「はい、イチ、ニ、サン、ぱっ! イチ、ニ、サン、ぱっ!」
顔を水に浸けて、三歩歩いて顔を上げる。
息継ぎの練習をジネット、ノーマ、イメルダが並んで行っている。
なんともシュール。
しかし、三人ともヘッタクソだなぁ。
顔を水に浸けるのが怖いのか、息が苦しいのか、顔を自ら上げる時に必要以上に体をのけ反らしているからその度におっぱいがぷるんぷるんして実に素晴らしい! 非常に良い!
「みんな、いい感じだぞ~」
「その緩みきった顔を見る限り、別のところの話だね」
競泳の鬼と化していたはずのエステラが、初心者練習コースに顔を出していちゃもんを付けてくる。
なんだよ。
ナタリアがマーシャと競泳し始めたから暇になったのかよ。
「……ってぇ!? なに向こうのあの水しぶき!?」
「あぁ、ナタリアたちだね」
振り返れば、川の深い場所で凄まじい水しぶきが上がっていた。
魚雷でも爆発してんのか?
「今は、ナタリアとマーシャとデリアとロレッタが競ってるのかな?」
「マーシャには勝てないんじゃないのか?」
「体に触れなければ攻撃アリってルールらしいよ」
「あぁ、それで水をぶっかけ合ってるのか……」
「ね? ボクがリタイアした理由が分かるだろう?」
あんなもん、普通の人間には耐えられないな。
「マグダが混ざってなくてよかったよ」
「マグダは、水に濡れるのがそこまで好きじゃないからね」
「へ? そうなのか?」
「はい。お風呂の時も、頭を洗った後はちょっと元気がなくなるんですよ」
くすくすと、ジネットがそんなマル秘情報を寄越してくる。
マグダを風呂に入れたことがなかったから知らなかった。
そういえば、顔を洗えって言ってもなかなか洗いに行かないんだよなぁ、マグダって。
やっぱそこらへんネコ科の影響なのかな?
「でも、大浴場は気に入ったようですよ」
「あぁ、ずっと浸かってたよね」
昨日の話だろう。
エステラとジネットが楽しそうに笑っている。
随分と和む光景だったようだ。
「俺も見たかったなぁ」
「君の目的は和みではなくエロスだろう?」
まぁ、実際ご招待されたら違うところばっかり見そうではあるけれども。
「マグダは、顔が濡れるのがイヤなんさね」
「ワタクシも、あまり好きではありませんわ」
「実は、わたしも……顔を洗う時とは違って、潜るとなると、少し怖くて……」
泳げない者のほとんどが、顔を水に浸けることを怖がっている。
呼吸が出来なくなるという強迫観念により、一層息苦しさを感じてしまうのだ。
だから、こいつらみたいに「イチ、ニ、サン、ぱっ!」の「ぱっ!」で必要以上に酸素を吸い込もうとしてしまうのだ。
慣れると全然平気なんだけどなぁ。
「肺の中を空にしてから、水上で口を開けると勝手に空気が入ってくるんだぞ?」
「ヤシロさんはそうおっしゃいますが……」
「吸い込まないと入ってこないさね!」
「非常に息苦しいですわ!」
こういうタイプは、シュノーケリングも出来ないことが多い。
シュノーケルを通して空気が入ってきても息苦しく感じ、少し潜ってシュノーケルに水が入り込んできたら大騒ぎをするのだ。
ちょっとくらい息が出来なくても死にゃしないんだがなぁ。
「やはり、顔を水に浸けられないと、泳げるようにはならないのでしょうか?」
「そんなことないぞ。立ち泳ぎとかもあるし」
顔を出したまま泳ぐ方法はいくらでもある。
犬かきなんかもそうだな。
「なんだか、自分が泳げるようになるイメージが持てません」
一年ぶり二度目の水泳練習。間が空き過ぎて去年のことはすっかり体が忘れてしまっているジネット。
泳いでみたいという思いはあっても、苦手意識が先行しているようだ。
イメージねぇ。
「んじゃ、ウミガメの親子でもしてみるか」
「うみがめのおやこ、ですか?」
可愛らしい響きの言葉に、ジネットの目がきらりんと輝く。
まぁ、要するに、俺がジネットを背負って平泳ぎをするだけなんだが。
「背中に乗せてやるから、ちょっと泳げるヤツの目線を体感してみろよ」
「えっ、そんなことが出来るんですか!? 沈みませんか!?」
「人の浮力は結構すごいんだぞ。一人くらい乗せたって平気だ」
ジネットの場合、他の誰よりも大きな浮力が働きそうだからな!
その二つの膨らみのおかげで!
「ほれ、おぶされ」
「え、あの、でも……重い、かもしれませんよ?」
「水の中なら平気だよ」
「でもでも、あの……っ」
「イヤなら無理にとは言わねぇよ」
「いえっ、決してイヤなわけでは……っ!」
思わず言って、口ごもり、俯いて、頬を赤く染める。
まぁ、肌も密着するしな。
照れるのも分かる。
だから無理強いはしない。
「昔、まだ俺が故郷にいた頃にな、ダチと泳ぎに行ったことがあるんだ」
「ダチ、とは?」
「まぁ、友達、かな」
なんだろう。
ダチのことを友達と言い直すのはなんだか照れる。
小学校時代の悪友どもだ。お友達ってお行儀がいい関係ではなかった。
ただひたすら走って、泳いで、騒いでいた。
バカだったなぁ、小学生の頃は。全員。
「で、そのダチの弟がな、小さいからうまく泳げなくてなぁ」
「おいくつだったんですか?」
「俺らが八歳で、弟が四歳だったかな?」
いっつも「兄ちゃん兄ちゃん」って、ダチの後をついてきてた。
ただ、身体能力に差があるから、いつも置いてけぼりだった。
「で、つまらなそうにしてたからさ、背中に乗せて泳いでやったんだよ。喜んでたぞ」
「そうなんですか」
喜ぶ弟の顔でも想像したのか、ジネットがくすくすと笑う。
「ヤシロさんは、そんな幼い頃から子供が好きだったんですね」
「はぁ!? そういう話じゃねぇよ!」
論点が違う!
全然そういう話じゃない!
「でも、懐かれていたんだろう、その弟君に?」
「うっさい、エステラ。乳パット外れろ」
イラっとする顔で肩にヒジを乗せてくるエステラに水をかける。
「わっぷわっぷ」言ってろ、そこで。
「でしたら、わたしもお願いしてみましょうか」
手を組んで、ジネットが俺を見る。
「乗せて、いただけますか?」
「お、おぅ……」
そう、改まれると、なんか、アレだな。うん、アレだ。
「じゃあ、ボクもついていこうかな。君がよからぬことを仕出かさないように」
「俺が何するっつーんだよ?」
「どさくさに紛れてお尻を触ったりしないようにだよ」
「なるほど! その手があったか!」
「ありませんよ! もう」
けれど、お尻だったら、「ヤシロさんならおっぱいを触るはず! きっと別の人です!」って感じで容疑者から外れるかもしれない!
「おっぱいじゃなければ、俺は疑われないかも!」
「いや、疑うけどね。真犯人が他にいても、真っ先に君を疑うよ、ボクは」
なんて酷いヤツだ!?
この世の悪意を凝縮したような性格をしている。
そんな性根が曲がり過ぎて巨大迷路のようになっているエステラに監視されながら、水の中でジネットを背負う。
遠慮がちに俺の肩に手を添え、体を寄せてくる。
「泳ぎ出したら、背中に座っていいからな」
「は、はい。あの……重かったら言ってくださいね」
「大丈夫だっつーのに」
心配性なジネットは、放っておくとずっと心配し続けるだろう。
なので、さっさと泳ぎ始める。
川底を蹴って、すぃ~っと平泳ぎだ。
俺の体が傾くのに合わせて、ジネットが俺の背中に座る。
……横座り?
自転車の後ろに乗る昭和女子か。
さすがに、足を開いて乗るのは恥ずかしいらしい。
「落ちるなよ?」
「は、はい」
「ちょっと沈むぞ」
「え? ぅひゃあ!?」
水に浸かるのを嫌がって、ジネットが背中を伸ばしているせいで、俺の体がドンドン沈んでいく。
人間は、水上に出せる体の割合が決まっているのだ。
なので、ジネットがもっと密着して水中に体を沈めてくれないと、俺が顔を出していられない。
ジネットの顔が水に浸からないよう気を付けつつ、少し潜って、速度を上げる。
「きゃうっ!」
速度が上がり、ジネットの手に力がこもる。
いい感じに体が密着して浮力が安定する。もう大丈夫だろう。
「ぷはっ……大丈夫か?」
「はい、少し、怖かったですけど」
本当に怖かったようで、ジネットは俺にしがみつくように引っ付いている。
「悪いけど引っ付いていてくれな。そうしないと沈むから」
「そうなんですか? で、では……あの、失礼します」
一言謝って、一層体を寄せてくるジネット。
俺の背中が、わっしょいわっしょいしている。
「ヤシロ。顔のゆるみを直さないと、君の前でバタ足をするよ?」
なんて拷問を思いつくんだ、恐ろしい領主め。
さすがというか、エステラは綺麗なフォームで俺の横にピタリと並んで泳いでいる。
「お前、泳ぎうまいんだな」
「まぁね! 体を動かすのは得意なんだ」
「羨ましいです。わたしは、運動が苦手なので……」
「でも、今こうして一緒に泳げてるじゃないか。ボクは楽しいよ」
「ふふ。わたしは、ズルをしていますけれど。でも、楽しいです」
えへへと、笑みを交わす二人。
それじゃあ、ちょっとサービスしてやるかな。
「エステラ、対岸沿いに泳ぐぞ」
「あぁ、うん。あそこ、下から見ると花が綺麗なんだよね」
対岸は崖になっていて、そこに生えている大きな木がその枝を川の上にまで伸ばしてきている。
白く淑やかな花が大きな花弁を広げていて、アレを間近で見ればきっと綺麗だろうと思っていたのだ。
ジネットなら、きっと喜ぶだろうってな。
「綺麗……、です」
川の上に大きく突き出す枝の下を通過する。
まぶしく降り注いでいた日差しが微かに遮られ、風に揺れる白い花と、キラキラと光を反射する水面に挟まれて、光と影を交互に通過していく。
ふわふわと浮かぶような感覚に包まれて、ゆったりと流れていく景色は本当に見事で。
俺の背中でジネットが「わぁ……」と声を漏らしていた。
隣を泳ぐエステラは背泳ぎへとスタイルを変え、俺と目が合うとにこりと笑った。
実に穏やかでありながら非現実的。
こいつらと、こんな景色を、こんな気持ちで眺める日が来るなんて……出会った頃には考えもしなかったな。
ゆったりと泳ぎ、ぐる~っと大きく旋回して、元いた浅瀬へと戻ってくる。
ここまで来ればジネットも足がつく。
「ほい、到着」
「あふ……。とっても、楽しかったです」
ため息を失敗したような息を漏らして、ジネットが俺の背から降りる。
川底に足をつけた瞬間、膝の力が抜けたように川の中へと沈む。
「ジネット!?」
「ぷぁっ!」
慌てた様子で立ち上がり、両手でこしこしと顔を拭う。
「み、水を飲んでしまいました」
焦ってちょっと泣きそうになっている顔を見たら、もう耐えられなくて。
「あははははっ!」
エステラと一緒に、指をさして笑ってしまった。
「もぅ、酷いです」なんて抗議する顔も、どこか恥ずかしそうに。
「でも、泳げる人って、あんな感じなんですね」
「そうだね。競泳じゃなくて、ゆったりと泳ぐとあんな感じかな。競泳だと、もっと必死だけど」
バシャバシャと水をかいて肩で息をしてみせるエステラ。
その様を見て笑うジネット。
おぉ、なんだか夏を満喫している気がする。
もうすぐ日も暮れる。
今年の川遊びも、あと数時間で終了だろう。
明日は明日で大変になるだろうから、今日はこの辺で切り上げよう……と、思ったら、列が出来ていた。
「ジャンケンで勝ちましたので、ワタクシが先ですわ」
「その次はアタシさね」
「待て待て! なんの列だ!?」
「泳げないワタクシたちに、泳ぎを体感させてくださるのでしょう?」
えぇ、なに?
お前らもやりたいの?
「ヤシロ。同じオオバ・スイミングクラブのメンバーの中で贔屓はよくないさよ」
「いつ出来た、そのクラブ!?」
主催者らしき俺に一切の心覚えがない!
「ちょっとヤシロ~! 早くしてよ~、後ろがつかえてるんだから~!」
列の後方でパウラが叫ぶ。
いやいや。勝手に並ぶなよ。お前らは教会のガキどもか。
「はい、最後尾はこちらになります」
「お前んとこの給仕長は何をやっているんだ?」
「今に始まったことじゃないだろう?」
そうやってしつけを怠るから、部下が奔放に育つんだよ!
「そんなに何回も泳がされたら、帰ってすぐ寝落ちしちまうぞ……」
「大丈夫ですよ、ヤシロさん」
そっと隣に並び立ち、ジネットが天使のような笑顔で言う。
「豪雪期の準備はもう終わっていますし、ヤシロさんはお寝坊さんしても大丈夫ですよ」
えっと、それはつまり、「やれ」ってこと?
ジネットって、菩薩なの、羅刹なの、どっち?
笑顔でやりがい搾取を強要してくる社畜上司に反論できず、俺はウミガメの親子を何度もやる羽目になった。
一人では到底無理なので、ナタリアとエステラにも手伝わせた。
つか、マーシャ。お前まで並んでんじゃねぇよ。
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