コーヒー豆を焙煎して、ミルで挽きます。
少々賑やかな音が、なんだか心を穏やかにしてくれます。
お祖父さんがいたころ、よく耳にした音。
子供の頃、不思議な音に目を覚まし、音の出所をたどって厨房に来たわたしは、香ばしいコーヒーの匂いと穏やかなお祖父さんの笑顔に迎え入れられたんです。
「やぁ、起こしてしまったか?」
そう言って抱きしめてくれたお祖父さんの体からはコーヒーの香りがして、とてもいい匂いだと思ったんです。
まさか、それがあんなに苦い飲み物だとは知りませんでしたけれど。……ふふ。
香ばしい匂いが厨房に立ちこめ、少し昔のことを思い出してしまいました。
去年も一昨年も、この日は一人で泣いてしまったんですよね。
この懐かしい香りに。
この懐かしい音に。
お祖父さんのことを思い出してしまって、どうしようもないくらいに寂しくなって。
あの時、もっと適切に処置が出来ていれば。
もっと他に出来たことがあるんじゃないのか。
買い出しになど行かなくても、メニューを調整すればどうとでも……今ならそれが可能だからこそ、余計にそのようなことを考えてしまうんです。
あの時にわたしは、本当に何も出来なくて……
「…………」
ミルを回す手が止まりました。
いけません。
お祖父さんが言っていたじゃないですか。
「コーヒーは笑って挽かなければいけないよ。怒りながら挽けば苦みが、泣きながら挽けば酸味が増してしまうからね」――と。
「美味しくな~れ。美味しくな~れ」
ミルの中のコーヒー豆に語りかけ、丁寧にハンドルを回します。
ほんの少しだけ音が変わったように感じるのは、気のせいでしょうか?
お祖父さん。
今年はわたし、泣きませんよ。
あのね。
わたし、今幸せなんです。
ヤシロさんがいて、マグダさんがいて、ロレッタさんがいて。
エステラさんやデリアさんたちが頻繁に会いに来てくださって。
ちっとも寂しいなんて感じないんです。
『なら、もっと笑ってごらん。お前の笑顔を、もっと見せておくれ』
ふと、お祖父さんの声が聞こえた気がしました。
わたしが失敗をする度に、「大丈夫」「問題ない」って、大きな手で頭を撫でてくれたお祖父さんの声が。
常連のお客さんにコーヒーを持っていく途中で盛大に転び、コーヒーを床にぶち撒け、カップを割ってしまった八歳のわたしに、お祖父さんは叱るでも甘やかすでもなくこう言ったんです。
「今お前が最初にやるべきことは、その泣きべそを笑顔に変えて、お客さんに新しい美味しいコーヒーを持っていってあげることだ。床の掃除はワシがやろう。こういうのを分担作業というんだ。プロっぽいだろう?」
そんなことを言って、シワを深くしてくしゃって笑って。
また同じ過ちを繰り返すかもしれないと言うわたしには――
「また失敗するかもしれないし、もう失敗しないかもしれない。ただ、一度失敗したお前は、失敗を知らなかった時のお前よりも成長をしている。心は、傷付いたり満たされたりすることで成長していくんだ。さぁ、自分の成長を確かめるチャンスだ」
――そう言って背中を押してくれました。
そして。
「なぁに、仮にまた失敗したなら、もう一度新しいコーヒーを淹れて、もう一度床の掃除をすればいいだけさ」
と、笑っていました。
「……くす」
この日に、お祖父さんのことを思い出して笑ったのは初めてですね。
不思議です。
お祖父さんの性格を思えば、めそめそしているよりもこうして笑っている方がいいと、その方がお祖父さんが喜ぶと分かるのに、去年までのわたしはそれが出来なかったんですね。
「よかったです。この日に、お祖父さんの思い出で笑えて」
いつもより丁寧にコーヒーを淹れて、おそらく近年稀に見る会心の出来であろうコーヒーをカップへ注ぎます。
ヤシロさんにお出ししても恥ずかしくない、一番の出来映えです。
そう意気込んで厨房を出ると――厨房を出る直前にお祖父さんの声が聞こえました。
『おいおい。ワシに淹れる時よりも張り切り具合が違い過ぎやしないか?』
……そんなことは、ありません、よ?
ほら、お祖父さんの分のコーヒーもありますし……も、もう。いいじゃないですか。子供みたいに拗ねないでください、もう。
薄っすらと熱を帯びた頬を膨らませて厨房を出ると、耳の奥で『あっはっはっ』と、お祖父さんの笑い声が聞こえました。
……もう。
厨房を出ると、ヤシロさんがいつもの席で眠っていました。
テーブルに突っ伏して、すぅすぅと静かな寝息を立てています。
もう少し寝かせてあげたいのですが、コーヒーが冷めてしまいますし、こんなところで眠っていては風邪を引いてしまいかねません。
「ヤシロさん」
そっと肩を揺すり、ヤシロさんを起こします。
もし、まだ眠たいようでしたら、お部屋に戻って休んでもらいましょう。
「まだ眠いですか?」
「いや、平気だ。すまん」
「いいえ。コーヒー、淹れましたよ」
眠そうに目を擦りながら、ヤシロさんが体を起こします。
本当は眠たいのでしょうが、きっとわたしに付き合ってくださるのでしょう。
今はその厚意に、素直に甘えます。
どうしても、今日はヤシロさんと一緒にコーヒーをいただきたかったので。
「失礼します」
ヤシロさんの隣に座ると、なんだかいつもよりも距離が近いような気がしました。
向かいに、お祖父さんの席を設けたからでしょうか。なんだか、照れます。
「飲んでいいのか? それとも、祈りを捧げたりするのか?」
「え?」
きっとヤシロさんは、何もかもをわたしに合わせてくださるつもりなのでしょう。
今日が、わたしにとって特別な日であることを知って。
「あ、どうぞ。召し上がってください。冷めてしまいますから」
「そっか。……じゃ」
短い言葉と共にヤシロさんがカップを持ち上げて、お祖父さんの席へ――お祖父さんに向かって目礼をしてくださいました。
「あ……」
会ったこともないお祖父さんに対し、ヤシロさんは最大限の敬意を払ってくださいました。
それは、形式ばったものでも、不承不承にでもなく、とても自然な感じで。
わたしの大切な思い出を、とても大切にしてくれる。
そう思うと、胸が熱くなりました。
ヤシロさんはやはり……優しい方です。
その理由を、ヤシロさんはこう語りました。
「この陽だまり亭を作った人なんだろ? そりゃ、敬意くらい払うさ」
さも当然のことのように。
そうするのが当たり前のように。
疑いもなく、疑問も持たずに。
「ありがとうございます」
嬉しくて……
泣きそうになるのをグッと堪えました。
今日は、泣かないと決めましたから。
代わりに、こんな冗談を言ってしまいましたけれど。
「ヤシロさん、オバケは怖いのに、故人の魂には敬意を払ってくださるんですね」
「うるせっ」
そして、わたしの胸の内にひとつの思いが湧き上がってきたんです。
ヤシロさんに、知ってもらいたい。
敬意を払ってくださったヤシロさんにだからこそ、お祖父さんのことを。
そして、陽だまり亭でのお祖父さんと、わたしの過ごした時間のことを。
「少しだけ長くなるかもしれないのですが…………お祖父さんのお話を、聞いていただけますか?」
「あぁ、聞かせてくれ」
今思い出しても悲しくなる、お祖父さんの最期の姿。
わたしが陽だまり亭に迎え入れられ、そして再び独りぼっちになってしまうまでのことを、拙いながらに、わたしは語りました。
ヤシロさんはずっと、静かに聞いていてくださいました。
前を向いていたせいで顔も見えず、わたしばかりがしゃべるせいで声も聞こえませんでしたが、話をしている間、わたしは確かにヤシロさんの存在を感じていました。
温もりが、そこにありました。
わたしは伝えたかったんです。
あの大会の日に、たった一人で矢面に立ったヤシロさんに。
誰といても、ふとした瞬間にどこか遠くを見ているヤシロさんに。
ご自身のことを『他所者』だなんておっしゃったヤシロさんに。
わたしは、知ってほしかったんです。
独りぼっちだったわたしは、あなたに救われたのだということを。
こうしてきちんとお祖父さんの死と向き合えたのは、あなたがそばにいてくれたからだということを。
あなたは『他所者』なんかじゃない。
あなたは、わたしの――
「え……きゃっ」
突然、ヤシロさんの腕が伸び、ヤシロさんの胸に抱き寄せられました。
椅子ががたんと音を立て、わたしはバランスを崩しヤシロさんに体重を預ける格好になり……それでも、強く抱きしめられ……身を、委ねました。
「……ヤシロ、さん?」
ただ、戸惑いは、しています。
鼓動が徐々に速くなり、顏が熱を帯びます。
緊張……します。
「お前が……泣きそうだったから」
その言葉に、変な緊張は薄れ、代わりに――
「わたしは、大丈夫ですよ?」
――守りたい。そんな気持ちが湧いてきました。
シスターが言っていました。
人の顔は、自分の心を映し出す時があると。
同じ人の同じ表情でも、こちらが嬉しい時は笑顔に、悲しい時は泣き顔に、不機嫌な時は怒り顔に見えることがあるのだと。
だとすれば、ヤシロさんは今……
「もう少しだけ……このままで」
寂しい……ん、ですね?
「……はい」
少し体勢を戻し、ヤシロさんの背に腕を回します。
そっと、ゆっくりと、その背を撫でます。
「大丈夫ですよ……」
そう、大丈夫です。
去年までの泣き虫な自分に言い聞かせるように。
そして、腕の中にある大切な温もりにしっかりと届くように。
わたしは、勇気をくれる魔法の言葉を囁きます。
「もう、一人じゃないですから……」
ここは陽だまり亭。
いつもここにあり、いつまでもここにあって、温かい安らぎを与えてくれる。
いつか、わたしの心があなたの心に今よりももう少しだけでも寄り添うことが出来たなら、その時は是非こう伝えたいです。
あなたは『他所者』などではなく、わたしの『家族』です――と。
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