「はっ……? いま、のは……? あたしは……死んで――ない?」
脳に走った鋭い痛みに頭を押さえながら、倒れてしまわないように片脚で地面に踏ん張る。
あたしがやろうとしたことで、デゼルがいちばん傷ついてしまうなんて。
「オレからお前まで奪うな、か……ほんと、あそこまでエインヘルに従っておいてよく言うよ。でも……それなら意地でも生きなきゃなぁ」
どう動くか考える余裕はなかった。悠長にしていればシャトラがデゼルに殺されてしまうから。
「デゼル、あたしのところに来て」
つぶやくように、されど気持ちを込めて彼を呼ぶ。
あたしの声にびくりと身体を震わせ彼はその矛先をあたしに向けながら旋回して、再び駆けだした。
デゼルに対してやらなければならないこと、それ自体は変わらない。あたしを犠牲にせずあの頭に直接触れなければならないのは、いまのこの脚では心もとないけれど。
「ダメだよセナっ! きみの脚じゃ……! まさか……!」
シャトラは察しがいい。何をしようとしているか、あたしがどんな覚悟で彼を呼んだのか、それを見抜いてくれる。そして、あたしを守ろうと弓を取ってくれるのだ。
しかし、デゼルがそれで止まることも、減速することもない。シャトラがぺたりとしりもちをつくのが視界の片隅に見えた。
視線を移し、あたしめがけて一心不乱に駆けてくる純白の塊を捉える。
頬を伝うぬめりとしたものを拭うと、それは赤くて特有の匂いがした。
「そういえば、前も君が傷つくのを見て、これが出たんだっけ。はは、あたしにとって君は――うん、伝えてみせるよ、必ず」
とん、と片足で地面を叩いて中空へと躍り出る。
耳を澄ますと、彼もその脚力であたしについてきたようだった。全身の筋肉の唸りと、空気の振動音が心地いい。彼の音はいつも、純粋でまっすぐだ。
「だからこそ、こうやって」
もう一度空間に触れるように軽くステップを踏み、身体をデゼルの進行方向からわずかにずらす。それだけで、彼はあたしを素通りして地面へと戻っていった。
あたしがかろうじて着地するのをデゼルは見逃さず、すかさず駆けだしてくるのがわかる。
おそらく二度目はない。今度ばかりは覚悟を決めるしかないだろう。この脚がもう少しまともだったなら、また違ったろうに。
「ごめん、デゼル。君から大切なものを二つも奪うよ」
身構えた。
その黒く光る鋭い獲物があたしの目前に迫る。それから目を逸らさず、両手を広げてその時を待った。
「移り気のある殿方はやめたほうがよろしくてよ、お姉さま」
しかし、その鋭い先端をなにかが捉え、デゼルを押し戻しながらあたしの脚元の地面に突き刺さった。そして、ふわりとかぐわしい香りとともに女があたしの眼前に着地する。
「それと、のぞき見はよくありませんね。……ふふ、でもそのおかげで私も彼も間に合いました。――もう一度、生きている姉さまにお会いできてうれしい限りです」
血が溶けたような真紅の髪が舞い踊り、温かなぬくもりがあたしを包み込んだ。それから女は噛みしめるように何度も何度もあたしを抱きしめてはにおいを確かめていた。あたしも返すように抱きしめてあげると、彼女はんんん、と嬌声をあげる。
その背後で敵意をむき出しにしたデゼルが唸っていた。
「姉妹の感動の再会に水を差さないでもらえますか、汚らわしい色男。あなたからは別の女のにおいがします。ふふ、寝取られたのであれば重畳。あなたから姉さまを奪って差し上げますわ」
「ジュディス、これは」
「あはは、もちろんわかっていますよ姉さま。天使様のせいなのでしょう。そんなに空気を読まないジュディではありませんわ。でも、汚らわしいのは本当です。姉さまにご執心だったくせに天使様に寝取られ返されるとは情けない」
「寝取ったつもりはないんだけど……!」
「くすくす。姉さまにその気はなくても、天使様はきっとそう思っていらっしゃるでしょう。――おっと。はは、せっかちなナイトですわね。そんなにがっつくと嫌われますわよ?」
ジュディスが咄嗟にあたしをひょいと抱き上げ飛びのいていた。その顔が苦痛に歪むのを見て思い出す。
「はーあ。姉さま、姉妹水入らずはまたあとで。あの色男に貫かれた左腕の借りを返してきます。――動きを止めさえすればいいのでしょう?」
「う、うん」
あたしをゆっくりとおろして、ジュディスは金色の双眸にすぅっと冷たさを宿した。背筋の凍るようなその瞳にたじろいでしまうあたしの顔を見て、彼女は屈託もなく笑った。
その時だ。
途轍もない轟音が王都に響き渡り、空気をびりびりと震わせた。それはまるで獣の咆哮のようで、されどどこか聞き覚えのある音を含んでいた。
懐がじんわりと熱を帯びていくのがわかる。そこにあるのは確か。
「ふふふ、あちらも始まったようですね」
「何が、起こってるの?」
「そのうちわかりますわ、姉さま。でも、いまはあれを何とかするのが先決です。彼を解放すれば、天使様に手が届くのでしょう?」
「……うん」
「なら姉さま、ここはジュディにお任せください」
ジュディスが愛用の槍を手に取りデゼルと打ち合いを繰り広げ始める。その後ろ姿は頼もしく、決して彼に打ち負けてもいなかった。
タイミングを見てデゼルに取りつかなければならない。でもこの脚じゃそれもままならない。
「――そういうことなら。ここはウチの出番だね。リオンちゃんはあっちの物陰で休んでるから大丈夫。もしかしたら少し、怒っているかもしれないけどね」
「シャトラ……?」
「セナは本当、不器用だね。あの時、自分の身体で受け止めようとしたでしょ? この脚じゃいくらきみでも大して動けないだろうから仕方ないけどさ」
あたしの左足に手をかざし、ぼそぼそとつぶやくように彼女が言葉を落としていく。傷が見る見るうちに治っていくむずがゆさを感じながらシャトラの悔しそうな顔を見つめた。
「ごめん、ウチ……これくらいでしか役に立てなくて」
「ううん。シャトラのおかげでみんなこうして生きていられる。あなたがその身を削ってくれるからこそ、あたしたちはこうして――前に進めているんだよ。ありがとう」
「その目、すべて見透かしてるみたいで苦手だなぁ……」
「無理、しないでね」
「それはこっちの台詞。よし、これで動かせるはず。デゼルのこと、お願いね。……それはそうと、あの前にも戦った怖い子が、石を投げてくれたっていう――妹?」
「うん」
そっか、とシャトラが小さく息を吐き出した。複雑な表情を一瞬だけして、いつもの顔に戻る。
あたしは首をかしげながらも立ち上がり、脚の具合を確かめた。
とんとん、ととん。ぴょん。うん、問題なく動く。
「デゼル……いま行くからね」
激しく打ち合いを続ける二人の下へ駆け出しながら、前とは逆だなあなんて思ってしまう自分がいた。
脚が回復したからか、ジュディスが助けに来たからか、はたまた違う理由か、心に少しだけ冷静さが生まれているのを感じている。
――もう、あんな結末を迎えたりしない。
「くっ……左腕がまだうまく動かせないのもありますが……前より強い。それがあなたの本当の力ってわけですか。でも、私の後ろには姉さまがいますので、私に負けはありません」
時折デゼルの押出に負けてしまうのか後退してくるジュディス。それでも果敢に飛び込んでいくその背の真後ろからデゼルへと接近する。妹の長い髪が広がり、あたしをカモフラージュしてくれているはずだ。
「この耳が君を捉え、この脳が君を映し出して、この脚が君へと導くんだ、デゼル。この身体が動く限り、あたしは君を諦めないよ」
地面を蹴って飛ぶ。ジュディスの頭を超えてデゼルの直上へ。
「こら、よそ見はいけませんわ。いまはどうか私だけを見ていてくださいませ」
デゼルがあたしに気が付くもジュディスによって対応を阻まれ、強制的に彼女のほうを向かされた。さすがの彼でもジュディス相手では余裕がないらしく、どこか焦るような息遣いへと変わる。それはもしかすると、彼の奥にいるエインヘルの焦りなのかもしれなかった。
「ジュディス!」
空を蹴りつけ、デゼルの首元へ飛び込んでいく。それに合わせジュディスが槍を手放し、デゼルの懐へもぐりこみ掌底を彼の胸へ叩き込んだ。そして一瞬怯み項垂れた頭の角を引っ掴み、彼の頭を下方へと抑え込む。
その首に抱きつくようにしてデゼルの背に跨った。
「チェックメイトですわ、ナイト君」
「デゼル、いまから君を解放してあげるから……! くっ、落ち着いて!」
暴れ狂うデゼルに必死にしがみつきながらその後頭部に触れると、瞬間デゼルがびくりと跳ね、急におとなしくなった。
丁寧に力を滑らせていく。指先から糸が出ていく感覚をイメージしながら、それをデゼルの脳にまで伸ばし届かせる。
そして、がんじがらめに巻き付いた鎖のような枷をひとつひとつ解いていく。
「ごめんね、デゼル」
ぱきん、としもしない音が脳内でイメージされ、最後の枷が外れ溶けていく。それを見届けた後、あたしは自分の身体へと意識を回帰させる。
「セナ……夢を、見たんだ」
「うん?」
「オレが、お前を殺す夢を……悲しくて、苦しくて、怖くてたまらなかった。なぁ……お前はいま、本当に生きているのか?」
「もちろん。聞こえるでしょ、あたしの音。はは――エインヘルから君を奪ってやった。ここから君は、自由に生きていいんだ」
「……ああ。感謝、する。まさかあいつがこんな腹積もりだったとは。そのおかげで大切なものを自分の手で壊してしまうところだった」
ジュディスの手から解放されたデゼルは、今までにないほど穏やかな目をしていた。何かが吹っ切れたような、そんな雰囲気も纏っている。
「こらこら、そんな熱い視線で見つめあわないでもらえます? 特にナイト君は汚らわしいので姉さまを見ないでください」
「うぉわっ! なんでこいつがここに……ん? なんだ、言葉が」
「む……私のほうでも言葉が分かりますね。姉さま、脳をいじりすぎたんじゃないですか?」
「おい、怖いことを言うのはやめろ」
そんなところにまで触れてしまっただろうか。必死だったからわからない。
「なんにせよ、これで残るは天使様だけでしょう。王都のほうは彼に任せておけば問題ないでしょうし」
「そうだ、ジュディス。ずっと気になっていたけど、その彼っていうのは……?」
「庭園の向こうを見ればすぐにでもわかりますよ。間違いなく姉さまとも縁がある方のようですし」
ジュディスはあたしの懐を指差してにこりとわらった。
もしかして、なんて思いながらもデゼルと並んで庭園の外縁から王都へと目を向ける。
黒煙の立ち上る王都で、彼は異彩を放っていた。
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