心の中の“悪人”を消したい。
僕の心の中には“悪人”がいる。
この場合の“悪人”を言葉で言い表そうとするとあまり上手くは出来ないけども、自分が思う『こんな人間がいたらものすごく腹立つだろうな』という要素を兼ね備えた架空の人物と表現するのが一番近いかもしれない。そして僕はここ数年間、この“悪人”の言動が脳内に浮かび上がってくることで、機嫌が悪くなったり気分が悪くなったりすることを繰り返している。
これだけではあまりピンと来ないかもしれないが、皆さんにも多かれ少なかれこんな経験がないだろうか。
・上司に怒られたことで、その上司がいかに理不尽だったか、いかにみんなから嫌われていたかを思い返す。
・告白した相手にフラれたことで、相手がいかにセンスがないか、性格が悪いのではないかと思い込む。
・就職面接に落ちたことで、その会社の悪い部分や、商品の悪いところを探す。
つまり、自分に何か悪いことが起こった時に、自分の落ち度ではなく相手の落ち度を探すという行為である。そうすることで『自分は悪くない。自分はなんて可哀想な人間なんだ』と、自己の正当性を確保したいのである。
僕はこの『自分のことを叱ったり、認めなかった人間の落ち度を探す』という行為を人並み以上に行ってしまう。実際に人並み以上に行っているのかはわからないが、僕の周りの人間はそこまで他人を悪人だと思い込もうとしているようには見えないので、そう認識している。
そして、『相手の落ち度を探す』という行為はいずれ『相手を悪人だと思い込む』という行為に繋がっていく。
ここで冒頭の“悪人”の話に戻るが、僕の中にいる“悪人”とは、そうした僕自身に対して嫌なことをしてきた、もしくは嫌なことをしてきそうな人間の集合体である。僕は今まで自分に対して叱ってきたり、悪口を言ってきた人間、あるいはネットなどで嫌な言動をしている人間たちを、『どうしようもない悪人』であると思い込もうとしてきた。彼らの言動行動を頻繁に思い返し、『こいつはなんて悪いヤツなんだ』と自分に刷り込ませてきた。
その結果、常日頃から僕に嫌な言動をする理想的な“悪人”が生まれてしまった。“悪人”の嫌な言動を思い返す度に機嫌が悪くなり、気分が悪くなっていくが、同時にその“悪人”に責められている自分を被害者だと思い込もうとしている。言い換えれば『被害妄想』のようなものである。
しかし困ったことに、最近では“悪人”を想像するあまり、実際には言われていない『嫌な言葉』まで頭に思い浮かんでしまうようになった。僕はこれを、『“悪人”が暴れている』と表現している。疲れている時や機嫌の悪い時ほど“悪人”が暴れ始め、さらに機嫌が悪くなるという悪循環である。もっと言えば、“悪人”の言動を想像するにつれて、僕の考え全体が“悪人”に近くなっていく予感すらあった。
なので僕は少しでも“悪人”を弱めるために、考えを整理するためにこの文章を書いている。同時に僕と同じように心の中の“悪人”によって苦しんでいる人にとって、少しでも参考になればと思っている。
ここで僕の中にいる“悪人”の特徴を紹介する。
・基本的に自己中心的で他人を見下し、周りの人間は自分に奉仕して当然だと思っている。
・自分の命は世界より重いと考えている。
・他人の不幸を喜び、他人の幸福を妬む。
・他人の粗探しが好きで、他人が間違った選択をすると嬉しそうに不正解だと伝える。
・努力を嫌い、他人が自分を満足させるのが当然であると思っている。
・他人は自分のために生き、自分のために死ぬ存在だとしている。
・常にイライラして、思い通りにいかないと怒っている。
・とにかく他人を苦しめたくて、自分がされて嫌なことを他人にしたい
主な特徴はこんなものである。
補足しておくと、これは僕にとっての“悪人”であり、世間一般の“悪”とはこういうものであるという意味ではない。僕の中にいる“悪人”はこういう存在であるというだけである。
次に、僕の中に浮かんでくる“悪人”の言動の例を紹介する。
・甘えるな
・自分で考えろ
・俺の言う通りにしろ
・俺はいいんだよ
・俺がスカッとするからだ
・俺の命は地球より重い
・俺がいるからお前らは生きていられる
・俺のために生き、俺のために死ね
・とにかくお前を苦しめたい
こんな感じの言動が、僕の頭の中でほぼ毎日浮かんでくる。しかし“悪人”とはあくまで僕の中にいる存在なので、こういった言葉を考えているのはあくまで僕自身である。
ここまで“悪人”の特徴と言動を紹介したが、これらの要素にはある共通点がある。
それは、“悪人”の行いや願望には必ず“他人”が関わってくるという点である。
“悪人”には他人を見下して気持ちよくなりたいという願望があるが、それは『気持ちよくなる』だけである。『“自分”がどうなりたい』や『“自分”が努力してなにかを成し遂げたい』といった願望がない。
おそらくは“悪人”、あるいは僕自身にそういった『具体的な正解のビジョン』がないのだろう。“悪人”にとって最も優先度が高いのは、『自らが正解を掴むこと』ではなく、『他人が不正解を掴むこと』である。
つまり僕の中にいる“悪人”とは、『自分が努力して幸福になろうとはせず、何も努力せずに他人の不幸を眺めていたい人間』である。
次に、僕の中の“悪人”がなぜそういう存在なのか、つまりなぜ僕はそういう要素を持つ人間を“悪人”だと定義づけているかを考えてみる。
前述の通り、“悪人”の特徴のひとつに『自分がされて嫌なことを他人にしたい』というものがある。これは僕の願望に深く関わっている。
その願望とは、『自分に対して嫌なことをしてきた人間は、気持ちよくなっていてほしい』というものである。
例えば先ほどの、『自分を叱ったり、認めなかったりした人間の落ち度を探す』という行為もこの願望に起因する。『僕がこんなに嫌な思いをしたのだから、きっと相手はとても気持ちよくなっているのだろう。そういう人間なのだろう』と思い込んでいる。だから“悪人”は『自分がされて嫌なことを他人にしたい』という願望を持ち、そうなれば気持ちよくなる人間だと設定されている。
だが実際には、僕を叱ったり説教した人間は自分が気持ちよくなりたくてやっているわけではない。むしろ叱ったことで不機嫌になることすらあるだろう。それくらいのことは僕にもわかる。
僕の中には『自分に嫌な思いをさせた相手も同時に嫌な気分になっていることもある』という考えと、『自分に嫌な思いをさせたことで相手は気持ちよくなっている』という考えがある。その二つの考えが合わさった結果、“悪人”はこうなった。
“悪人”は、他人の嫌がることをするのが大好きだが、それで満足することはなく常にイライラしてさらに他人の嫌がることをする。
つまり、『誰も得をしていない状態』が生まれることになる。先ほどの『自分が努力して幸福になろうとはせず、何も努力せずに他人の不幸を眺める』という姿勢は『誰も得をしてしない状態』を生む。自分も他人も幸福から遠ざけることなので、僕の中ではそれは“悪”である。なので“悪人”は誰も得をしない状態を作り出す。
ここまで書いたが、“悪人”の言動が僕自身の機嫌を悪くさせるのは『誰も得をしない状態を作り出す存在』だからであることはわかってもらえたと思う。これを踏まえて、僕の中の“悪人”をどうやって弱めるかを考える。
もう一度書くが、“悪人”とは僕の中にいる架空の存在である。つまり僕が“悪人”のことを考えれば考えるほど、暴れ始める。ならば“悪人”のことを考える時とはどういう時か。それは僕自身が“悪人”と同じ願望、つまりは『相手の不幸を望む』という願望を抱えている時である。
逆に言えば、僕の中にある願望や考えが“悪人”から遠ざかればいいのである。そうすることで、“悪人”は弱まっていくはずなのだ。
ここで“悪人”の特徴をもう一度挙げる。
・常にイライラしている
・他人の粗探しをする
・不正解であることを伝える
・他人の不幸を喜ぶ
これらに遠ざかるための行動とは、こういうものになると思う。
・なるべくイライラしない
・他人や自分の長所を見つける
・正解を探す
・自分や他人の幸福を祝う
これらの行動は、僕の中の“悪人”なら決して行わないものである。つまりは、僕自身が“悪人”から遠ざかるための行動である。
もちろん、意識して行おうとしても達成するのは難しいと思う。どうあっても機嫌が悪くなる時はあるし、他人を妬むこともある。
しかしこれらの行動は、『自分が幸せになるための行動』でもある。意識して行うことで、自分が得をするのだ。そして自分が得をするということは、『誰も得をしない状況を生む』という“悪人”の要素からは遠いものである。
なので、他人の幸福を祝ったり、他人の長所を見つけるといった行動も、言ってしまえば自分のために行うものである。最終的に自分が得をするのであれば、少しはやる気になるかもしれない。
とにかく、僕としては“悪人とは逆のこと”を行うようにしたい。こう書いてはみたものの、僕自身がそれをちゃんと実践できるかはわからない。
だとしても、僕と同じ悩みを抱えている誰かがこの文章を見て、悩みが少しでも解決することを願っている。
ああよかった。僕の中にもまだ他人の幸福を願う心があった。
それに気づけたところで、今回はここまでとする。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!
コメント (1)
コメントはありません。