「私の番、次は」
ギルベルタがルシアとは別にエントリーしていた。
なんとなく、ギルベルタが前に出てくるなんて思ってなかったから、結構びっくりした。
「入ったばかりのこと、私が、ルシア様の館へ、給仕として――」
回りくどいながらも、平坦な声と淡々とした口調でギルベルタが語り始める。
ギルベルタが新人給仕だった頃に体験したという話を。
今でこそ、ルシアは虫人族好きを隠さなくなったが、俺たちに出会う前まではギルベルタと一部の者以外の前では館の中であってもそんな素振りを見せることはなかったのだという。
ルシアの父、前領主に仕え、慕い、現在も給仕を続けている者もいる中では、いくらルシアといえど自由気ままにやりたい放題というわけにはいかないらしい。
ただでさえ若い女領主ということで近隣から侮られやすい存在なのだ。これ以上の弱みは見せられない。――そんな意識が当時の館内には蔓延していたらしい。
そんな窮屈な空気は、ギルベルタが給仕になった当初はもっと酷く、先代が存命だったこともあり、グンタイアリ人族のギルベルタは相当肩身の狭い想いをしていたのだという。
「それでも、異例のこと、亜種が――虫人族が召し抱えられることは、領主の館に」
ルシアの強い推薦の上、強引にねじ込んだ採用だったとギルベルタは言う。
亜人差別に思うところがあった先代領主は、反対こそしなかった。が、それでもさすがに歓迎はされなかったそうだ。
「『黙認』――最も相応しい言葉、それが」
ギルベルタの父親が三十五区の街門を守る兵士としてとても優秀で、領主の覚えがめでたかったこともあり、ギルベルタは給仕になれたのだそうだ。
そんな経緯があったのか。
てっきりナタリアみたいに世襲したのかと思っていたのだが、大抜擢だったんだな。
それ故に、敵も多かったのだろう。
領主の娘の寵愛を一身に受けるギルベルタを疎ましく思う給仕は、少なくない数存在したらしい。
「そんな中、とても優しくしてくれた、一人の先輩が」
ギルベルタの前に給仕として働いていたホタル人族の女性が、同じ境遇のギルベルタを守ってくれたらしい。
仕事中はそれぞれの持ち場へと離れてしまうが、仕事が終わればずっと一緒にいて世話を焼いてくれたと、ギルベルタは嬉しそうな声で語った。
「教わった、私は。その先輩に、給仕の在り方、そのすべてを」
今のギルベルタの基礎を築いたのが、そのホタル人族の先輩なのだそうだ。
そして、きっと、ギルベルタの心の支えになっていたのだろう。
「ある時、見かけた、真夜中に、抜け出すのを、その先輩が、給仕たちの寮から――」
それは、蒸し暑い夜のことだったらしい。
夜中にふと目が覚めて、不快な暑さに窓を開けたら、窓の下を先輩が歩いていたのだそうだ。
とぼとぼと、一人で。
風もなく、じめっとして、肌に張りつく不快な濡れたシャツの感触を、ギルベルタは今でも覚えていると言う。
こんな夜中にどこへ行くのかと不思議に思い、ギルベルは部屋を抜け出してこっそりと後をつけた。
館からは遠く離れているはずの海から、波の音が聞こえてきたそうだ。
微かな潮の匂いと共に、唸るような、おどろおどろしい波の音が。
先輩は寮の敷地を出て、街門の方へと向かっていた。
街は真っ暗で、物音一つ聞こえなかった……ただ一つ、呻き声のような波の音以外は。
「そして起こった、不思議なことが――」
夜中は完全に閉じられているはずの街門が開いていたという。
そして、門番が一人もいなかったと。
ギルベルタはその状況を不思議に思いながらも、それよりも先輩を追いかけなければという思いが勝りひたすらに足を動かしたそうだ。
そして、立ち止まることなく歩き続け、ついにギルベルタは海まで来てしまった。
夜の海は真っ黒で、押し寄せる波はまるで生き物のように見えた――と、淡々とした声でギルベルタが語る。
その情景が脳裏に浮かんで、不気味さに背筋が冷える。
「どんどん進んでいく、先輩は、真っ黒な海へ――危険と思った、私は。だから走った」
砂浜を駆け、前を行く先輩を追いかける。
声をかけようとしても、どういうわけか声が出ない。
仕方なく、ギルベルタは腕を伸ばして先輩の手を取ろうとした。
その時。
「名を呼ばれた、私は」
『ギルベルタ!』と、女性の声がして、次の瞬間に後ろから抱きしめられたらしい。複数の腕に。
それまで先輩以外の何も見えていなかった視界が急に開けて、世界に音が溢れていった。
振り返ると、館の給仕たち――ギルベルタの先輩給仕たちが五人、ギルベルタにしがみついていたという。
それ以外にも十人ほどの給仕が心配そうにこちらを見ていた、と、ギルベルタは言う。
「尋ねた、私は、よく分からなかったから、状況が」
先輩給仕たちが言うには、夜勤の給仕が一人で寮を出て行くギルベルタを見かけて仲間と一緒に後を追ってきたのだという。
声をかけてもまるで聞こえていない様子で、門番の制止も振り切って、まったくの無表情でギルベルタは海へ向かったらしい。
たった一人で。
そして、砂浜に着くなりまっすぐ海へ向かって行くギルベルタを給仕たちが必死に抱きしめ、止めたのだと。
「……一人? と、不思議に思った、私は」
だって、私は先輩と一緒に――と、振り返ると、そこには誰もいなかった。
先輩がつけたはずの足跡も、一つとして見つけられなかった。
ただ、黒い波が打ち寄せているだけ。ただ海が広がっているだけだった。
「謝られた、先輩の給仕たちに――」
先輩給仕たちは、自分たちの態度がギルベルタを苦しめてしまったのではないかと反省し、そして謝罪の言葉を述べたという。
ギルベルタは先輩がいたからつらくはなかった。むしろ、自分が至らないばかりに先輩給仕たちに迷惑をかけて申し訳なく思っていると謝意を述べたらしい。
そうしたら。
「え……『先輩』って、誰のこと?」
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