『ぅきゃあっ!?』
外から悲鳴が聞こえてきたのは、俺がそんな終わりの見えない思考を巡らせていた時だった。
悲鳴と同時に、盛大な水音が聞こえてきた。
なんだ? ――と思っていると、ドアが開き…………
「…………うぅ……酷い目に遭った……」
全身が茶色く汚れた液体まみれになったずぶ濡れのエステラが、力なく食堂へと入ってきた。
俺は咄嗟に鼻を摘まみ、エステラに言う。
「トイレの使い方も知らんのか、お前は?」
「トイレでこうなったんじゃないよっ!」
なんだ。嵌ったとか、トイレで暴れてそうなったとかじゃないのか。
「そこの水溜まりで転んだんだよ! なんだよ、もう! 心配してくれたっていいだろぉ!」
ずぶ濡れになったせいか、エステラが少し泣きそうな目で睨んでくる。
心配……あぁ、そうか。心配な。
「傘は壊れなかったか?」
「ヤシロぉ……」
「冗談! 冗談だよ! 笑わせようと思っただけで!」
ダメだ、目がマジだ。
まぁ、こういう「うわぁ……もう、最悪っ!」的な状況で冗談言われると軽く殺意を覚えるよな。うん、分かる。分かるぞ、今のお前の気持ち。俺が悪かった。だから、そんな目で睨むな。
「どうかされたんです……きゃっ!? エステラさん、大丈夫ですかっ!?」
厨房から顔を出したジネットが、ずぶ濡れのエステラに駆け寄る。
「うぅ……ジネットちゃ~ん……」
抱きつきたいのだろうが、泥水でジネットの制服を汚すまいと、エステラはグッとこらえている。
「ジネット、タオルを持ってきてやってくれ。あと、お湯を沸かしてやれ」
「は、はい! そうですね。すぐに!」
慌てて奥へと引っ込むジネット。
エステラをこのままにしておいては風邪を引いてしまう。
風呂にでも入ってもらった方がいいだろう。
陽だまり亭に風呂はないが、中庭にお湯を沸かす用の大きなカマドが設けてある。
そこで一気にお湯を沸かし、桶に入れて各自部屋で体を拭くのだ。
大きなたらいもあるから、軽くなら湯に浸かることも出来る。……ただ、その際はずげぇ時間がかかるけどな。
「エステラ、寒くないか?」
「……すごく寒い」
この街に来て一ヶ月以上は経っているはずだが、気候は一向に変わる気配を見せない。
日中はぽかぽか陽気だが、朝夕は寒い。この街には四季というものがないのかもしれない。
そして、こんな雨の日は一日中肌寒さが続くのだ。
全身を濡らしたエステラは、耐えがたい寒さを感じていることだろう。
「濡れた服を着ていると風邪を引く。脱げ」
「ぅえええっ!? で、出来るわけないだろう、そんなこと!」
「大丈夫だ! エロい目でしか見ないから!」
「だから無理だと言っているんだよ!」
お前のようなぺったんこでもちゃんとはぁはぁしてやると言っているのに……プライドが傷付かなくていいだろうが。
「だいたい……ヤシロが変なこと言うから、こういうことになったんだよ、きっと……」
「変なこと? 俺が何か言ったか?」
「だから、ボクが濡れればいいとか……」
あぁ、そういえば……
で、実際濡れたこいつを見てみると…………うむ。服が張りついてなかなかいい感じにセクシーじゃないか。
「あ、あんまりジロジロ見ないでくれるかな……っ!」
「『ボクの貧相な体なんか見ても、君は楽しくないだろう?』」
「そのセリフは死んでも言わないからね!」
じゃあ、三十点だな。後半がメインなのに。
赤点だ、補習でも受けさせたい気分だ。
「あの、とりあえずお水を火にかけてきました。けど……沸くまでには時間が……」
申し訳なさそうな顔でジネットが戻ってくる。
タオルを持ち、エステラの髪を拭き始める。
エステラは自身の体を抱くように身を屈め、寒さに震えている。
……これは、本格的にマズいな。
このまま放置すれば本気で風邪を引きかねない。
「ジネット。お前の服を貸してやれ」
「あの……それが…………この長雨で洗濯物が溜まっていまして…………今お貸し出来るのが制服しかないんです……」
「それでいいだろ」
「や、ちょっと待って!」
止めたのは、エステラだった。
「そ、その服を着るのは…………ちょっと……」
胸元に視線を落とし、表情を盛大に曇らせる。
「あのなぁ、エステラ」
難色を示すエステラに、俺は親切心から言ってやる。
「気持ちは分かるが、今はそれどころじゃないだろう? お前の体を大切に思っているのはお前だけじゃない。ジネットも、俺だって、お前に風邪なんか引いてほしくないんだ」
「ヤシロ……」
「お前の体は、最早俺のものでもあるんだからな」
「そ、それは違うよね!? 変な誤解されるようなこと、言わないでくれるかな!?」
お前をいじって遊ぶのは俺の日課だぞ?
間違ってはいないと思うのだがな。
「エステラさん。ヤシロさんの言う通りです。お体のためにも、わたしの服では不服かもしれませんが、一時しのぎとしてお使いください」
「ジネットちゃん…………うん、そう…………だね」
そうだ。服が乾くまでの間、ほんのわずかな時間着ているだけなのだ。
「胸がぶっかぶかのスッカスカでも気にするな。どうせ、そんな悲惨な状況も俺たちしか見ないんだから。お前に胸が無いのは百も承知なんだから、今さら恥ずかしがることもな…………メッチャ怖い目で睨まれてるっ!?」
真の剣豪が発する殺気は、きっとこんな感じなのだろう。
そんなことを思ってしまうような、恐ろしい殺気を含んだ目だった。
「……濡れたままでいい」
「エステラさんっ!? ……もう、ヤシロさんっ!」
ジネットが割と本気で怒っている。
……失言だったかな。励まそうと思ったんだけど。
「じゃ、じゃあ、俺の服とか、どうだ? ちょっとデカいけど」
「断る! ……君の服を着るくらいなら、裸でいた方がマシだ」
「よし! じゃあ裸で!」
「断るっ!」
「理不尽だっ!」
「ヤシロさんっ!」
またジネットに怒られた。
「エステラ……」
冗談をやっていて風邪を引きましたなんて、それはさすがに看過できない。
俺は真面目な声で、エステラに話しかける。
「……どうして裸が嫌なんだ?」
「説明が必要かなっ!?」
「分かった! 一人が嫌なら、俺もジネットも裸になる!」
「なりませんよっ!?」
「エステラのために!」
「君の利益にしかならないだろう、その状況は!?」
ベストなアイディアだと思ったのだが……
「で、では。マグダさんの制服はどうでしょうか? 今日はマグダさん狩猟ギルドへ出かけていて留守ですし、少しの間お借りするということで……」
マグダは、今朝から狩猟ギルドへ出かけていた。
この大雨に伴い、狩猟場に立ち入り禁止区域が出来たのだ。その話し合いと、情報共有を兼ねたミーティングがあるそうだ。
ちゃんと、一人前の構成員としてみなされているか心配ではあるが……出かける前のマグダは自信たっぷりだったし……ここに来てから自分に自信を持てるようになったみたいでいい変化を見せているし……きっと大丈夫だろうと思う。信じて待とう。
そんなわけで、今日マグダは一日留守なのだ。
……夕飯、ウーマロ来ないかもな。大雨だし、マグダはいないし。
「サイズは、少し小さいかもしれませんが……エステラさんスリムですし、入らないことはないのではないかと……」
店の制服は、体にフィットするように作られている。
とはいえ、ぴちぴちではなく、長時間着用しながら労働できるようにしてある。
多少無理をすれば、エステラがマグダの服を着ることは可能だろう。
「…………じゃ、じゃあ…………それで」
しばらく悩んだ後、……やはり寒いのか、一層身を縮こまらせて……エステラは首肯した。
とはいえ、汚れた体で制服を着ることは気が咎めるようで……
「体を綺麗にしたら、着させてもらうよ」
「でも、それまで結構時間が……」
「へ、平気だよ……少しくらい、このまま…………くちゅんっ!」
わぁ、くしゃみ可愛い。
ったく。
何が平気なんだか……
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