教会まで共に歩き、帰路に就くヤシロさんを見送って、私は息を吐きました。
はぁ……
ドキドキ、しました。
「……口調、認めてしまいましたね」
懸命に敬語を頑張ろうとするヤシロさんは、なかなか可愛いものがあったのですが、それ以上に、もっと普通に、素直なヤシロさんの言葉で、私に話しかけてほしい――そう思ってしまったんです。
悪意がなく、イヤミがないというのも事実ですよ?
でも、それ以上に――
ヤシロさんは、ヤシロさんのままでいてほしい。
そんな思いが勝ってしまったのでしょうね。
いけませんね、私。子供たちがマネをしたらどうしましょうか?
きっとマネするでしょうね。みんな、ヤシロさんが大好きですから。
「私も……」
言いかけて、はっと息をのみました。
今、何を言いかけましたか、私?
気をしっかり持ってください。
「……いけませんね」
いまだに足元がふわふわと覚束なく、胸がそわそわと落ち着きません。
少し、はしゃぎ過ぎたでしょうか。
お誘いを受けた時なんて、お掃除の途中だというのに掃除道具を片付けに行ってしまったり……あぁ、あの時私は走ってしまっていたような……うぅ、はしたないと思われていないでしょうか……
「あぁ……どうして私はいつもこう…………」
言いかけて、自分が言おうとした言葉に、自分自身でドキッとしてしまい……周りに誰もいないことを確認してから、こそっと声に出してみました。
「……好きなもののこととなると、節度が守れないのでしょうか?」
言葉にして、自分の耳で聞いて、……自分で照れてしまいました。
何を言っているんでしょう、私は。まったく……浮かれ過ぎです。
けれど、嬉しかったんです。
「少し、ベルティーナさんにお願いしたいことがありましてね」
そう言って、会いに来てくれたことが。
なんとなく、ヤシロさんと一緒にいる時間は、特別なような気がして――とても、好ましいのです。
「母として……」
最初はそのつもりでした。
私の周りにいてくれる、たくさんの子供たちの一人。
大切な娘、ジネットを守ってくれる、ちょっとヤンチャでエッチな、困った男の子。でもとても優しくて、責任感が強くて、傷付きやすい繊細な子。
「どうしても、気にかけてしまうのですよね。ヤシロさんは……とても危うくて」
誰よりも強そうに見えて、誰よりも弱い部分を必死に隠している。
ヤシロさんが笑顔を見せてくれる回数は格段に増えましたが、ひた隠している弱い部分は相変わらずその影を色濃く感じさせたままです。
笑顔の時間が長くなればなるほど、正と負の感情が乖離していくようで……とても不安な気持ちにさせられます。
このままでは、いつかヤシロさんの心は限界を迎えてしまうのではないか――と。
出来ることなら、彼の心に干渉してしまいたい。
何を悩んでいるのですかと問い質し、洗いざらい話して聞かせてほしい。
そして、出来ることならそばに寄り添い、その不安が取り除かれるまで癒しと、安寧と、愛情を注いであげたい。
けれど、それは越権行為です。
私の踏み入っていい領域ではありません。
母としても、甘え上手な娘という立場でも、その領域に触れることは許されません。
それが出来るとすれば、唯一……
「私が、ヤシロさんの特別な存在になれれば、あるいはそれも可能なのでしょうが……」
…………
…………
…………
…………いえ、言ってみただけですよ?
「……こほん。………………今日は、少し暑いですね」
そのようなことは望みません。
そして、決して口外は致しません。
ただ、ほんの少しだけ……それが許されるのであれば――
彼と対等な立場で接することが出来れば、きっとまた違う幸せを感じることが出来るのでしょうね。――そんな夢のような想像に胸を高鳴らせるくらいは、しても構わないでしょうか。
「私を、頼ってくれたんですね……」
彼はまた、この街を、私たちを救うために戦いの場へ赴こうとしています。
心身を酷使し、傷付き、くたくたになりながらも、この街に住むみんなのためにその身一つで戦場へ赴こうとしているのです。
そんな時に、私を必要としてくれた。
これが、どんなに嬉しいことか。
……ふふ。あんなに泣きそうな顔をして、不安そうに……うふふ、いけませんね。笑っては可哀想ですね。でも……ふふ、泣きそうなヤシロさんが、可愛らしくて。
あぁ、やっぱりダメでしたね。
予想通りでした。
以前、私が腹痛で寝込んでしまった時に、ジネットとこんな会話をしていたのです。
もしヤシロさんが、教会の子供たちのように大きな声を上げて泣いていたら、可愛過ぎて抱きしめてしまうでしょうねと。
その通りになってしまいました。
抱きしめずにはいられませんでした。
「……少し、大胆だったでしょうか?」
自身の胸に手を当て、今さらながらに頬が温度を上げます。
いえ、あの時も、この胸の中にヤシロさんの頭が埋もれていた時も……いえ、『埋もれていた』は適切な表現ではありませんね。訂正します。この胸の内にヤシロさんの頭が存在した時も、です。
その時も、実は少し……いえ、結構……かなり、緊張していました。
幼い子をあやす時には、全身を包み込むように抱きしめ、肌の温もりと、心臓の鼓動を感じさせると落ち着いてくれます。
特に、孤独故に強がっている跳ねっかえりな男の子は、そういった愛情の注がれ方に慣れておらず、同時に飢えています。
心臓は心の入り口です。
人の、最も弱い部分です。
そこをさらけ出すことで、安心感を相手に与えられるのだと、私は思っています。
そうして、私は幾人の子供たちを受け入れ、慰め、笑顔を分け与えてこられたと自負しています。
ですが、ヤシロさんは成人した男性です。
表情や発言が、時折教会の子供たちと似通っていることはあっても、れっきとした大人の男性です。
……特に、ヤシロさんは、その……とても、お好きですし、……その、つまり、女性の胸が。
「で、でも、ちゃんと泣き止んでくれましたし」
自分自身に言い訳をします。
正当化します。
擁護します。
私は間違っていないと、そう思わなければ……恥ずかしくて、今夜眠れなくなってしまいそうです。
「……鼓動が速まっていることに、気付かれていなければいいのですが」
あれだけのことをしておきながら、実は緊張していただなんて、母としての面目丸潰れもいいところです。
子供たちと同じことをしたまでです。
夜、怖い夢を見て泣き出した子をあやすのと同じことです。
母として、それは当然のことなのです。
でも、今日はちょっと浮かれて、対等な立場で接していた部分も……
だとしたら、今日の私の行為は、まるで……
「いえ、そんなことはありません!」
おかしな想像をしかけた思考を断ち切るために声を出しました。
間に合いました。
危なかったです。
……落ち着きなさい、ベルティーナ。
あなたはシスターであり、みんなの母なのですよ。
アルヴィスタンである自覚を失ってはいけませんよ。
……ふぅ。もう大丈夫です。
ヤシロさんにしたって、私に何をされようと、どうと思うようなことはないはずですし……
『母親なら、おっぱいの一つでも吸わせてもらいたいもんだな』
「……ふみゅぅっ」
不意に、ヤシロさんの声が耳の奥で蘇り、おかしな声が漏れてしまいました。
もう。もうもう。ヤシロさんはっ。
どうして、こんなタイミングでそんなことを思い出させるんですか。もう。
先ほどは、泣きそうだった顏が柔らかく変化したことが嬉しくて、きちんと注意できませんでしたけれど……
「懺悔してください」
もう見えなくなった背中に向かって、一言物申しておきました。
八つ当たりですけれども。
「さて。お掃除の続きをしましょうかね」
子供たちの笑顔を守るために、私に出来ることがある。
頼ってくれたヤシロさんの期待に応える術がある。
母でも娘でもなく、対等な――
一人のベルティーナとして彼の前に立てる瞬間がある。
そんなことが、嬉しく思えて、私はまたふわふわと雲を踏むように駆け出してしまうのでした。
今日の私の言動が、ヤシロさんの目に変な風に映っていなければいいななんて、ちょっとした不安を抱きながら。
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