「でも、お兄ちゃん。そう簡単に水門を開けてもらえるですかね?」
そんな疑問を口にしたのはロレッタだった。
こいつはこいつで、弟妹が水浴びをする川を早く取り戻したいのだろう。
「二十九区も水不足に陥ってるですよね? だったら、水門の開放を渋りそうな気がするです。というか、あたしが二十九区の領主なら渋るです」
「お前は正直だな、ロレッタ」
まぁ、誰しも不安材料は潰しておきたい。
水不足の懸念があるなら、懸念が解消されるまでは安全策を講じておきたいだろう。
だが。
「水門は開かれる。明日中にな」
俺はそれを断言できる。
なぜなら、こいつは詐欺師がよく使う手だからだ。
「ヤシロ。断言できるだけの確信を、君は持っているのかい?」
水門の開放を第一条件と位置付けたエステラ。苦労を覚悟していたのだろう、眼差しが真剣だ。
水門の開放に自信を持てる要素があるなら是非聞きたいといったところか。
「この書簡が、水門開放が容易である証明になる」
と、エステラの元に届いた書簡を差し出す。
こいつの中にすべてが書かれているのだ、ヤツらの、浅ましい腹積もりがな。
「おかしいと思わなかったか? この書簡」
「え?」
書簡を受け取り内容を目で追うエステラ。
ルシアも寄り添い、同じく黙読する。
「水不足だから水門を閉じる……それは、人道的かどうかは別にして、おかしな行動ではないと思うけど?」
水不足を懸念して川の水を確保する。
その行為自体に矛盾はない。
「なら、なぜ今なんだ?」
水不足は、一ヶ月以上も続く日照りによって起こった。
ここ数週間は特に酷く、四十二区でも倒れる者が出るくらいに水不足に悩まされていた。
だが……水門が閉じられたのは、大雨が降った直後の今朝になってからだ。
「水不足を懸念しての処置なら、川の水位が下がっていた大雨以前でなければおかしくないか?」
「でも、雨が降ったからこそ、再び水不足にならないように……」
「そうじゃない、エステラ」
結果論で見るのではなく、時系列順に、人間の心理に視点を絞って物事を見てみるんだ。
「雨が降ったのは突然だった。兆候などなかった。そうだな?」
「……そう、だったね」
しっかりと思い出し、明確に肯定する。
「つまり、雨が降るまでは『この水不足はいつまで続くんだ』と多くの者が思っていた。『このまま日照りが続けば危ない』とな」
終わりの見えない苦境は、人間の心をすり減らし、凶行へと駆り立てる要因になる。
そんな苦しい状況に追いやられ、非人道的であると理解しつつも水門を閉じる決断を下したというのなら理解は出来る。
だが、水門が閉じられたのは大雨が降り、水位がある程度回復した後だ。
「大雨が降り、水位が回復して、これでしばらくは大丈夫だろうという段階で水門を閉じるのは、どう考えてもタイミングがおかしい。非難が集まる危険を冒してまで水門を閉じるより先に、打てる手がいくらでもあるんだからな」
他に手段があるなら、反発の少ないものから実施していくのが定石だ。
だが、二十九区はそれに逆行した。
最も悪手と思われるものを最初に打ってきたのだ。
挑発行為以外では、この行動を説明できない。
「……ヤシロ。君は、これは宣戦布告だと言いたいのかい?」
「いや、そこまでの大事にしないための『脅迫』だと思っている」
悪質な取り立て屋がよくやる手段だ。
「素直に言うことを聞かないと、どうなるか分かってるよな?」という、アレだ。
「大雨のおかげで、四十二区の貯水量は、数日は生活が可能なレベルにまで回復した。それを見越した上で水門を封鎖したんだろうよ」
「なるほどな」
ルシアが険しい表情で俺の言葉尻を捉え、補足を寄越す。
「脅迫する相手は、『生きていない』と困るからな」
事実。大雨が降る直前まで、四十二区はかなり疲弊していた。
もし、あの時に水門が封鎖されていたら、……死人の一人も出た可能性が高い。
「そうなれば、話し合いなどという穏やかな手段は取れず、統括裁判所を巻き込んだ論争……果ては戦争となっていた可能性が高いというわけか」
四十二区とは無縁に思える物騒な言葉ではあるが、領民の命を自分本位な行動で脅かされたとなれば、立ち上がる者も出てくるだろう。
二十九区もそれが分かっていた。
だからこそ、このタイミングで水門を封鎖し、書簡を寄越してきたのだ。
「『水門を開けてほしければ、こちらの言い分を聞きに来い』と、そういうメッセージなんだよ、その書簡は」
エステラの持つ書簡を指さして言ってやると、微かにエステラの指に力が込められた。
さすがに書簡を握り潰すなんてことはしなかったが、心情的にはそうしたかったことだろう。
「だからまぁ、水門は開かれる。明日中に、必ずな」
確信を持って言っておく。
二十九区をはじめ、『BU』の要望は、そんなところにはないのだから。
「きな臭い話だね」
「なぁに、『BU』の連中はいつもそんなものだ」
俺に向けたエステラの言葉にルシアが反応して、エステラが少しだけ苦笑を漏らす。
まるで、ルシアにタメ口を利いたような感じになったからか、『BU』の連中の評判を思ってのことか。
苦笑を浮かべたまま、書簡を懐にしまう。
「とにかく、ボクたちは罠を罠と理解した上で飛び込んでいかなければいけないわけだ」
「そういうことだ」
思わずという風に、エステラがため息を漏らす。
「とにかく、四十二区の状況を視察しようではないか。なに、私も付いているのだ。ヤツらの好き勝手にはさせないさ」
「はい。頼りにしています」
ただの変態ではあるのだが、こういう時のルシアは妙に頼もしい。
「それじゃ、ルシアさんと視察に行ってくるよ」
「あっ、待ってください!」
エステラたちが出て行こうとドアに手をかけると、いつの間に移動していたのか、ジネットが厨房から顔を出した。
両手を真っ白にして、粉まみれの牛肉の載った皿を手に、エステラたちを呼び止める。
「あの、よろしければ、夕飯を食べに来てください。美味しいお料理を作ってお待ちしていますから!」
というジネットの手に持たれているのは、どう見ても「この後ビーフカツレツになるんだろうな」という牛肉。
……どんだけ嬉しかったんだよ。
「うん。視察が終わったらまた来るよ」
「私も、また邪魔をさせてもらうとしよう」
「はい! お待ちしています」
粉まみれの手も気にせず、深々と頭を下げる。
そんなジネットを見てから、エステラとルシアは陽だまり亭を出て行った。
「お願いしたい、川漁ギルドの長であるあなたに、川への案内を」
「おう、任せとけ!」
胸を叩き、デリアがエステラたちを追うように出ていき、ギルベルタもそれに付き従う。
客がすべていなくなった後、ジネットは俺たちに向き直り、会心の笑みを浮かべて言った。
「それでは、美味しい料理を作ってきます!」
天の川の生まれ変わりかと思うほどにキラキラ輝く表情で、ジネットが厨房へと戻っていく。
……今から作るのか? 夕飯の話だよな?
まだ午前中だぞ?
「……ヤシロ。緊急事態」
これまた、いつの間に移動していたのか、マグダが厨房から出て来て、小走りで俺に駆け寄ってくる。
「…………ビーフカツレツの乱」
「乱?」
「にょほぉ~!? なんですか、これはぁ!?」
またまた、いつの間にか移動していたらしいロレッタの声が厨房から聞こえてくる。
「……何があったんだ、厨房で?」
嫌な予感に背を押され、聞きたくもない問いをマグダに向ける。
「…………熱した油の中に、ビーフカツレツの群が沈んでいた」
「ウチはカツ屋かよ……」
「……下ごしらえされていたものを含めると、その数は優に二十を超える」
「おぉう……」
ジネットの料理は美味い。
いつも「美味い」と伝えてはいるし、他の連中も美味いと言っている。
だが、今日の絶賛はいささか度が過ぎたようだ。
ジネットの料理魂が業火に包まれてしまったらしい…………あいつ、結構のめり込むタイプなんだよな。足つぼとか……一つのことをやり始めると周りが見えなくなるというか…………褒められるのが、何気に大好きなんだよな、ジネットって。
「お、お兄ちゃん! 店長さんが、何か呪文を唱えながら、牛たちを絶滅させそうな勢いで牛肉を捌き始めていたです!」
その『呪文』とやらはおそらく『鼻歌』なのだろう。ジネットのリズム感は独特だからな……
「……ヤシロ。対策が必要」
「今日はビーフカツレツしか提供できないです」
なんということでしょう……
これはあれか?
『藪蛇』ってやつか? それとも『瓢箪から駒』? 『嘘から出た実』?
とにかく、なんとかしなけりゃな。
「夕飯もルシアが来るから貸し切りになるだろう」
ルシアの素は、なるべく人目に触れさせてはいけない。
「だから、二号店と七号店を店の前に置いて、そこでビーフカツサンドを提供しよう」
パンは値段的に使えないから、トルティーヤで挟んでしまおう。
ビーフカツに千切りキャベツ、それからハニーマスタードをたっぷりと付ければそれっぽいものになるだろう。
店先にテーブルを並べて、ビアガーデンのような感じにすれば、そこそこ見栄えもするだろう。
「……了解した。今すぐ手配する」
「それじゃあ、弟妹を何人か動員するです! あと、大通りで告知してくるです! 『今日はビーフカツ祭りです』って!」
頼もしい従業員が二手に分かれて行動を開始する。
陽だまり亭を飛び出して行った二人の背中を見送って、俺は自分の仕事に取りかかる。
とりあえず……
「暴走するジネットを落ち着かせるか」
いくら対策をとったところで、捌ききれないくらいに作られちゃ大赤字だからな。
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