「ヤシロ、さん? えっと、あの、どうして?」
ばしゃっと、水音が響く。
慌てて浸かったような、そんな音だった。
いや、どうしてはこっちのセリフなんだが……
「入る前に、お声をかけたんですか……返事がなかったので」
あぁ、ジネットも俺と同じように声をかけながら風呂に入ってきたのか。
それで、返事がないから誰もいないだろうと安心して……
「悪い、ちょっと寝てた」
「お疲れだったんですね」
ジネットの声に柔らかさが戻る。
どうやら笑われたようだ。
「お湯、大丈夫ですか? 体は冷えていませんか?」
風呂場で寝てしまった俺を心配して声をかけてくれる。
なんだかもう、すっかりいつものジネットだ。
壁を一枚隔てた風呂場にいても、こちらに悪意がなければ怒ったりはしない。まぁ、盛大に照れてはいるのだろうが。
「気を付けてくださいね。お風呂で寝ると風邪を引くと言いますし」
又聞きの情報なのか。日本じゃ定番のセリフなのにな、「風呂で寝ると風邪引くぞ」って。
この街の風呂って言えば、たらいで湯浴みが基本で、寝てる暇なんかないからな。
エステラあたりに聞いた情報なのかもな。……あいつなら、湯船で寝落ちして風邪を引いたエピソードくらい持っていそうだし。
「ちょっとぬるいが、まぁ平気だ」
「すみません。そちらは結構早くに火を消してしまいましたので」
大浴場の湯を沸かしたので、一人用は早々に火を消したのだそうだ。
ルシアが風呂を出てから間もなくらしいから、もう結構時間が経っているか。
「あ~、なんにせよ、驚かせて悪かったな。先に出るからゆっくり浸かってろよ」
「いえっ、あのっ!」
俺が立ち上がると、隣からジャバジャバと慌てたような水音が響く。
「その……脱衣所には、脱いだ服が…………その、下着も……」
…………ふむ。
少し想像してみる。
ジネットのことだ、脱ぎ散らかしてはいないだろうし、きちんとたたんで籠に入れてあるに違いない。
いつもの服を脱いで、たたんで、籠に入れて、で、そのあとに下着を脱いで、服の上へ…………うむ、見ちゃうな!
「何度シミュレーションしても、ジネットの下着が数枚行方知れずになるな」
「ダ、ダメですよ!? 見、見るのも……あの、ダメ、です」
いやいや、見るだろそりゃ。
だって、展示してあるんだし。
「あの、わたし、もう出ますのでもう少し待っていただければ……」
「いや、お前今入ったところだろ?」
俺が目を覚ましたのは水音でだった。
あれは、体に湯をかけた時の音だ。
陽だまり亭ルールでは、体を洗ってから湯船に浸かることになっている。
つまり、ジネットはまだ湯に浸かって時間が経っていない。
「ゆっくり浸かって温まれよ。疲れも取れないし、それこそ風邪を引くぞ」
「ですが……」
「俺も、もうちょっと浸かってるから、ゆっくりしてろ。大丈夫、覗いたりしないから」
壁の向こうへ声を飛ばすと、しばしの沈黙の後で「ちゃぽん……」と小さな水音がした。
「……はい。では、一緒に浸かってましょうね」
控えめな声にはやはり恥ずかしさが滲んでいたが、なんとなく微笑んでいるジネットの顔が思い浮かぶような柔らかい声音だった。
「追い焚きしていいか?」
「おいだき? あぁ、薪ですね。どうぞ」
もう少し浸かるとなると、さすがに湯がぬるい。
追い焚きをして、熱いお湯を追加したい。
「あの、出来ますか?」
「出来なきゃやりに来てくれるのか?」
「うきゅっ!? ……えっと、頑張ってください」
やりには来てくれないようだ。
バスタオルを体に巻いたジネットってのも、見てみたかったけどなぁ。
小窓を開けて、薪を取る。
鉄の筒の中に薪を放り込んで、火種を起こして点火する。
さて、湯が沸くのはいつになることやら。
「五分程度でお湯が沸くと思います」
「この量でか?」
結構な量だぞ? 二十~三十分くらいかかりそうなんだが。
「ノーマさんの新発明で、えっとなんでしたっけ? ねつでんどうりつ? とかいうのがすごいヤツなんだそうです」
ノーマ、なにさらっとすごい物発明してんだよ。
熱伝導率? 火傷しない筒なんじゃなかったっけ? どこが熱をよく通して、どこが通さないんだよ? もはや、俺の理解を越えてきたな。
トルベック工務店にも金物ギルドにも、技術で追い抜かれていくなぁ……
もういっそ、瞬間湯沸かし器でも発明してくれよ。
ノーマのことだ、きっと嬉々としてジネットたちにいかにこの発明がすごいかを語って聞かせたのだろう。
残念ながら、一切伝わっていないようだが。
でも、「なんかすごい」ってことは理解しているらしいぞ、よかったな、ノーマ。
窯の中の火が安定したので、浴槽に肩まで浸かる。
そういや、頭洗ってなかったな。折角だし洗うか。
「ヤシロさんは、ルシアさんの前にお風呂に入られたのだと思っていました」
「いや、ルシアが『先に入らせろ』っつって順番抜かしをしやがってな」
「そうなんですか?」
「危うく、脱衣所に乗り込まれるところだったよ」
廊下で呼び止められていなければ、あいつなら脱衣所に乗り込んできただろうな。
乙女の柔肌とは違って、俺の半裸には価値がないようだしなぁ。
「わたし、ルシアさんに『これからヤシロさんがお風呂に入るので気を付けてくださいね』とお伝えしたんです」
「それを聞いて、即行動を起こしたんだろうよ。気付かなかったか?」
「はい。ロレッタさんに呼ばれていましたので、伝言した後すぐに表へ出てしまったので」
それでルシアの行動を把握していなかったのか。
そういえば、厨房を出た時にロレッタに呼ばれてたな。……アレがフラグだったのか。
もっとしっかり拾っておかなければいけなかったんだな。もしくは折るか。
「ロレッタ、なんだって?」
「餃子パーティーの途中でミリィさんにお願いしたことがありまして――裏庭に野草が繁殖してしまったので、その除草をお願いしたんですが」
あぁ、それであの時間にミリィがあそこにいたのか。
翌日の明るい時でもいいんじゃないかと思ったんだが、話を聞いて即行動を起こしてくれたわけだ。
野草とか、放置しておくと怖いからな。
「その話を聞いていたロレッタさんが、前庭にも野草らしきものが繁殖していると伝えに来てくださったんです」
え?
除草したのは裏庭だけだったぞ?
「前庭にも繁殖してたのか?」
「いいえ。自生しているプチトマトでした」
「野草じゃねぇじゃねぇか」
「実が生っていませんでしたので、勘違いされたんでしょうね」
くすくすと、ジネットの笑い声が聞こえる。
声が反響してエコーがかかっている。不思議な気分だ。妙に色っぽく感じる。
「つまり、ロレッタの勘違いのせいで、今こういう状況になっているわけか」
「いえ。わたしの確認ミスのせいで、です」
それを言うなら、俺の報告が不完全だったせいでもある。
「マグダに伝言を頼んだんだが……」
「ミリィさんを送っていってくださったんですよね。……ふふ。わたし、『ヤシロさん、お風呂上がるの早いなぁ~』って思っちゃってました」
あぁ、除草に結構時間かかったしな。
俺が除草を手伝っていた事実を知らないジネットには、俺が風呂上がりにミリィを送っていったと認識されたわけだ。
「いろいろ、行き違いがあったようですね」
「精霊神のいたずらだろう」
こーゆーことを好んでやるんだ、精霊神のヤツは。
性根が腐れ落ちているに違いない。
「ヤシロさんの中では、精霊神様はとても可愛らしい存在なのですね」
くすくすと笑って、ジネットが言う。
可愛らしい? 小憎たらしいの間違いだろ、それは。
「でも、ちょっと嬉しいです」
ちゃぷんっと、湯が跳ねる音がする。
「壁越しですけれど、ヤシロさんと一緒にお風呂に浸かりながら、おしゃべりできるとは思いませんでした」
まぁ、俺とジネットが同時に風呂に入るなんてこと、あり得ないからな。脱衣所は一つだし。何かとマズい。
大衆浴場の計画段階でもさんざん言われた。
濡れた髪の男女が同じ建物から出てくるのはよろしくないと。
壁を隔てた風呂に入ってるってのも、相当アウトなんだろうな、本来は。
……いかん。なんか緊張してきたな。
「頭、洗うわ」
「では、わたしも。さっき途中でしたので」
「あっ、悪い。驚かせたな」
「いえ。びっくりは、しましたけれど」
くすくすと笑うジネットの声が、浴室の壁に反響して妙に色っぽく聞こえる。
風呂場、すげぇな。いろんな妄想が次々湧き上がってくる。
冷水でも頭からかぶって煩悩を退散させなければえらいことになりそうだ。
というわけで、水道のコックを開けて川の水を桶いっぱいに溜める。
それを、一気に頭からかぶる!
「ぅぉぉおおっ、想像以上に冷てぇええ!」
「にゃうっ!? ど、どうかされましたか!?」
「いや、大丈夫だ。なんでもない」
「なんでもないお声ではなかったような……?」
豪雪期が終わったとはいえ、川の水はまだまだ冷たい。
くそ、余計なことをしなければよかった。
「ジネット、一ついいことを教えてやろう」
「はい。なんでしょうか?」
「川の水を頭からかぶると、――冷たい!」
「え……はい、それは、そうだと思いますが……?」
うん。
これでジネットが「煩悩退散!」とか言って冷水をかぶることはないだろう。
心臓に悪いからな。やめておいた方がいい。
「そういえば、レジーナさんが、もうすぐシャンプーが出来そうだとおっしゃっていましたよ」
たらいで体を拭いていた時はシャンプーなんか使えなかったが、これだけの湯量と、水浸しにしても構わない場所があればじゃんじゃん使える。泡立て放題、流し放題だ。
そんなわけで、レジーナに言ってシャンプーの研究を進めてもらっている。
原始的な簡易シャンプーのレシピを渡し、あとはご自由にと丸投げだ。
温泉の素のように、いい香りのシャンプーが出来ることを願う。
「楽しみがたくさん増えましたね」
「そういえば、川遊びの時にマグダとお風呂で遊ぶおもちゃを作ろうって話をしてたんだ」
「お風呂で遊ぶおもちゃですか?」
「あぁ、湯船に浮かぶアヒルの親子とか、ウミガメとかな」
「それは、とっても可愛いですね」
「マグダが、『店長が欲しがるから作るべき』ってさ」
「うふふ……そうですか。では、楽しみにしてますね」
ジネットは「お前が欲しいんだろうが」なんてことは言わない。
笑みの中にすべてを含むだけだ。
「お風呂って、誰かと一緒に入ると本当に楽しいものですね」
しみじみと、ジネットがそんなことを言う。
一人で入りたいってヤツもいるし、温泉みたいな場所ではしゃぐのが好きなヤツもいる。それは人によるのだろうが、ジネットならきっとそう思うのだろう。心から。純粋に。
「ぷくぷく魔獣、覚えたか?」
「はい。マグダさんにダメ出しされながら練習しましたから」
「あいつのこだわりはうるさそうだなぁ……」
「ふふふ。とてもスパルタでしたよ」
なにせ、ママ親との思い出の遊びだ。一切の妥協がないのだろう。
「最終的に、『これは店長のオリジナルぷくぷく魔獣』ということで合格をいただきました」
ママ親が一番だからと言って、ジネットを否定するなんてことはしない。
ジネット流の甘やかしも、マグダは大好きなのだ。
それから、湯船に浸かり直してとりとめのない会話をしながら体を温めた。
ジネットが上がるというので、着替えが終わるのを待って、俺も上がった。
残念なことに、パンツの忘れ物はどこにもなかった。
ただ、脱衣所を出た先の廊下でジネットが待っていてくれたのには、ちょっとドキッとさせられたけどな。
「あの、お約束していたヤシロさんへのご褒美ですが、この後少しマッサージでもいかがですか?」
しっとりとした笑みで提言された、餃子作りを頑張った俺へのご褒美にもドキッとさせられ、そして――
「……ヤシロと店長が一緒にお風呂から帰還。……明日、皆に報告せねば」
「違うぞマグダ!? これには訳があってな!?」
「そ、そうなんです! 不慮の事故でして!」
廊下の先にマグダが立っていたのにはもっとドキッとさせられた。
……心臓、潰れるかと思った。
仲間外れにされてへそを曲げたマグダを宥めすかしあやすのに時間がかかって、その日の就寝時間はかなり遅くなった。
俺へのご褒美は、そんな事情もあって後日へと延期された。
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