降りしきる雨の中、厚化粧軍団が陽だまり亭を出て行った後、さほど間隔を置かずにロレッタが店へと戻ってきた。
「お兄ちゃん! 臭っ!? なんかすごい臭いです!」
ほぅ、そうかそうか。
じゃあ、とりあえず……アイアンクロー!
「いたたたたっ!? 痛いっ、痛いです、お兄ちゃん!」
「誰が臭いって?」
「ち、ちち、違うです! お兄ちゃんに大至急の用事があって呼びながら帰ってきてみたら、陽だまり亭にあるまじき化粧臭さが充満していて思わず『臭い』って言葉が出ちゃっただけです! お兄ちゃんが臭いだなんてこれっぽっちも思ってないです!」
「……では、疑いを晴らすためにも『お兄ちゃん、たまんない匂いです、ハスハス、くんかくんか』くらいは言うべき」
「おぉ、そうですね! さすがマグダっちょ、気遣いの出来るレディです。では……お兄ちゃん、たまんない匂……変態です、それ!? あたし、そんなこと言わないですよ!?」
全力でくんかくんかしかけていたロレッタがマグダの策略に気付き、すんでのところで踏みとどまる。変態と常識人の境界線でつま先立ちしていた状況だな、これは。
「で、何をそんなに慌ててたんだよ、嗅ギッタ?」
「ロレッタですよ!? そういう印象操作イくないです!」
んばっ! と、俺から距離を取り、ジネットの方へと避難していくロレッタ。
ジネットは困り顔で「大丈夫ですよ、ロレッタさん」と、頭を撫でてやっている。
「なるほど。ジネットはくんかくんかされても大丈夫な人なのか」
「ち、ちち、違いますよ!?」
「そもそも、あたしくんかくんかしないですよ! あぁっ、店長さんがさり気なくあたしから離れていくです! そして気付いたらエステラさんもちょっと遠くに避難してるです! 酷い風評被害です!」
「……まったく。ロレッタは帰ってくるなり騒々しい……」
「発端はマグダっちょですよ! やれやれみたいな顔やめてです!」
二十人近くもいた『新たな通りの名称を考える会』の面々がいた時よりも店内が騒がしい。
ロレッタの騒がしさって、相当なものなんだな。
「で、何をそんなに慌ててたんだよ、一人で二十人分くらい騒ガシイッタ?」
「もはや似せる気すらないじゃないですか! 弄るならちゃんと弄りきってです!」
ぷりぷり怒りながら、結局俺の前までやって来て、割と真面目な顔で見上げてくる。
心なしか嬉しさがにじみ出している。
「テレサちゃんが、『明るい』って言ったです!」
その知らせに、店内がにわかに騒めく。
ジネットが目を丸くして口元を押さえ、マグダも尻尾をぴんと伸ばし、いまいち理解していないっぽいウーマロとベッコですら、一瞬で変わった店内の空気に良い知らせだと察知して頬を緩め――
「エステラがひっそりと抉れはじめる」
「はじめるかっ!」
「……抉れきっている」
「被せてこなくていいから、マグダ!」
ただ一人不機嫌そうなエステラは省いて、この場にいる誰もがその顔に希望の色を浮かべている。
「あの小さな妹氏の目が快方に向かっているでござるか?」
「あぁ、おそらくな」
もともと治る見込みが大いにあり、栄養のある物を存分に食べさせて、適切な処置とよく効く薬を処方していたのだ。テレサの目が見えるようになるのは時間の問題という状態だった。
その時が、思っていたよりも早くやって来たという感じだな。
「それで、ロレッタ。レジーナは?」
「はい! レジーナさんはおそらく何かの末期で、たぶんもう手遅れです」
「あぁ、うん。あいつの現在の状況を聞いているんじゃなくて、あいつは誰かが呼びに行ってるのか?」
「あぁ、そういうことですか! あたしはてっきり……」
素でさっきの答えを寄越したのかよ……んなもん、聞かんでもいやっちゅうほど分かってるっつの。
「今、ウチの弟が呼びに行ってるです」
「じゃあ、先に教会に行って待ってるとするか」
「はぅっ、あの、えっと、ヤシロさん!」
急にジネットが慌て始める。
テーブルの前を行ったり来たりして、両手を所在なくさまよわせている。
なんだよ?
「『元気になったテレサさんを見に行きたいけれど、まだ営業中なのでお店も離れられませんし、どうしましょう?』……か?」
「え、あ……はい。そのような感じです」
やや照れて、肩をすくめて俯いて、ちらりとこちらへ上目遣いを寄越してくる。
そんな見え透いたおねだりされてもなぁ……
「店番なら、ウーマロとベッコがいるから大丈夫だろう」
「ヤシロさん、従業員の前にお得意様を甘やかしてほしいッス!」
「なんの躊躇いもなく労働を押しつけるのはご勘弁願いたいでござるよ!」
一体何が不服なのか、ウーマロとベッコが食ってかかってくる。
何が労働を押しつけるだよ……
「大丈夫だ。賃金を払う気は一切ないから、労働ではない。『おてちゅだい』だ」
「可愛く言ってもダメッスよ!? 無償労働とか、一番他人に強いちゃいけないやつッスからね!?」
「拙者、これほどまでに『大丈夫』の使い方がお下手な方を初めて見たでござる」
「あ、あの。大丈夫ですよ。わたし、お店を離れたりしませんから」
不満を垂れるオッサン二人に気を遣い、ジネットが外出を諦めてしまった。
あ~ぁ、気を遣わせやがって。
「ジネット、可哀想に……」
「ヤシロさん、その感情1ミリでいいんでオイラたちにも向けてほしいッス……」
「1ミリとは贅沢な……1ミクロンでも向かせられればぐぐっと待遇が改善されるでござるよ」
なんだか常連客からのクレームがうるさい。
これは、改革が必要かもしれない。店員と客。その立場の差を明確に知らしめるためにも。
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