「まさか我を生かすとはな……酔狂なことをする」
力無い声。いまにも息絶えてしまいそうだ。
瓦礫が散らばってはいるが――他と比べれば比較的綺麗に整えられた小部屋で司祭は壁を背にして座り込んでいた。壁にべっとりと残る縦筋の血の痕は、彼が背を擦り付けるようにしてそこに落ち着いたことを物語っている。
ここに来たのは、あたしだけ。辛そうにしていたシャトラをデゼルに任せ、急いできたのだ。
「ククク、まさかそんな戦略があるとはなあ。人間は武器の扱い方こそ教えてくれたが、そんなことはついぞ教えてくれなかったのだな」
「――答えてほしいことがある」
「……ああ、いいとも。どうせこのまま死にゆく命だ。ごふっ……我を見事打ち倒した者に褒美くらいはくれてやろう」
彼は腹部に矢を受けたらしい。奇しくもあたしと同じ場所に大きな穴が空いていた。到底矢で受けたとは思えないその傷は、今も大量の血液を吐き出し続け、床の色をじわじわと塗り替えている。
「なんで人間をあんな風にしたの?」
「そんなことか。彼らは突然出現し……この地をこんな様相にした。そして彼らはこの土地のマナを時間をかけて穢していったのだ。奴らにそんな意識は微塵もなかっただろうがな。……我らは穢れを好む故、研究と名を借りて一部はこの地に根付いた、というわけだ」
「答えになってない。――なんで、ユウはあんなことになったの?」
「ああ……そのことか。まず、ファルはこの世界では長く生きていられないらしい。彼らにとってマナそのものが毒のようでな。……とある年齢を超えると――といっても、我らにとっては大したことのない年齢ではあるが――身体がマナに耐えられなくなってしまうようだ。それで、ああやって多くの穢れが染み込んだマナとなって消えるのさ。ククク、ぐぷっ……だからだ」
「……え?」
ズメウは嘲笑を浮かべる。口からも時折血液を吹き出し、その目はぼんやりとしてどこを見ているのかわからない。崩れ落ちそうな白い天井でも眺めているのかもしれない。
「ファルをそれ以上に生かすために秘術を施してやったのさ。マナを栄養とし、それだけで生きられるようにな。……そしてその身に溜め込んだ穢れしマナを……しばしば我らが食すのだ。我らはマナさえあれば生きられる故、な。…………ああ、もっと話してやりたいが、もう限界が近いらしい。長い長い、生とやらが終わる。――時にアンスールの娘」
「なに?」
「不死鳥のことを、謝るつもりは、ない。……だが、忠告しておいてやろう」
虚に見えたその目がぎょろりと見開かれ、あたしと目が合った。そして震える指があたしを指差す。
「お前という存在が――お前がその存在を我らに露見したという事実は、お前が思うよりもはるかに大きい。……アンスールの脳が受け継がれるという現象そのものの体現。ククク。心躍るが見届けられないのが残念だ。――娘、お前は脅威として、そして、ズメウの悲願のための贄として我の同胞に追われるだろう。だが、一司祭たる我を倒したのだ。せいぜい、生き延びて、みせるの……だな」
嫌に力強く彼は言葉を発した。死が目前に迫っているとは到底思えないほどに。そして彼はさらに大量の血液を吐き出しながらも、あたしを見据えて顔を歪ませ嘲るように笑う。
「ああそうだ。最後に、いいことを教えてやろう。――あのアールヴの娘は助からん」
「え? 嘘……そんなはず、ない……」
「ククク。いい顔だ。――そして、リオンも今頃絶望の淵にいるだろう」
「なにを、言ってるの……?」
「だが、もしもあやつを救えるのならば、あるいは、な――」
司祭の首がかくんと落ち、腕はだらしなく垂れ下がった。そしてそこからピクリとも動くことはなくなってしまう。
随分と楽しそうに話していたし、よほどおしゃべりなタチだったらしい。
彼はシャトラのことも、リオンのことまでも気になることをわざわざ言い残した。しかし、大事なことを話さずに息絶えてしまっている。
いつの間にか握りしめていた拳の緊張をゆっくりとほぐして、長いため息をついた。
「早く、行かなくちゃ」
名前も知らない一人のズメウを一瞥し、あたしは窓から外へと飛び降りる。
着地した先にデゼルと、その背にシャトラがいた。シャトラの身体が垂れ流す血液が、デゼルの純白を染めているのがやけに目につく。その顔色は蒼白だ。
「終わったようだな」
「うん。彼はもう、あたしたちの脅威になることはないよ。――でも」
「でも? セナ、いったい何があった? お前の顔色も悪いぞ」
「はは……ウチの、ことでしょ? あいつ、まさかこんな術まで使うなんて思ってなかったな……今はまだ拮抗してるけど、そのうちダメになると思う」
「……なるほどな。しかし、どうするんだセナ。お前の求める答えはすぐそこにあるぞ」
デゼルが鼻先を向けた先。廃墟に似つかわしくないほど綺麗に残る建物群があった。
どうやらそこが、リオンの言っていた維持区画らしい。
「セナ。ウチならまだ大丈夫だから、見ておいで」
「っ……。そんな顔で言われたって、説得力ない」
デゼルの首に力無くもたれかかり、だらりと投げ出された両腕。その顔は必死に何かに耐えているような険しさだ。
あたしはどうしたらいい。シャトラはもちろん、リオンのことも気になって仕方がない。でも、人間の真実だってここまできて諦めたくはない。しかし。
ぐるぐると思考が駆け巡り、地面の一点を見つめたまま固まる。動悸が止まらない。
ふと、頭の中で目元を隠した少女がその虚な双眸であたしを睨みつけていることに気がついた。
――誰かを犠牲にしてまで何かを得るほどの価値が、わたしに、あるわけないでしょう?
ルネを失い、シャトラまで失ってしまったら。その上あたしが手を引いてしまったばっかりにリオンまで失ったら、あたしは。
目頭が熱くなり、鼻がつんとして、想像するだけで怖くてたまらない。
「……チッ。シャトラ、すまねえが揺れるぞ」
「ん……」
怒気を含んだ声を耳が拾い上げる。視線を動かすよりも前にあたしの身体がふわりと浮いて、ぶんと振り回され、投げ飛ばされた。
空を滑るように真横に飛んでいき、あたしは背中から壁へと打ちつけられた。肺から空気が押し出され口から吐き尽くされ、呼吸が止まる。そのまま無抵抗で地面に叩きつけられ、呻いた。
「今更こんなところで悩むくらいの覚悟しかないのかお前は。ルネが命を投げ打って! リオンが己の殻を破ってまで! シャトラが、命の危機を感じてまでお前を行かせる理由がわからないのか? なぁ……?」
全身に感じる激痛に悶えながら必死に顔を起こすと、明らかに怒りを露わにしたデゼルがいた。
彼がここまで激昂し、叫び散らすのを初めて見る。ズメウに怒った時でさえもっと冷静だったはずなのに。
あたしは乱れる呼吸を必死に整えながら身体を起こして壁を背に座り直した。
そんなことを言われて、身体の奥底から湧き上がってくる感情があった。それは、それは――あたしがずっと、ずっと口にしたくてもできなかった言葉たち。
「わっかんないよ! 失いたくないんだもん! やっと、やっとできたあたしの大切なんだよ! あたしのワガママで、死なせていいわけないじゃない! デゼルも、ルネも、シャトラも――リオンだって! だって……」
視線を落とすと、ぽたぽたと温かい雫が落ちていった。
ひとりぼっちだったあたしのそばにいることを選んでくれた、大切な彼ら。そんな彼らを失うことなんて、あたしには到底耐えられないんだ。
「ならお前はここでやめて、オレたちの信頼を裏切るのか? みんなお前を信じてここまで来たんだぞ。――オレたちがついていくと決めたお前を、お前自身が裏切ることは許さねえ」
身体の痛みを忘れるほどに胸が締め付けられる言葉。
徐に顔を上げてデゼルに視線を向けると、彼はぷいっと目を逸らした。
「モタモタしてないでさっさと行って戻ってこればいいだろう。シャトラにこれ以上無理をさせるな」
「……はは、大丈夫だってばデゼル」
震える足で立ち上がり、よろめきながらもあたしは維持区画へと足を向ける。そのまま建物の中へと侵入した。
急ぎたいのは山々だけど、身体がいうことを聞いてくれない。全身が軋むように痛いし、体力だってもう残っちゃいないのだ。
「あのばか……」
自然と口をついて出た自分のものとは思えない声音にあたしは驚きを隠せない。
ほんのりと温かさを感じる胸に手を当てると、口元が綻ぶのがわかった。
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