ゼルマルの家はおんぼろの木造一階建てで、平屋ではあるが横に長く、住居と何かの作業場が併設されているような建物だった。
場所は、大通りを渡った、もっとずっと先、レジーナの家の近くだ。
「じゃあ、レジーナのとこに行きゃいいのにな」
「……そうなると、たぶんレジーナさんが……」
何か、とても言いにくいことでも言おうとしたのか、ジネットが盛大に口ごもった。
その時。
「誰じゃ、ワシの家に勝手に入っとるのは!?」
背後からしわがれた声が飛んできた。
「あ……っ」
「おっ……あんたは……」
振り返ったジネットと、その視線の先にいた干しブドウみたいにしわだらけのジジイが揃って目を丸くする。
「ジネット。こいつが……?」
「はい……」
「干しブドウか?」
「違います! ゼルマルさんです!」
なんか、物凄く驚いた顔をされた。
そんなに驚くほどのことでもなかろうに。
「あ、あの……ゼルマルさん。ご無沙汰しております」
「お……おぉ。元気そうじゃな」
「はい。おかげ様で」
「そうか……元気か…………そうか」
居心地が悪そうに、ジジイが視線をさまよわせている。
「ジジイがもじもじしてても一切可愛くないな」
「なんじゃ、この無礼なクソガキは!?」
俺には元気に怒鳴るんだな。
本当に病気なのか?
「あの、ゼルマルさん。こちらは、オオバヤシロさんといいまして、今、陽だまり亭で一緒に働いている方なんです」
「ほぅ…………お主が、オオバか……」
……『大馬鹿』って言われた気がして、ちょっとムッとした。
「何やら、いろいろと目立っておるようじゃのぅ」
「ご覧の通りのイケメンでな」
「ワシの若い頃の方がずっとハンサムじゃったわい!」
ハンサムときたか……
なんだこのジジイは。負けず嫌いか?
「お主……その娘に、妙な真似はしとらんじゃろうの?」
「その娘って誰だよ? 名前くらい呼んでやれよ、ジジイ」
「誰がジジイじゃ!?」
「お前だよ!」
「ワシはまだ若い! まだまだ若いもんには…………ごほっごほっ!」
「ゼルマルさん!」
はしゃぎ過ぎてむせ出したジジイに、ジネットが駆け寄り、背中をさすってやる。
「あぁ! だ、大丈夫じゃ! 陽だまりの祖父さんの孫にそんなことをさせては申し訳が立たん!」
しかし、ジジイはすぐさまジネットから離れる。
「何を照れてんだよ、ジジイ。年甲斐もなく」
「バッ、バッカモン! 結納も済ませとらん男女が触れ合うなど、あってはならんことじゃろうが!」
結納……って、この世界にその概念があるのか?
「あのな、ジジイ。今の時代、手とかおっぱいくらいは触れ合って当然なんだよ」
「おっぱいはダメですよ!? ……はっ!? な、なんて言葉を言わせるんですか!?」
今の『おっぱい』発言は自爆だろうよ。
「クソガキ……貴様ッ!?」
「まてまて、戦時中の兵隊みたいな目で俺を見るな、ジジイ」
拳を振り上げてぷるぷる震えるジジイの腕を押さえる。
と、……結構熱いな。
「ジジイ、熱が相当あるのに、なに出歩いてるんだよ。家で寝てろ」
「ふん! 熱くらいで家に閉じこもっておったらウィルスに舐められるわい!」
ウィルスという言葉がこれほど似合わない人物もそうそういまい。
出来る限り横文字は使わないでくれ。違和感が半端ない。
「今日は、ムム婆さんに言われてお前の診察に来たんだよ。ババアとジネット、二人に心配かけて、それでも駄々をこねるなんて男らしくないんじゃないのか?」
「なんじゃと!?」
「男なら、この一時をグッとこらえて、さっさと病を治し、婦女子に安心を与えてやれよ」
「…………クソガキが、いっぱしの口を利きおるわい…………いいじゃろう。上がれ」
このタイプのジジイなら、こう言われると逆らえないだろうなと踏んだ通りの結果になったな。
ここまで分かりやすい性格だと扱いやすくて助かるぜ。
ジジイの家は、必要最低限の物しか置いていない、簡素なものだった。
「ジジイは今、なんの仕事してんだ?」
「仕事なんぞしとらんわ……とうに引退しとるわ」
この街にも引退って制度はあるんだな。……まだまだ働けそうだけどな、このジジイは。
「ムム婆さんは自営業だから引退が遅いのか?」
「はい。ウチのお祖父さんも、最期の時までお店に出ていましたし」
ジネットの言葉に、ゼルマルのジジイは顔をしかめる。
『最期の時』ってのが、ちょっと刺さったようだ。
「あ……すみません」
「あぁ、いや…………気にせんでくれ」
ジネットもそれに気付いて、少ししんみりした空気が漂い始める。
あぁ、俺、この空気嫌い。
「じゃ、診察を始めるぞ。ジジイ、舌を出せ」
「バッ、バカモン! 婦女子の前でおパンツなんぞさらけ出せるか!」
「『下』じゃねぇ『舌』だよ! あと『おパンツ』言うな!」
つうかさ……こっちでも似てるのか、『下』と『舌』……なぁ、『強制翻訳魔法』よ?
ジジイの診察をした結果、まぁただの風邪だろうと見当をつける。
解熱剤でも飲ませときゃいいだろう。悪化したらレジーナに助けてもらえ。
……あぁ、なるほど。さっきジネットが言いかけたことが分かった。
このジジイが客で来たら、確かにレジーナはぶっ倒れるかもしれないな。いろいろ怒鳴られそうだもんな。
「あの、もし食欲があるようでしたら、何かお作りしましょうか?」
「や。構わんでくれ」
ジネットの申し出をきっぱりと断るジジイ。
「そうですか。すみませんでした、差し出がましい真似を」
「いや……結納も交わしてない婦女子に手料理を作ってもらうなど……」
「いや、ジジイ。お前ムム婆さんにおかゆねだったんだろ?」
「なっ!? なんでお主がそれを知っとるんじゃ!?」
「いや、ムム婆さんに聞いたしよ」
「違うんじゃ! 違うんじゃ! 別に深い意味などないんじゃ!」
と、顔を真っ赤にして否定した後、頭からすっぽり布団を被って隠れるジジイ。
……純愛してんじゃねぇよ、シワシワのカッサカサのクセに。
「このジジイ、ムム婆さんに惚れてんだな」
「実は……昔からなんです」
布団に包まるジジイに気を配り、小声で耳打ちしてくるジネット。
「昔から、ウチのお祖父さんと二人でムムお婆さんを取り合っていたんだそうです」
「やめて……ジジババのラブコメとか、笑えない」
「結局、決着はつかず、どちらとも付き合わないまま、現在に至っているんです」
「はっ!?」
え、……じゃあなに?
「こいつらって、もしかして…………未婚?」
「はい。ウチのお祖父さんも未婚でしたよ」
……何十年片想いしてんだよ、お前ら……ちょっと、引くわ。
「ジネット、おかゆか雑炊でも作ってやれ」
「え……でも」
「いいから。俺が許可する」
「はいっ!」
嬉しそうに返事をして、ジネットが厨房へと駆けていく。
「……勝手なことをしおって。人の家で……」
古民家に住み着いた妖怪のように、布団から顔だけを出してこちらを睨みつけてくるジジイ。
「文句があるなら気合いで治せ。治してから陽だまり亭に言いに来い。そうしたら聞いてやる」
「ふん……今さら…………」
ジジイが、ぽつりと呟く。
「今さら……行けるもんかい。陽だまりの祖父さんが死んじまって……ずっと行けなかったんじゃ。あの娘が大変な時も、ワシは…………今さら、どのツラ下げて陽だまり亭になんぞ行けるか」
あぁ、面倒くさい。とても面倒くさいジジイだ。
「ジジイ。臭い」
「誰が臭いか!?」
「すまん、ちょっと言葉が足りんかった。面倒くさい、だ」
「……ふん!」
ずっと行かなかったから行きにくい。
ジネットにしたって、ずっと来なかったのだから呼びにくい。
その実、ジジイは行きたいし、ジネットは来てほしいのだ。
けれど、このジジイはその単純な感情すらも理屈で捻じ曲げ、頑なに拒否し続けている。
「その薬代、陽だまり亭で受け取るから」
「なんじゃと!?」
「今、細かいものがないんだよ」
「……口の達者なヤツじゃ」
さて、これで観念してくれりゃあいいんだが……
「あ、あの、ゼルマルさん」
厨房へ向かったと思っていたジネットがすぐそこに立っていた。
「ムムお婆さんから伺いました。コーヒーゼリーを食べてみたいって」
「……う…………いや、それは……」
「食べに来ていただけませんか? 一度でも、構いませんので」
「う……むぅ…………」
「コーヒー豆がたくさんありまして。メニューにコーヒーを載せても飲まれる方が少なくて……余らせるのももったいないですし……是非に」
ジネットは、変わった。
自分の意志を、多少卑怯な手を使ってでも……貫ける強さを、得た。
人を動かすと、そこには責任が生じる。その責任を恐れることなく、ジネットは人を動かそうとしている。
「…………うむ、分かった。そういう事情があるなら……し、しょうがない、のぅ」
そして、見事に動かしてみせやがった。
「オルキオに、ボッバ、フロフトも呼んで、近いうちに顔を出す」
「はい。お待ちしております」
「……ふん。少し寝る。粥が出来たら、置いておいてくれ」
「はい。おやすみなさい。ゼルマルさん」
ジジイが名を上げた連中は、きっと昔の陽だまり亭の常連客だったのだろう。
そいつらも、きっと……顔を出したいのに出せなかったんだろうな。
「ジジイ。勝手にくたばって薬代踏み倒すんじゃねぇぞ」
「ふん! お主なんぞに心配されんでも大丈夫じゃわい!」
悪態を吐いて、ジジイは頭から布団を被る。
「……今日という日に、あの娘が会いに来たのも何かの縁じゃ……必ず行くわい」
それだけ言うと、ゼルマルのジジイは早々に寝息を立て始めてしまった。
寝るの早ぇな、ジジイは。
その日はそのまま退散し、陽だまり亭にてジジイたちの来訪を待つことになった。
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