沼から上がると、エステラが這うようにして近付いてきた。
「だ、大丈夫だったかい?」
「おう。そっちは?」
「ボクらは、何もされてないけど」
「ウチらもや」
「ともかく、ご無事で何よりです」
ナタリアがタオルを差し出してくれるが、それは辞退しておく。
俺としては、ここの泥を持ち出したところで害はないんじゃないかと思い始めているが、確証を得られない以上、今日はここで泥の付いた衣類を焼却していくことになる。
燃やす物は少ない方がいい。
まだまだ綺麗なタオルだしな。
「ねぇ、レジーナ。あの花、持ってきちゃってよかったのかい?」
「大丈夫や。このケースは完全密封されとって、どんな小さな胞子かて漏らさへん」
レジーナは、沼に咲いていた細菌兵器を四角いケースに入れて持ち帰ってきた。
謎のぬめぬめの膜と一緒に。
「これの解毒薬の作り方は知っとるし、先に特効薬作ってから調査するさかい心配いらんで。もちろん、外に漏らすようなヘマはせぇへん」
「まぁ、君が大丈夫って言うなら信じられるけどさ……」
少し不安そうな顔をして、エステラがレジーナに真剣な瞳を向ける。
「変な責任を感じて無茶をしようとしてるんなら、そんな必要はないからね」
自分のせいで生み出されてしまった。そんな負い目を感じて、危険を承知の上で危ない研究をしようとしているなら、そんなことはやめろと、エステラは泣きそうな瞳で訴える。
それにはレジーナも驚いたようで、くすぐったそうに顔をくしゃっと笑みの形に変化させた。
「大丈夫や。探究心は学者の性やさかい、誰にも止められへんだけや」
変な使命感や負い目は感じていないようだ。
その顔と言葉は信用していいだろう。
エステラも同じように感じたようで、ほっと息を漏らす。
「なら、いいよ。好きなだけ研究するといい」
「そうするわ。で、成果が出たら新しい薬に活用させてもらうわ」
「そうだね。人を助ける薬を毒に改悪されたなら、その毒をもっともっと人を救えるすごい薬に変えてやればいいよ。そうすれば、レジーナの勝ちだから」
成果を横取りされ、悪用され、意思に反するものを生み出された。
ならば、その相手の意思に反するものを、相手の成果物を改造して作ってやれと。
確かにそこでひっくり返せればレジーナの完全勝利だな。
「あははっ! そんな発想、したことあらへんかったわ」
「おもろいなぁ~、領主はん」と、目元を隠して笑うレジーナ。
あぁ、そうか、嬉しかったのか。
よかったな、気の合う友人が出来てよ。そいつ、お人好しだから割とどんなわがままも聞いてくれるぞ。
あははと、明るく笑いながら俺たちに背を向けるレジーナ。
俺はエステラと視線を交わして、肩をすくめる。しばらくそっとしといてやるか。
「少しよろしいですか、ヤシロ様?」
レジーナの泣き止み待ちの間、ナタリアが俺に話しかけてくる。
レジーナに気を遣って、間を繋ぐつもりなのだろう。
「レジーナさんの泣き止み待ちの間に、ちょっとお話が」
「気を遣ってあげなよ、ナタリア!?」
「いや、めっちゃ泣いてるんで。普段とのギャップが面白くて」
「泥でどろどろのパンツ、顔に投げつけたろかぃな、ホンマ……」
耳を真っ赤にして、レジーナが恨めしそうにナタリアを睨む。
とりあえず、泥を洗い落とした後でこっちに頼む。いや、さすがに泥は嫌だな~って。
「あれだけいたカエルの形跡が見つからないのです」
言って、ナタリアは沼の縁を指さす。
先ほどまで無数のカエルが立っていた場所。
よく見ると、というか『よく見ても』カエルの足跡は発見できなかった。
沼から出てきたなら泥で汚れた足跡が付いてもよさそうなもんだが。
「エステラ。あのカエルはどこから出てきた?」
「それが分からないんだよ。君たちの前にカエルが急に現れて、そっちに意識を奪われている間に……本当に、いつの間にあんなに出てきたんだろう?」
なんか、イリュージョンでも見せられている気分だ。
そこになかったモノが一瞬で出現して、ちょっと目を離した隙に全部いなくなっていた。
「それにしても……本当にいたんだね、服を着たカエル」
「私も驚きました」
エステラたちもしっかりと目撃したようだ。
「たぶん、アイツが群れを統率している者なんだろうな」
カエルの王様ってところかな。
「沼ん中にも、あんだけのカエルが隠れられそうな穴はあらへんのやろうね、きっと」
「一応、棒で沼の底を突いて確認しましたが、あれだけのカエルが一斉に飛び込んで、一斉に姿を隠せるような場所はありませんでした」
沼を取り囲んでいたカエルたちは一斉に沼に飛び込んだらしく、その直後にナタリアが深さを測るための棒で沼の底を突っつき回したらしいが、カエルがどこへ消えたのかは分からなかったようだ。
「ヤシロの意見を考慮する必要がありそうだね」
「領民一斉ビキニデーの導入か?」
「違う!」
「ぺったんこ税の導入かいな?」
「なんで税金まで取られなきゃいけないのさ!? むしろ大きさに準じて課税したいくらい…………誰がぺったんこだ!?」
いや、今のはお前の自爆だろ。
「では、エステラ様。こちらの書類にサインを」
「へ? なんの書類?」
「ナタリアちゃん生誕祭開催の許可証です」
「誰の意見にも出てなかったよね、コレ!?」
「待て、エステラ。その生誕祭、ナタリアの家で『普段の寝間着』を着て行うパジャマパーティー形式なら一考の価値が――」
「沼へ帰れ!」
ひでぇ。
俺、沼出身じゃねぇのに。
ナタリアん家のパジャマパーティー、参加したいなぁ。
「そうじゃなくて、カエルには何か魔法的な力が関与しているかもしれないって可能性さ」
まぁ、目の前で人智を超える不思議現象が起こったら、そう思っちまうわな。
三十区の下にある崖は、そのまままっすぐ街門の外まで延びて、港の洞窟に繋がっている。
洞窟内に出現した破壊できない謎壁は、やはりカエルに関連する場所なんじゃないだろうか。
服を着たカエルが今ここでやったように、岩壁の中にカエルは出入り出来る可能性がある。
気付かないうちに突然出現するってのも似てるしな。
「精霊神かどうかは置いておき――何者かが、俺らの想像が及ばない力で何かをしでかした可能性は十分考えられるよな?」
「可能性というか……もうそれしかないような気になってきたよ」
調査をしても何も見つからず、かと思えば目の前で信じられないような事態が巻き起こった。
「何か出てこい!」「いや、出てき過ぎ!」というように、脳が両極端に針を振り切った結果、「じゃあもう全部超常現象のせいってことで」と思考を放棄してしまうことはままある。
今のエステラがそんな感じなんだろう。
「じゃあ、洞窟にいたのは、やっぱりカエルだったのかな?」
「その可能性が高いな。今みたいに様子を見に来たんだろう。外で騒がしくしているから」
ヤツらが住んでいるのはこの崖の中。
もしくは、またとんでもない魔法的な力で異次元だの異空間だのって不思議空間かもしれんが、とにかくあの崖から出入りできるどこかに潜んでいる。
その住処のすぐ近くで人間がわーわーぎゃーぎゃーと騒がしくしている。
「一体何をやってんだ?」とちょこっと顔を覗かせた時、たまたま目撃されてしまった。
そんなことだって、十分あり得るだろう。
「とにかく、ボクたちが思う以上にカエルは知性的で、組織立っているということは理解したよ。……これは、認識の改革が必要かもね」
あははと、乾いた笑いを漏らし、エステラは項垂れる。
常識が覆る瞬間ってのは、喪失感にも似た疲労を感じるものだ。
徐々に慣れていくしかないさ。
「はぁ……説明、どうしよう」
洞窟内にカエルが出た可能性が高いとなると、ウィシャートへの説明が厄介になる。
「まぁ、何かうまい言い訳を考えるさ」
幸い、締め切りはないんだからな。
何かいい案が思いついた時に出かけていって納得させてやればいい。
まぁ、港の工事はさっさと再開させなきゃだけどな。
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