら彼は顔を逸らして距離をとっていった。その様子を見てシャトラがくすくすと笑っている。
「変な組み合わせなのに仲がいいんだね、きみたちは」
「シャトラ……さんは、これからどうするの? 里に戻るなら近くまで送るけど」
「セナ――これからはシャトラでいいよ。……ウチはセナについていくつもりだからさ。あんなのが追ってくるんだったら一人でも仲間はいたほうがいいでしょ? それにね」
シャトラはその鋭い双眸をふっと和らげる。
「ウチの知らないところでセナに死なれちゃツァイクーンさんに怒られちゃうし」
「でも危険な旅になる、と思う。他の追手も強い人ばかりだと思うし、父さんの代わりとかそういうのなら――」
「違う。それは違うよ。うーん、言い方が悪かったか。ごめんね。――ウチは強く生きようともがくきみの生き様を目に焼き付けたいんだ。長く生きてきたけど、あの啖呵には痺れたし、心を動かされたもんさ」
オズワルドや他の兵士に向けて放った言葉だろうか。確かにシャトラは『よく言った』なんて言ってくれていたっけ。
「あとね。後悔を、もうしたくないんだ」
「後悔?」
その顔を見て、彼女の家で見た表情を思い出した。ツァイクーンに対して思うところがあるのだろうと察する。
「うん。ツァイクーンさんときみの旅について行けばよかったって今でも思っているから。だからさ、今度こそついて行ってもいいかな?」
「そんな風に言われたら断れない、よ」
「ふふふ、よかった。ありがと」
彼女はついさっきと打って変わって嬉しそうに笑顔を滲ませた。そしてあたしの頭をぐりぐりと撫でてくれる。ふわりと甘い香りが鼻腔をくすぐり、自然と心を落ち着けてくれていた。
「話は決まったようだな。そうと決まれば行くぞ。とりあえず夜のうちにこの森を抜けてしまおう」
「そうだね。なら上は僕に任せて。デゼル、セナのことお願いね。僕じゃ守りきれないかもしれないから」
「戯言を。あの姿を使えば造作もないだろうが」
軽口を叩き合う彼らの不思議な組み合わせをあたしは微笑ましく思いながら、デゼルの背に跨る。シャトラは見事な身のこなしであたしの後ろに乗った。
「そうだ、セナ。これ、一応身につけておいて」
「なにこれ?」
「――におい袋。あの男、においで追ってきたんだろう? なら少しは誤魔化せるかもしれない」
「ありがとう」
そんなもので天使の鼻は誤魔化せない――という言葉を飲み込み、彼女の気持ちと共に小さな袋を受け取る。ぎゅっと握りしめてポーチへとしまい込むと、そこからは彼女と同じ芳しい香りがした。
デゼルが嘶き、大地を蹴る。
「シャトラ、ついてくるのはいいけど里の人たちに挨拶とかしなくてよかったの?」
「気にしなくていいよ。あの人たちからしたらウチも異端だったろうし。――命が長くて病気もほとんどなくて、その分狩りも上手くなって怪我もほとんどしない。そんな里で治癒術ばーっかり鍛えてたウチのことなんてみんな気にしないって」
「そういう、もんかなぁ……あたしにはわからないかも」
思えばあたしも国を出た時はそうだった。不可抗力とはいえ、妹にすら一言も言えずじまいだったから。
「セナが気にしてくれるだけで十分だよ」
声は明るい。顔もきっと笑っているのだろう。軽くあたしに掴まるシャトラの熱を感じながら、デゼルの首を撫でる。
「話は済んだか? しっかり掴まっていろよ。あと静かにしてないと舌を噛むぞ」
くんっとスピードが上がる。
木々の間から見える空はゆっくりと白み始めていた。月明かりの役目ももうすぐ終わり、また新しい朝が来る。
ふと、オズワルドの顔が浮かんだ。
彼もまた、生まれ持ったもので人生を狂わされた一人だった。
――あたしと、同じように。
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