この世界は幻想世界に侵略を受け一度更地となったらしい。そして御伽噺の化け物が溢れる場所になったという。人間もその煽りを受け、多大な犠牲を被った。
しかし、人類は生存のために手段を選ばず、異種族との交配という手に出た。かくして試みは成功し、人類は人の形をある程度損なうものの、幻想世界の環境でも生きられるようになった。そして国ができ、あたしの家が今も玉座に居座っている。
王家の人間は天使と呼ばれる特別な種と交わり、人の姿を残したまま力を手に入れた。人類という種にとってそれは偉業そのものであり、あたしの祖先は圧倒的な支持を得て王となった。
これは王国に住んでいれば誰もが聞く伝説であり、歴史だ。それは異端者と呼ばれたあたしも例外ではなく、そう教え込まれていた。
家族から、国民からも石を投げられるようなあたしでさえ知っている話なのだ。
――音に雑音が滲み出ていく。集中力がかき乱されてしまっているのだ。
笛を吹くのを止めて、肩を落とした。
「こんなことならシャトラさんの家にいればよかったかも」
あたしはシャトラが眠った後、その家で少しだけ仮眠をとり、夜半過ぎに彼女を起こさないように家を抜け出してきたのだった。
そしてアールヴの里からも出て、大樹の枝の一本に座り笛を吹いている。ただ、心を落ち着けるために。あたしにとってはこれが習慣だから。
「逆効果だったかな。嫌なことまで思い出しちゃったし」
もう四年も離れていたのに、おそらく血とか家とかなんてものはどこまでも追いかけてくるのだろう。そして、この見た目も。
ラウルの言葉、そして視線が自然と思い出される。それが、心のうちに仕舞い込んでいた嫌な記憶をも連れてきてしまい、あたしの心を蝕んでいた。
深くため息をついて、空を見上げると、そこには二つの月が浮かんでいた。一つは小さく、一つは大きい。確か父さんは小さい方をアンウル、大きい方をシーロフアンウル、なんて呼んでいたっけ。シーロフは、外の、という意味だと言っていた。
「なんで外の月なんだろう?」
少し考えたが、わかるはずもない。生まれたときには空にあったものに対して疑問を持つことなどなかったのだから。そんな余裕もなかったのだし。
それを見ながらもう一度笛を構えて吐息を滑らせる。今度こそ、心が落ち着きますように。
「やっと見つけた。ったく。勝手にいなくなるんじゃねえ」
蹄が地面を叩く音と共にぶっきらぼうな声が真下から聞こえてきた。視線をそちらに送ると、月光に照らされて輝く白い毛並みと黄金の鬣を捉えた。
あたしは椅子から降りるように木の枝から離れ、大地へと落下していく。意識せずとも自然と脚の紋様が青白く光を発し、地面への衝撃をほぼ無くしたことで無事に着地した。
小さく息を吐き出し、声の主に振り返る。
「デゼル、どうしてここに?」
「ん? 今、笛吹いてたろうが。――急にいなくなるから探したぞ」
「あたしのことなんて放っておけばいいのに」
「勝手に死なれても困る」
「どうして?」
「……頼まれたからだ」
デゼルは渋々といった様子でそれだけ口にして、顔を背けて黙り込んだ。
頼まれたから、か。
会ってそんなに経っていないというのに、そういうふうに言われるとズキリと胸が痛む。――いったい何を期待していたんだろうあたしは。
「とにかく戻るぞ。ラウルには話をつけてある」
「嫌だ。戻らない」
「は? 嫌でも朝まではいろ。そしたら出ていけばいい」
「それでも嫌」
「駄々をこねるな小娘……それとも何か理由があるのか?」
「頼まれただけの君に話すことなんてないよ」
ギリっと唇を噛んだ。
あたしの事情を聞いたところで人間嫌いの、しかもアールヴからああも尊敬される素振りをされた彼にはきっとわからないだろう。
そんなあたしを見てデゼルは大きく舌打ちをして、鼻を鳴らした。馬の表情はわからないが、おそらく苦虫を噛み潰したような顔だろう。
「だから放っておいて」
「っ――オイッ」
ぴょんっと跳ねるようにして大樹の枝に飛び乗った。そして別の枝へと飛び移りながらその場を離れていく。
しかし、ある程度離れたところで、風切り音の他に飛び込んでくる音があることに気が付いた。
なんだろうこの音、まるで足音のような?
枝の一つに止まり、しゃがみ込んで呼吸を落ち着け耳を澄ます。
静寂が支配する森。そのはるか向こうから乱暴で、大量の足音が聞こえてくる。数はわからないがそれなりにはいるだろう。
こんな時間にこんな場所に来る理由――まさか、ね。
さらに集中して意識を巡らせると、二度と聞きたくもないと思っていた男の声が届いてきた。どこか焦るようなその響きと、怒号。
嫌な予感は的中した。
「この森に入ったのは間違いないんだ。探せ探せ! 探して俺の前に連れてきやがれ!」
その声の後、大量の足音がバラバラの場所に散らばっていくのがわかった。
相変わらず尊大でプライドの高いことだ。だが、その声はあたしに沢山の記憶を呼び起こさせた。
あの日までのあたしとは違う。そう思ってはいても脳に刻まれた嫌悪感、恐怖はそう簡単にはなくならない。次第に呼吸が乱れ、鼓動が乱されていく。
二人目の兄――オズワルド・ハルモニア。彼に刻まれた心の傷は深い。今思い返せば彼が一番あたしに執着していたような、そんな気がする。
「すう、はぁ……大丈夫。――大丈夫」
どくんどくんと早鐘を打つ心臓。胸に手を当て、呼吸を整えて落ち着かせる。
「――セナ? やっと見つけたよ」
「うわっ! びっくりした……」
「ごめん。僕の翼の音聞こえなかった?」
ルネの問いに頷く。気にしていなかったから聞こえなかったのだろう。また、心臓がバクバクいっている。落ち着かないな、これは。
「大丈夫? なにか」
「シー……あっちから追手がきてる」
鼻先に指を立てて静かにと合図を送り、追手の方向を指差した。この辺りの仕草は繰り返し覚えさせたからルネもわかってくれている。
「僕が先手を打とうか?」
「ううん。……デゼルに、いや」
ついさっきの出来事を思い出す。
ああ言ってしまった手前、デゼルに頼るのは違う気がした。だが、彼の言葉でしかアールヴの里は動いてくれないかもしれない。
「クソ馬に?」
「ん……うん。伝えてほしい。『王国の追手が来ているからアールヴ達を逃してほしい』って」
「嫌だけどわかった。僕に任せておいて。なにかあったら笛で呼んでね。遠すぎなければ必ず駆けつけるから」
ありがとう、と伝えてルネを送り出した。翼のはためく音が遠くに消えていく。
これはあたしの問題だ。相棒とはいえ彼を巻き込むのは気が引ける。それに、それにだ――あの兄さえどうにかできるならば、あたしの心の問題も少しは解消するかもしれない。
足音はどんどん近づいてくる。どれが兄の足音なのかはすぐにわかった。だが、それとは別に先行してくる複数の足音。
「こんな広い森の中を探せって言われてもなぁ」
「あぁ。あの王子さんなら自分の能力で探した方が早いだろうに。俺ら一般人じゃなぁ」
「だよな。あの鼻の力は本物だろうし。だが仮にも王族だ、率先して動く姿勢なんて見せはしないだろうよ」
男達の声と、駆け抜けていく音。人から逸脱した姿を持つ彼らを、あたしは冷たい目で見ていた。
息を潜め、物音ひとつ立てずに木の葉と枝に隠れてそれをやり過ごす。やはり父の教えは役に立つ。だが、あの兄相手にはそれは通じないだろう。
昔からそうだ。どこに隠れていたってあいつはあたしを見つけ出した。――どぶ臭い汚れたにおいがする、そう言って。
兄の足音と複数の足音が近づいてきて、通り過ぎることはなく、やはり止まった。
「おいお前、あのあたりからよく嗅いだ、どぶ臭いにおいがする。あそこに攻撃しろ」
「はっ!」
思った通り、兄オズワルドを隠れてやり過ごすことなどできない。
兵士の筋肉の躍動音と、弓が引き絞られ弦が震える振動が微細な音を立てて鼓膜を震わせる。そこから想定される射線は大体あたしの今いる場所。
次の瞬間にはびんっと弦が弾け、そして矢はまっすぐに予測通りの場所に飛んできた。それを避けると同時に音を頼りにグローブを嵌めた右手で捕まえる。
「手応えありです。オズワルド様」
「俺の鼻のおかげだが、お前の手柄にしてやろう。瀕死になった奴を犯す権利をくれてやる」
「くっくっく。ありがとうございます」
「物好きな奴だ」
戦場に慣れていないのか、確認もせずに悠長に話し込んでいる兵士たちと兄。足音から人数は五人だとわかった。この人数相手にやれるかどうかは相手の熟練度、そしてあたしの――実力次第だ。
矢を脇に抱えてそのまま倒れるようにして落ちていく。落下の衝撃は脚の能力が自然と緩和したものの、音はしっかりと立った。身動きせずに音で動きを探る。
さぁ……どう出るだろう?
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