チリチリと音がした。何かがあたしの中に入ってきたみたいだ。それは目と耳から這いずるようにあたしの脳へと侵入しようとしているらしい。
おそらくそれが脳に触れた瞬間。あたしの脳裏に見たこともない映像が浮かび上がってきた。それは断片的ではあるものの、間違いなくあたしの記憶なのだと本能が告げている。
――とても綺麗な金色の双眸を持つ女性。そのにおい、その温もり、そして……たった一つのおまじない。
『あなたのこの金色の瞳が、あなたを幸せにしますように』
優しくて、気持ちのこもったその声を思い出した瞬間、迸る熱が脳を支配した。それは瞬く間に全身へと波及していく。その清流のような心地よさと共にあたしはカッと目を見開いた。
飛び込んできたのは、目の前で空間が弾けたかのように龍人が――ズメウが後ずさった姿。それとほぼ時を同じくしてふっとユウの力が抜け、あたしは羽交締めからするりと脱出した。
ズメウの司祭は驚きを隠せないようだ。しかし、それはあたしも同様だ。あの時と同じ――理解が知識を追い越してきた。
「くっ、我々の術が効かないばかりか弾かれるなどと。しかしまさかまさか、本当に? それはまさしく――アンスールの『脳』ではないか。なるほど、それならば言葉が通じるのも頷けよう。……だが、ここに来た以上は逃れられると思わぬことだ。皆、この者を生捕にするぞ」
空気の流れる音に微細な違和が生じるのを三半規管が感じ取る。どうやら他のズメウたちも力を行使するつもりらしい。人間たちもそれに従うように、虚な瞳のままふらつくような足取りでこちらへと向かってくる。
しかし――あたしは無意識に自分の身体がいつもより軽いと感じていた。どうにでもなる気がするのだ。
豹変したように人間たちが直線的に飛び込んでくる。それをその場でジャンプして避け、ふわりと空間の中心へ。
そして、まるで最初から知っていたかのように自然と頭に浮かぶ言葉を紡ぎ出していく。
「結ばれし糸を手繰りて来たれ――デゼル!」
刹那、耳を劈くような衝撃音と共に純白のツノ馬が乱入してきた。その背には弓を携えた見目麗しいアールヴを乗せて。
「うわっ!? なになにここどこ!? ううん、そんなことより穢れが酷い……うっ吐きそう」
「来てやったぞセナ! 一方的にオレを呼び出せるとはな……」
デゼルの背中、俯いたシャトラの後ろに跨るように着地すると、デゼルは周囲を見回した。そして、蹄で力任せに地面を叩きつけ、高々と嘶いた。
「貴様ら……こんなことをしてアンスールが黙っていると思っているのか」
「ハッ! 我らを見捨てアンウルへ逃亡した者どもなど怖くはない! 現に今だって誰も咎めになど来ぬ! 貴様こそ、たかだか使いっ走りの獣の分際で威張るでないぞっ!」
理解に苦しむ言葉の応酬が続く中、シャトラが突然ゆらりとあたしの目の前で立ち上がった。暴れ狂うデゼルの上で器用にバランスをとりながら、だ。彼女はその綺麗な細指で首に巻かれた骨の装飾品をとんとんと叩き、さらさらと言葉を囁く。
「風と水の精霊さん、力を貸して。――ここの澱みを払うわ」
彼女が弓を上空に構えて、矢をつがえて放った。
その矢を包み込むように、二体の精霊が螺旋を描いて飛びながら重なり、そして天井手前で弾け飛んだ。そこから溢れ出した光の粒子が雨のように降り注ぐ。
それを浴びた人間たちが正気に戻ったかのように動きを止め、ズメウたちはわずかに動揺したように見えた。
「デゼル! 今だよっ!」
「ああ! しっかり捕まっていろ!」
入ってきた穴から外へ躍り出る際、ユウと目が合う。彼は申し訳なさそうな顔をしながら、行け、と呟いていた。
頷きを返してあたしは彼から目を逸らす。
「どこへ行けばいい? あいつらは多分追ってくる。闇雲に逃げるのは無謀だぞ?」
「えっと……」
「セナ! よかった無事だったんだね!」
「心配かけてごめん――ルネ、方向はわからないんだけど、やけに綺麗な建物があるはずだから探して。何かに包まれているようにも見えると思う」
「うん、わかった! 見てみるよ!」
嬉しそうに空へと飛び去っていくその姿を眺めながら、デゼルの背で揺られる。眼前のシャトラは疲労しているのか、何も言わずに呼吸を整えている様子だ。
「セナ、綺麗な建物あったよ! 誘導するからついてきて、デゼルっ」
「ああ! 了解だ、頼むぞ」
転がる瓦礫の山々をものともせず、デゼルはルネの飛ぶ方向へと進路を変更し、スピードを上げて走る。追手の気配はあっという間に遠ざかり、あたしの耳でもほどなくして聞こえなくなってしまった。
「セナ。先程の件、聞きたいことがあるんだが――」
「長い亜麻色の髪で、金色の両目をした女性」
「そうか。――まさか会ったことがあるのか」
「うん。さっきまで忘れていたんだけど。もしかしてあの人が?」
「――そうだ、理由は知らないが彼女がオレにお前のことを頼んだ。その女の名前がエインヘル。……それはそれとして聞かせろ。オレを呼びつけられたのは何故だ? あれは……」
「ううん。あたしにもわからないんだ」
言い淀むデゼルにそう答えると、そうか、と一言だけ呟いて彼は黙り込んだ。
あたしも断片的に思い出した記憶を手繰り寄せる。
エインヘルという女性はそもそもあたしの何なのだろう。ううん、それだけじゃない。どうして忘れていたんだろうか。
「あ、そうだ。ねえねえセナ。目的地に着いたら一度身体を見せてくれない? 彼らに何かされていないとも限らないでしょう?」
「うん。わかったよ。それにしてもシャトラ、さっきのすごかったね」
「あーあれ? 精霊に力を借りて行う、精霊魔法って言うんだよ。アールヴならほとんど誰でも使えるかな? ってセナこそ、あんな酷い穢れの場所にいたのになんともないの?」
うん、と相槌を打つ。彼女はうーんと首を傾げた。
おそらく、人間とアールヴでは感じる空気の質が全然違うからそう感じるのだろう。――でも。
もしかしたら、あたしの十五年生きてきた世界のせいかもしれない。そんな考えがよぎってしまう。
「ふふ。もしかしたら、その金色の右目が守ってくれてるのかもね。だってその右目――」
「おい、着いたぞ。……しかしこれはすごいな、本当に強力な壁が作られてやがる。中に入れるものなのかこれは」
デゼルが言葉を遮ってしまってその先は聞けなかったが、シャトラは気にしていないようだった。眼前に迫った荘厳な建物へと意識が向いたらしい。
「ここで合ってるよね、セナ?」
「うん、間違いないよ。ありがと」
デゼルの背から飛び降りる。ルネを呼び、グローブに留まらせて頭を軽く撫でてあげると、くすぐったそうに喜んだ。
「これは、精霊魔法とも違うなぁ。でも通れないだけで触ってもなんともない。しかも中にある建物とこの壁は明らかに後から突然現れたみたいな感じ」
言われて周囲を見渡して納得する。この障壁のようなものの形にくり抜かれた建物がいくつか目視できるからだ。
「だがどうやって入るんだ? その声の主とやらは反応してくれないのか?」
「ちょっと待って……」
壁に手を当てると、そこから波紋が広がるように全体へと流れていった。まるで水面に触れているかのように。
――聞こ、える?
しかし、触れながら念じてみても反応はない。
「逃げられるとは思わないこと、そう言ったはずだ。我らからすればこの程度の追跡など造作もない。女……お前の中にあるアンスールの脳、調べさせてもらうぞ」
背後から一切の疲れを感じさせない声がした。デゼルのスピード相手に追ってきて、だ。
「そんなことはさせん!」
「そうだよ。きみたちこそ、簡単にいくと思わないことだね」
すぐ後ろでばたばたと足音がする。デゼルとシャトラが声の主相手に立ちはだかったのだろう、おそらくはルネも。あたしの言葉を信じて、ここまで一緒に来てくれただけじゃない。この状況を打破できると信じて疑わない声音だ。
あたしが、なんとかしなきゃ。このままじゃみんなあいつらに。
「やめろっ! 司祭、あんたは悪いようにしないと言っていたじゃないか! こんなことはやめてくれ!」
「おや? ククク、まさか転移門を使ってここまで追ってきたのか? そこまでその人間モドキの女にご執心とはな」
突然聞こえてきたのはユウの声と、足音。驚いて振り返ると、デゼルとシャトラのさらに前に立ち、ユウは細腕を広げていた。それを見て司祭が嘲笑を浮かべる。
「何がお前をそうまでさせる?」
「彼女が、教えてくれようとしたから! おれが産まれてから変だと思っていたこと、少しだけ。……彼女を見て思ったんだ。もしかしたら、彼女こそ人間なんじゃないのかって! なぁっ! 答えてくれよ司祭!」
「――ユウ。お前たちこそまさしく人間なのだよ。我らがお前たちを生き永らえさせるために失わせてしまったものは確かにあれど、間違いなくお前たちが人間であることは変わらない。そちらの、姿こそ似ているが人の皮を被っただけの無法者のケダモノとは断じて違う」
司祭はあたしを指差して不気味に笑った。
――もしかしたら、他種族と交わって生き残ったことを言っているのかもしれない。
「そんなわけあるものか! なんて言っていいかわかんないけど……おれたちなんかよりよっぽど生きているじゃないか、彼女は! なぁ……おれたちが失ったものを返してくれよ……」
「手遅れだ。もはやそれはできぬ。だがそうだな、我らが返してもらうものはあるぞ」
司祭が天へと手を伸ばす。すると妙な音が鼓膜を叩き始めた。何かの拍動のような……それが、どんどん大きくなる。
「なっ、なにを……してる? いやだ、やめろ……やめてくれ」
「ふん。もう遅い。お前たち人間の分際で我らに意見するなど……せっかく人の姿のまま生かしておいてやっているというのに」
ユウの身体が光を放ち始める。――違う、彼自身が光になっている気がした。それはやがて膨張し、彼の身体を包み込み、覆い尽くしてしまう。次の瞬間にはそれは弾け飛び、彼の身体は光の粒子となって霧散していた。ユウだったものが、吸い込まれるように司祭の手のひらに集まっていく。
「クソ外道が。酷いことをする。ズメウよ、たとえ人間相手とはいえそれは――人をマナに変換するなどと。そこまで愚かなことをするとはな」
「なんてこと……あんなの、禁忌に触れる類のものじゃないの……?」
あたしは言葉を失っていた。ただただ呆然と光となって消えたユウがいた場所を見つめることしかできない。
あんなに簡単に、誰かを消してしまえるなんて。
「さて、これで邪魔者は一人消えた。次はアールヴの女、お前の番だ」
司祭は懐から何かを取り出し、それをシャトラに向けたように見えた。そこにユウだった光が集まっていく。背筋がゾクリとして、気付けばその場を飛び出し、彼女の背中を押してその場から逃がしていた。
あたしにとって、耳を塞ぎたくなるほどの轟音が響き渡る。それから射出された何かが発する音は息つく間もなくあたしの腹部に到達した。
「え――?」
肉を巻き込み、抉り取り、切り裂くように中を突き進みながら内臓を穿ち、背中から外へと貫通する――音がはっきりと聞こえた。そして身体を吹き抜ける風の音が一瞬だけして、洪水のように溢れ出す血液のノイズが耳を犯し尽くした。
――痛みはその後だった。
声も出せないほどの激痛が全身の力を奪い去り、あたしは膝から崩れ落ち、そのまま地面に倒れ伏すことしかできなかった。
「セナっ! クソッ!」
「ウチを庇って……? 嘘だよね、セナ……?」
「シャトラ、急げ。セナに治癒を施すんだ。間に合う、はずだ」
「う、うん! 必ず治すから……必ず……!」
声が降ってくる。どうやらシャトラは無事らしい。よかった……あたしはこの様だけど。
大切な人を守って死ぬなんて、あたしも石ころからやっと人間になれたのかも……? あ、でも、エインヘルって人が誰かは知りたかったなぁ……。
「意識をしっかり!」
「ルネ! オレたちで時を稼ぐぞ」
「――デゼル。二人のこと、お願いするね。ここは僕がなんとかするからさ」
「は? 何考えてやがる、ルネ。お前一人に背負わせられるわけないだろうがっ。なぜオレの前まで塞ぐ?」
霞む視界でもはっきりとわかる、ルネの本当の姿。強くて、大きくて温かいんだ、彼は。
聞こえる大きな爆発音と、鋭い風切り音。
「ル……ネ……?」
「セナ……? 僕はね、セナに生きていて欲しいんだ。たとえ僕がどうなったとしても」
「やめろ! オレとお前の二人なら、どちらも生き残れるかもしれないだろうが。オレを前に行かせろ!」
「あはは――嫌だよ。だってデゼルは、もし死んじゃったらそのままじゃないか。僕なら死んでも、きっとまた会えるから」
「そういうことを言ってるんじゃない! オレが言いたいのはな――!」
「な、にを……言って、いる……の?」
声が遠くなっていっても、その涙混じりの声が言葉を紡いでいくのがわかったから、必死に耳を傾ける。
「だいすきだよ、セナ。どうか――」
でも、ルネの声を最後まで聞き取ることはできなかった。
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