「ガス……ライティング、って、なんッスか?」
聞き慣れない言葉にウーマロは眉根を寄せる。
それを説明するのはなかなか難しい。
言葉で説明すると「そんな馬鹿な」という感想しか抱かれないから。
それを説明するには、少々回りくどいことをする必要がある。
「人は弱い生き物だ。ゆえに群れを成して生活をしている。身を守るために本能がそうさせるんだ」
その本能が厄介なんだ。
「人間ってのは、周りの人間が自分と違うことを言えば間違っているのは自分じゃないかと錯覚してしまう。たとえ、どんなに確固たる自信があろうと、周りからの異論や反論にその自信は揺らいでしまう。その揺れ幅や揺れるまでにかかる時間に差はあるが、徹頭徹尾揺れ動かない人間は限りなく少ない」
人の話を聞かない頑固者とて、裏を返せば人の話を聞いてしまえばおのれの信念が揺らぐと自覚しているからこそ耳を塞いでいるのだ。
『社会』というところに属し、他人と共存していこうというまっとうな人間なら、異論と反論を完全にスルーすることは出来ない。
聞き流した振りをしていても、心のどこかに棘のように突き刺さってしまう。
それは、人間という生物が一人では生きていけない弱い生き物だからだ。種族としてそういう特性を持っているがゆえに群れを成す。そんな生物の本能が警鐘を鳴らすのだ。『群れの中で孤立するのは危険だ』と。だから、自分の心を疑ってしまう。自分自身を、信じられなくなってしまう。
「それって、水不足の時のデリアみたいなものかい?」
エステラが言っているのは、四十二区で起こった水不足の際、各ギルドの代表に「水路に水を送るために川の水を堰き止めろ」と迫られ、「もしかしたら自分が間違っているんじゃないか」と、デリアが泣きそうになっていた時のことだろう。
「心理的には近しいものがあるが、アレとは明確に異なる」
自分と異なる意見を持つ者が複数現れ、自分と敵対するポジションに立たれると、自分の信じた正義が揺らいでしまうことがある。
デリアなんかはまさにそれで、「川を守る」という譲れない使命ですら、自分のエゴだと思い込みかけていた。
だが、あれは双方の言葉が足らず、思いがすれ違い、意見が食い違っていたから起こった摩擦だ。
群れの中での衝突ってのは、大小の差はあれど、いつだって、どこでだって発生するものだ。
だが、ガスライティングは違う。
デリアの件のように悪意なく意見がすれ違って起こる摩擦ではなく、ソイツは明確な悪意を持って仕掛けられる。
「ガスライティングってのは、その人物の尊厳や自信、自己、思想、責任、価値、そんなものを踏みにじり失墜させ奪い去る、残虐な虐待……いや、拷問だ」
物騒な言葉に、エステラが生唾を飲み込む。
本当に、卑劣で恐ろしいものなんだ、ガスライティングってのは。
「具体的には、どんなものなのかな?」
立場上、しっかりと把握しておきたいのだろう。
エステラが恐怖の滲む表情で俺に問う。
具体例か。
ガスライティングにもいくつか種類がある。
共通しているのは、ターゲットに「間違っているのは自分の方だ」と思わせるってところなんだが……
「たとえば、彼女に暴力を振るう男が『俺が暴力を振るうのは、お前が俺を怒らせたからだ』と言う。それが続けば、彼女の方は『怒らせないようにしよう』という思考を持ってしまう」
正しく判断するなら、彼氏の方に『暴力をやめさせる』よう働きかけるべきなのだが、自分の方が間違っていると思い込まされた彼女は自分を変えようとしてしまう。
相手の滅茶苦茶な理論を鵜呑みにしてしまうのだ。
それが行き過ぎると、「本当は優しい人」だとか「あの人を理解してあげられるのは私だけ」って洗脳状態に陥ってしまう。
これらも、自分に否定的な意見を聞かされ続けた結果、自分の意見よりも相手の意見の方が正しいのだと思い込んでしまうというガスライティングの一種だ。
「そんなこと、可能なのかい? だって、明らかにおかしいことを言っているんだよね? それで、自分が間違っているなんて、思うかな?」
まぁ、普通はそう思うわな。
ガスライティングやマインドコントロールの話を聞くと、「嘘だろ?」というようなことが多い。
だが、それらは決して嘘でも大袈裟でもなく、実際に起こっていることなのだ。
要するに、『人間』は世の一般人が思っている以上に騙されやすい生き物なのだ。
試しに……
「ベッコ、ちょっと大変な実験だが、協力してくれるか?」
「拙者でよければなんなり申し付けてくだされ!」
と、ここで言葉を止め、眉間にしわを寄せる。
俺の表情の変化に、ベッコが微かに訝しむ様子を見せる。
「……いや、まぁ、イヤなら断ってくれていいんだけどさ」
「いやいや。何をするかは分からんでござるが、拙者に出来ることであれば、協力は惜しまぬでござるよ」
ベッコの言葉のあと視線を逸らし、吐き捨てるようにボソッと呟く。
「そんな嫌そうな顔で言われてもな……」
「嫌そうな顔などしてござらぬよ。これが拙者の素の顔でござる」
「…………」
沈黙。
「…………あの、ヤシロ氏?」
「ん……っと、じゃあ、報酬を出せばやってくれるか?」
「いやいやいや! 報酬など無用でござるよ! ぜひ協力させてもらうでござる!」
「はぁ……じゃあ、なんでそんな顔すんのかなぁ……」
盛大にため息を吐き、髪をかきむしって、顔を背けて独り言ちたところで、ベッコが動いた。
「み、みなさん! 拙者、そんな嫌そうな顔をしてござるか!? 普通でござろう? それとも、本当に……!?」
自分の顔を手で覆い、頬の筋肉を乱暴に引っ張り始めるベッコ。
ぅわ、ヤバいヤバい!
これ以上は危険だ。
「そこまでだ、ベッコ! 実験終わり!」
「まだ始まってござらぬ! 拙者、誠に協力したいと心から――!」
「分かってる! 今のがガスライティングなんだよ!」
「…………は?」
まさかここまで分かりやすく心をすり減らすとは……ピュアか!?
……うん。しばらくは心のケアを行ってやらないとな。
「見てたか? ベッコは普通の顔をしていたな?」
一部始終を見ていた者たちに問う。
しかし、誰も返事を寄越さなかった。
「いや、確かに、普通というにはちょっと抵抗を感じるくらいに面白い顔をしているけれども、ベッコはこの面白い顔が普通だから」
「違うよ! そこに引っかかって答えられなかったわけじゃないんだよ、ボクたちは!?」
ベッコの顔を「普通」と言うことで『精霊の審判』に引っかかるという危惧からの黙秘ではなかったようだ。
「途中から、ヤシロのしたいことに気が付いてベッコを観察していたんだけれど……効果がすご過ぎて、圧倒されてしまったんだよ」
「それには俺もちょっと驚いている」
本当は、ちょっと自信をなくして「そんなことないでござるよね?」ってウーマロあたりに尋ねるくらいかなと思っていたのだが……ここまで取り乱すとはな。
「おそらく、俺とベッコが『仲良し』だから、余計に取り乱したんだろうな」
「ヤシロ。『仲良し』は、そんなひん曲がったしかめっ面で発する言葉じゃないよ」
真実がどうあれ、ベッコは俺に友好的な感情を抱いているように見受けられる。
その縁や交流が断たれるかもしれないと思った時の焦りは相当なものだ。
「たとえばエステラ。お前がジネットに『臭いです、近寄らないでください』って言われて『そんなことないよ! 臭いわけがない!』って反論できるか?」
「無理だね。ジネットちゃんに嫌われるくらいなら、すぐにでも館に戻って湯浴みをするよ」
このように、壊したくない関係がそこにあれば、人は平気で自分を疑う。
「さっきの例だと、『嫌そうな顔をしろ』ってのは簡単だが、『嫌そうな顔をするな』ってのは難しいんだ」
『やらない』というのは、意識して実行しにくいものなのだ。カメラを向けられて「自然にしててください」と言われるのが一番困るように。
「ベッコは、絶対嫌そうな顔なんかしていないって自信があったが、何度も注意されてその自信が揺らいだ。『これから実験する』と言った直後だったのに」
これがもっと巧妙になれば……大抵の人間は容易にハメられる。
「もし俺が、本気でベッコを潰そうとしている人間だったら、ベッコは一週間もしないうちに人前に姿を現さなくなる。さらに言えば……『拙者はどう行動すればいいのでござろうか』と、俺の言うことだけを信じて実行する操り人形にだって出来てしまう。それが、ガスライティングだ」
一同の顔色が一気に悪くなる。
洗脳やマインドコントロールの足掛かりになるのが、このガスライティングだ。
相手の自信や信念を崩壊させ、「自分が間違っている」と信じ込ませる。
そうなった人間は、自分の間違いに気付かせてくれた『自分よりもすごい人』の言うことを鵜呑みにしてしまう。
「これが、ガスライティングの『基礎』だ」
エステラが思わず立ち上がり、半歩後ずさった。
水音が騒がしく響き、風呂の湯が揺れる。
「これが……基礎? じゃあ、まだ上があるのかい?」
「あぁ。ウーマロがやられたのは、こいつの応用だからな」
お前ら、よく聞いておけ。
そして、知識として知っておくのだ。
世の中には、こんなにも恐ろしい精神攻撃の方法があるってことを。
そして、それはこんなにも簡単で……
すげぇ身近でも、起こり得るってことをな。
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