「マグダさん、寝ちゃいました」
夜になり、陽だまり亭には静けさが戻っていた。
なんだか久しぶりに感じるな、この空気感。
俺は今、食堂のテーブルに着き、ジネットと差し向かいでコーヒーを飲んでいる。
陽だまり亭に戻ってすぐ、ジネットに誘われたのだ。
「一緒にコーヒーを飲みませんか」と。
夕飯で腹いっぱいになった気がしたのだが、たこ焼きしか食ってなかったせいか、今になって妙に小腹が空いていた。
ジネットが軽く何かを作ってくれるというので、俺は一度部屋に戻った後で食堂へ降りてきたのだった。
ジネットはジネットで、昨日今日と何かと走り回っていたマグダを部屋まで運んでいたらしい。
俺といた時は「……まだ平気」とか言ってたんだが、そのすぐ後に電池が切れたのだろう。
言ってくれりゃ俺が部屋まで運んだのに。
そうして、現在は広い食堂で二人きりだ。
なんでかな。席はたくさんあるのに、いつも一番奥の、この隅っこの席に座ってしまうのは。
貧乏性なんだろうな、俺もジネットも。
「すごかったですね」
ほぅ……っと、コーヒーを飲んで一息ついて、最初の言葉がそれだった。
今日のジネットのコーヒーにはミルクがたっぷりと注がれている。
疲れてるんだろうな。
それとも、胃を労わろうとしてんのか。
「まさか、ノーマにあれだけの根性があるとはな」
「へ?」
「今回みたいなチキンレース形式だと、胃のキャパシティを根性が凌駕しちまうんだなぁ。正直、デリアが勝つと思ってたんだが、ノーマの食いっぷりには執念を見たよ」
決勝はデリアとノーマの獣人族対決だったのだが、根競べとも言える戦いは駆け引きのうまさ分ノーマが有利だったのだろう。
デリアがすごく悔しがっていた。
ちなみに、最初にデリアと一騎打ちをしようと息巻いていたロレッタは、下から四番目だった。……なんて地味なポジションだ。
順位は、ノーマ、デリア、マグダ、俺、ナタリア、エステラ、ロレッタ、ミリィ、ジネット、レジーナの順だった。
関西弁故に、レジーナには期待したのだが、三つくらい食べて「もうおなかいっぱいやぁ」とあっさりリタイヤしやがった。
根性見せろよ! 関西人としての誇りはないのかっ!?
……って、レジーナは別に関西人でもなんでもないんだけどな。
「ジネットも、名乗り出た割には大したことなかったな」
「あ、いえ……思ってたよりも、すぐお腹いっぱいになっちゃいまして。『こなもの』って、すぐにお腹が膨れちゃうんですね」
「その分、すぐに減るけどな」
「もっと作りましょうか?」
「いや、これで十分だよ」
ジネットは、葉野菜の煮びたしと、焼き魚を出してくれていた。
教会で作った夕飯の残り物だ。
こいつをちまちまつつくくらいでちょうどいい。
「あ、それでその……そうではなくてですね」
「ん?」
「すごかったって言ったのは、結婚式のことなんです」
「あぁ、そっちな」
確かに、そうそうたる顔ぶれで、かなりの人間を巻き込んで行われた大イベントだったもんな。
今回は広報という意味合いが多く含まれていたためにこういう感じになったのだが、ど派手にぶちかましただけの成果はあったと言えるだろう。
「あれだけ多くの人が、同じものを見て感動を覚えるって……なかなか出来ないことですよね」
「まぁ、今回はその裏にあるいろんな感情を逆手に取ったからな。そうそう出来ることじゃないさ」
人間と虫人族の悲恋……そんなものが生み出していたありもしない確執。
この街の誕生以来、ずっとこびりついて剥がせなかった『劣等感』と『差別意識』。それは、誰もがなくしたいと思いつつも、誰も手を付けられなかった難題だった。
だが、なくしたいと思っているヤツが大多数なら、『誰か』が行動を起こすのではなく『みんなで』やってしまえばいい。
そうやって実現したのが、今回のバカ騒ぎだ。
どうにかしたかった厄介なものを、どうにか出来るんじゃないかと思わせる、そんな大きなムーブメントに巻き込んで強引に意識を変えてしまう。
その結果が、誰もが望んでいた方向へ進むってんなら、そりゃ盛り上がりもするさ。
「言葉だけじゃなくて、これで本当にこの街の人たちは『ひとつになれた』……そんな気がしました」
「これでもう、亜種とか亜系統なんていう言葉で作り出されていた『壁』もなくなるだろう」
『自分たちは亜系統だから……』なんて卑屈な考えはなくなり、『同じ街に住む、同じ人間だ』という意識が定着していけば、大昔の争いの最中に生まれてしまった不要な格差も失われていくだろう。
「ようやく、本当の意味で、虫人族たちはこの街の一員になれたのかもな。移住したのが先だ後だなんて、くだらない線引きはなくなって、な」
「はい。そう思います。そして……」
――と、ジネットが俺の手にそっと触れてきた。
両手で包み込むように、俺の右手を優しく握る。
「『他所者』なんて、この街には一人だっていない……そう、確信できました」
微かに、ジネットの指先が動く。
ほんの少しだけ、勇気を振り絞る……そのための、小さな動作のように思えた。
「この街は、訪れるすべての人々を温かく迎え入れてくれる、そういう素晴らしい街ですから」
こいつ……
不意に、今回のあれやこれやの経緯が脳内で順に再生されていく。
その中で、ジネットは普段見せないような積極性を幾度となく垣間見せていた。
自分から名乗り出て他区へ行ったり、そこで外泊をしたり、積極的に見知らぬ者たちとコンタクトをとったり……
それらの行動は、もしかしたら……
『この街に他所者なんていないんですよ』
それを証明するためのものだったのかもしれない。
たったそれだけのことを、口にすれば数秒とかからず言い切れてしまう程度のことを……言葉では伝えきれないほどの想いを伝えるために。
俺が、他所者だなんて言ったから……
バカだなぁ。
いつまでも気にしてんじゃねぇよ。
俺はちゃんと腹をくくって、ここの従業員になって、ここにいようって…………
「ジネット」
「はい」
……けれど、言葉にしないと伝わらないことも、きっとあるんだろうな。
「ありがとうな」
「…………はい」
普段なら「いいえ」と言いそうな場面で、ジネットはしっかりと「はい」と言った。
俺の感謝を、ちゃんと受け取ってくれたということだ。
これで少しは軽減するのか。お前の不安が。
そうでなければ、少しは増してくれるだろうか。
お前が安心して過ごせる時間が。不安に駆られず、穏やかに眠れる夜が。
なぁ、ジネット。
俺はここにいてもいいんだよな?
お前の大切な陽だまり亭に。
祖父さんや、ベルティーナ。ゼルマルたち古い常連客から、気心の知れた今の常連客。そんな連中との思い出がたくさん詰まったこの場所に、俺の席はあるんだよな?
そんなことを聞こうとして、口に出すのはやめておいた。
ジネットの手から伝わってくる温もりが、それにきちんと答えてくれている気がしたから。
代わりに一言、こんなことを言っておく。
「ここ、俺の特等席にしよっと」
一番奥の、いつも俺が座っている場所。
なんだかんだ、ここが一番落ち着く。
貧乏性向きの、ベストポジションだ。
俺の言葉を聞いて、ジネットがくすりと笑う。
「もうとっくに、ですよ」
くすくすと笑って、ゆっくりと手が離れていく。
そうかい。
もう、手を離しても消えてなくなりはしない――それくらいの信頼は勝ち取れたってことなんだな。
あぁ、ちきしょう……
胸の真ん中がぽかぽかしやがる。
明日からはまた通常営業だ。
この世界一穏やかなブラック企業である陽だまり亭は、連日連夜フル稼働なのだ。
だから、夜は早めに眠らなければいけない。体がもたないからな。
なのだが、今日だけはもう少し夜更かしをしたい気分だ。
どうにも、眠れそうにないからな。
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