「こんにちは、みなさん」
鈴を鳴らしたような声がして、俺の背中を嫌な汗が伝い落ちていく。
……そうだ、この人がいたんだった。
「私は、四十二区の教会でシスターをしています、ベルティーナと申します」
慈善事業の代名詞。慈悲の心を売り歩くほどに持ち合わせている正真正銘の聖女。
シスターベルティーナが迷える子羊の前に立ち、女神のような美しい笑みを彼らに向けていた。
「まず、みなさんのお名前を伺ってもよろしいですか?」
「シスター様がどうしてこんなところに……あ、いえ。名前でしたね。私は、ヤップロック。妻のウエラーに、息子のトット、娘のシェリルです。さぁ、お前たち、シスター様にご挨拶だ」
「こんにちは、シスター様」
「こんちちわ」
娘の方はまともにしゃべれないらしい。
両親からして小さいからよく分からんが、息子は十歳、娘は五歳くらいか。
ちなみに、父親のヤップロックだが、立っても140センチあるかないかくらいの身長だろう。マグダより少し小さい。
「それで、お悩みがあるようですが……もしよろしければ精霊神様に代わりこの私が……」
「そうだ! ナンを焼こう!」
「……その『なん』というものを、美味しくいただいても構いませんよ?」
「シスター!? 意志がいともたやすく引っ張られ過ぎですよっ!」
エステラがベルティーナに突っ込んでいる。珍しい光景だ。
「ヤシロ!」
意志がトコロテンばりにぐにゃんぐにゃんなシスターのもとから、エステラの意識が俺へと移ってくる。
「なんなんだい、君は!?」
「そう、ナンなんだよ、俺が焼こうとしているのは」
「そうじゃなくて! 他人が行おうとしている人助けまで妨害する権利は君にはないはずだよ!?」
俺を食堂の隅まで連行して、一家に聞こえないよう、声量に配慮してエステラが叫ぶ。
まったく、お門違いもいいとこだ。
「なら言わせてもらうが、シスターとしての職務なら教会でやってくれ! あの家族が精霊神様とやらを頼り、教会へ足を運ぶなら、どうぞ存分に手助けをしてやるがいい! または、エステラの家に押しかけて悩み相談に乗ってくれと頼み込めばいい。だがな……」
俺は、俺に向けられる怒りを含んだ目を、さらに強い怒りをもって睨み返してやる。
「ここは、飯を食う場所だ。これ見よがしに厄介ごとに巻き込もうとする連中から、このスペースの平穏を守る権利くらいはあるはずだがな」
お前は分からんのか?
子供が比較的楽観的で、半面両親が死にそうなほど落ち込んでいるこの家庭の悩みが。
どんなに静かにしろと言っても騒ぎ出すこのくらいの歳の子供が、何も言わず大人しく口をつぐんでいる理由が。
ガキが大人しくしている時は、空気を読んでいる時だ。いや、読まざるを得ない時なんだ。
つまり、この両親は子供に気を遣わせるほどに落ち込み、それを隠すことすら出来ないほどの悩みに直面しているってことなんだよ。
両親が揃ってそこまで悩む事柄なんて、そう種類は多くない。
子供の怪我や病気……でなければ…………金だ。
「お前に、あの一家を半永久的に養ってやれるだけの財力があり、且つ、それを惜しみなく分け与えてやれるというのなら好きにしろ。その場合、あの一家以外の、もっと別の可哀想な一家が大挙してお前のもとに押し寄せるかもしれんが、そいつらもついでに同情して養ってやれ」
「何も、ボクはそこまで……」
お前がやろうとしているのはそういうことなんだよ。今目の前にあることに感情を動かされ、『可哀想だ』と同情し、手を差し伸べて『いいことをした』と自己満足に浸りたいだけなんだ。
「一つ言っておくぞ。思わせぶりな態度を取って見捨てられると、……人は絶望する」
「…………ボクは」
「やるならとことん付き合ってやれ。俺はとてもじゃないがそこまでの責任を負えない。だから首は突っ込まない。言いたいことは以上だ」
冷たく言い放ち、俺はパン種の入ったカゴを持ち上げる。ナンを焼きに行くのだ。
俺は俺のやるべきことをやる。
金になるのであれば、人助けもやぶさかではないが……この一家からは金の匂いなど微塵もしない。
助けるメリットが無い。
悪いな。
俺は神様じゃないんでな。
俺にメリットがない以上、平気な顔をして見捨てさせてもらうぜ。
「お待たせしました~」
ナンを焼きに外へ出ようとした時、ジネットが厨房から出てきた。
お盆に載ったクズ野菜の炒め物は…………どう見ても量が多かった。
「……ジネット」
「ぅへ……っ!? な、なな、なにか、おかしなところでもありましたでございましょうか?」
その噛み方がもうすでに自白したのと同義だ。
くだらない情けをかけやがって。
そういう行為が、他の客を不当に差別していることになると教えたはずなのだがな。
「すみません……でも、わたし…………」
うな垂れて、今にも泣きそうな顔をする。
なんで俺に謝るんだよ……ったく。
「お前のおっちょこちょいは今に始まったことじゃない……次からは分量を『間違えないように』気を付けろよ」
「っ!? ……はいっ!」
……ったく。調子が狂う。
ジネットには、どうも強く言いにくい。きっとアレだ。あの目がいけないのだ。
あまりに無防備で、こちらの敵意を無条件で削いでしまう。
「ヤシロさんって、やっぱジネットさんには甘いッスよね」
「……マグダにも優しい」
すっかり存在感をなくしていたウーマロが余計なことを呟きやがる。
あと、マグダ。張り合わなくていいから。
「さぁ、召し上がってください」
ジネットがテーブルに皿を載せると、子供たちが身を乗り出すように覗き込む。
「わぁ、綺麗だね!」
「きれー!」
色とりどりの野菜が油を纏ってキラキラと輝いている。
ジネットの料理は、見栄えも素晴らしいのだ。
「食べよう食べよう!」
「たべぅー!」
はしゃぐ子供たち。
気を利かせたのだろう、箸が四つ用意されていた。一人前なら一膳でもいいのだろうが……まぁ、分けて食うのは明白だからな。それくらいはいいか。「洗う手間が~」とは、言わないでおいてやる。
「お父さん。早く食べよう!」
せっつくトットに、ヤップロックは笑みを向け、そっと頭を撫でる。
「お前たちは先におあがりなさい」
「どうして?」
「お母さんたちね。そんなにお腹空いてないのよ。だから、さぁ、二人でたくさんお食べ」
「……うん。分かった」
子供が、空気を読む。
食堂内の空気が、一気に重たくなった。
ジネットが唇を噛みしめ、両腕で持ったお盆をギュッと抱きしめる。
マグダはジッと一家を見つめ、エステラは顔を背けている。
ウーマロは遠くの席に座り、一家を見ないようにしているし、ベルティーナはまぶたを閉じ、祈りを捧げるように手を組んでいた。
みな、一様に眉を寄せ、言葉を必死にのみ込んでいるようだった。
「シェリル。ほら、僕が食べさせてあげるね」
「うん! おにいたん、すきー!」
トットは、器用に箸で赤ピーマンを掴み、シェリルの口へと運ぶ。
シェリルが小さな口にピーマンを頬張り、もぐもぐと咀嚼する。
「おいしぃ~!」
この場所で、唯一無邪気でいられるのがシェリルだ。
だからこそ、トットもシェリルに食べさせたのだろう。この重苦しい空気を払拭しようと思って。
「お父さんたちも食べなよ。美味しいって」
「あ……いや……大丈夫だから、二人でお食べ」
「お母さんたちね、お腹いっぱいだから」
「…………うん」
そんな会話が…………もう、ダメだった。
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