コンコン――
ノックの後、扉の向こうから声が聞こえてくる。
『……入れ』
弱々しい声。
来訪者がボクであると分かっていなければ側仕えが代返していたことだろう。
「失礼します」
明朗な声で言って、扉を開く。
埃が舞わぬように極限まで掃除された室内は、少し消毒の匂いがした。
最小限の人間しか入ることを許されない領主の部屋。
窓際の大きなベッドにやせ細った男性が横になっている。
現四十二区領主、オルトヴィーン・クレアモナ。
ボクの父親だ。
「お父様。農業ギルドから新鮮な野菜をもらいました」
農業ギルドから受け取ったばかりの野菜を箱いっぱいに詰めて、それをお父様に見えるように掲げる。
ベッドに横になったまま、お父様は目を細めた。
……バレているのだろうか。
しかし、だからと言ってここでやめるわけにはいかない。
「今月は野菜の質がいいそうで、見てくださいこのニンジンを。こんなに太くて色も鮮やかなんです」
「……そうか」
喉を通る息がかすれた音を鳴らす。
お父様は、数年前に四十二区を襲った流行り病に感染し、今もって完治していない。
体は日に日に衰弱していくばかりだ。
表舞台には、もう一年近くも立てていない。
……だからこそ、ボクがしっかりしなくては。
「料理長に渡しておきます。たくさん食べて精を付けてくださいね。領民は皆、お父様の壮健な姿を心待ちにしているのですから」
暗くならないように気を付けて、笑顔で話を終える。
親子と言えど、お父様との面会は時間が限られている。無駄に体力を消耗させるのは危険なのだ。
「……エステラ」
部屋を辞そうとしたボクに、弱々しい声がかかる。
扉の前で振り返ると、お父様は顔だけをこちらに向けて、カサカサに乾いた唇を動かした。
「……苦労を、かける」
ぐっと、ノドが詰まった。
つらいですと、弱音を吐いてお父様の胸に飛び込みたい衝動に駆られる。
怖いですと、寂しいですと、不安で仕方がないですと。
けれど、ボクは領主代行だから――
「とんでもありません。給仕たちもよく働いてくれていますし、領民も皆好意的ですから何も問題などありませんよ」
嘘ではない。
嘘ではないけれど、真実でもない。
それでも、ボクはお父様の不安を一つでも多く取り除く必要があるのだ。
この街には、まだあなたが――こんな半人前の小娘ではなく、頼れる領主が必要なのだから。
「お父様が作り、守り抜いてきた四十二区は他区に引けを取らない素晴らしい街です。ボクは随分と楽をさせてもらっていますよ」
完璧な笑顔だったと思う。
どんな心境の時でも完璧な笑みを顔に張りつけられる。
ボクが習得した、貴族らしい能力の一つ。……決して、誇れる気はしないけれど。
「……そうか」
それだけ言うと、お父様は枕に頭を落とした。
また、かすれた音が喉から漏れ、それ以外の音が聞こえなくなった。
ボクは深く頭を下げ、埃を巻き上げないよう気を付けて、静かに部屋を出た。
「……はぁ」
扉を閉めると、少しだけ気が緩んだ。
ため息なんて、よくないな。
「お嬢様」
給仕長のナタリアがボクの元へとやって来る。
クレアモナ家の給仕長だから、本来ならお父様に付き従いその腕を振るうべき人物なのだが、彼女はボクが幼いころからずっとボクの面倒を見てきてくれている。
そういう理由もあって、ナタリアはクレアモナ家の給仕長でありながら、領主ではなく領主代行のボクに付き従ってくれている。
「ナタリア、これを料理長に渡してくれるかい。お父様に精の付く料理を頼むと」
「かしこまりました」
恭しく礼をして、ボクから野菜の入った木箱を受け取ると、微かに眉根を寄せる。
「……こんなに。また、随分と無理をしましたね」
ナタリアにはすべて見透かされているようだ。
「お父様に必要なのは静養と栄養だからね。孝行娘としては、これくらい奮発はするさ」
そう。この野菜の大半は、ボクが自腹で購入したものだ。
中には、本当に農業ギルドからもらったものも含まれているが、どれもやせ細っていて、お父様の目には触れさせないようにしていた。
「このニンジンは見事だろう? モーマットがこれだけは自信があるって言ってたんだ」
「また、現物で納税をお認めになったのですか?」
「まぁ、どこもかしこも苦しい状況だからね」
農業ギルドは行商ギルドに野菜を卸し、その利益から定められたお金を税として領主に支払う義務を負っている。
しかし、行商ギルドが買い取る野菜は質のいい物に限定され、多くの野菜は二束三文にもならない。
当然、納めるべき税にも困り、なんとか現物を税金の代わりにしてほしいという嘆願を受ける。
よくあることだ。
農業ギルドに限ったことではない。
「悪意ある踏み倒しではないのだから、寛大な心で受け入れてあげるべきではないのかな?」
「寛大過ぎると、申し上げたいのです」
ナタリアの声音は変わらない。
小さい時からよくお説教されてきたけれど、この年齢になってもそれは変わらない。
「行商ギルドが買い取りを拒否したやせた野菜など、どこも買い取ってはくれません。すなわちお金には代えられないのですよ?」
「でも、野菜は食べられるからいいじゃないか。野菜を買う必要がないのだから、支出が抑えられているわけだよ」
「支出を抑える前に、収入がなくなっては破綻してしまいます」
それは、分かっているんだ。ボクだってね。
けれど、無い袖はどうやったって振れないじゃないか。
農業ギルドを責めるわけにも、責任を取らせるわけにもいかないじゃないか。
「大らかな人が多いのが、我が四十二区の美徳だよ」
「最も大らかなのは領主一族です。……まったく。お金に換えられない野菜を大量に引き取ったにもかかわらず、主様にお見せする際の見栄えを整えるために品質のいい野菜を追加で購入するなど……」
「まぁまぁ、いいじゃないか。今はどこもギリギリの状況なんだ。少しでも無理が出来る人が無理をすれば、どこかに余裕が生まれるはずさ。その余裕を活用してまた別の場所に余裕を生み出していけば、ゆくゆくは街全体が余裕のある素晴らしい街に変わることだろう」
「理想論ですけれどね、それは」
……分かってるよ。
そんなに甘くはない。
痛感しているさ。領主代行として施政に携われば携わるほど、この街の悲惨な状況と己の無力さを痛感させられる。
なんとかしたい。
けれど、その思いだけではどうしようもない。
この街を変えるには、ボクの力はあまりに弱過ぎる。
この街を丸ごとひっくり返すような大きな力を、ボクは生み出すことが出来ない。
「もしかしたら、どこかからふらっと現れてくれるかもしれないよ。この閉塞感を打破してくれる、エキセントリックで魅力的なヒーローがさ」
そんな、他人任せな願望を口にしてはいけないのだけれどね、ボクは。
でも、夢に見るくらいはいいじゃないか。
この行き詰まった状況を何もかもうまく打破することなんて――もう、きっと誰にも不可能なんだから。
ボクはいつか、誰かを切り捨てざるを得ないだろう。
街全体を殺さないために、弱っている、救える見込みのない者たちを切り捨てる。
大を生かすために小を見殺しにするのだ。
もう、長く立っていることさえままならなくなった、自身の父親を見捨てるくらいの残忍さで。
……そんなこと、ボクに出来るのだろうか。
もし出来たとして……
それをした後のボクは、今のままのボクでいられるのだろうか。
家族や友人が誇ってくれるような人間で、いられるのだろうか。
いっそ、カエルにでもなってしまえばこの重責からは逃れられるのだろう。
湿地帯にこもって、世間から目を背けて、耳を塞いで、息をひそめて……
……いや、そんなことは出来ないな。
なにせボクは、カエルの耳がどこにあるのかを知らないんだ。
耳が塞げないなら、知らんぷりは出来ないなぁ。
知らんぷりが出来ないなら……
「その時が来れば、ボクが決断を下すよ」
この身を犠牲にしてでも、この街を救ってみせる。
大を生かすために小を切り捨てるしか道がないなら、真っ先に切り捨てるのはちっぽけなボクの命が妥当じゃないか。
「……かしこまりました」
今、ボクはどんな表情をしていたのだろう。
ナタリアはボクの顔を見て、悲し気な表情で一歩身を引いた。
「もう何も申し上げることはございません」という時の、ナタリアの態度だ。
苦労をかけるね、こんな主で。
「さて、それじゃあボクは出かけるから、館のことは頼むよ」
「本日はどちらへ?」
「ちょっと、外の海までね」
懐から領主の許可証を取り出してナタリアに見せる。
これは、海漁ギルドの船に乗って共に漁に参加できるという一度限り効力を発する領主の許可証だ。
「お嬢様が漁を?」
「以前から誘われていてね。旧友と親睦を深めるついでに、少しでもウチの金庫にお金を入れられるように稼いでくるよ」
幼いころから親交がある、海漁ギルドのマーシャ・アシュレイ。
彼女に頼んで、海漁ギルドの漁に同行させてもらえることになった。
期限は今日の午後から明日の明け方まで。
友人の船とはいえ、強制翻訳魔法が効力を失う外の世界へ出るのは不安が大きい。
海には魔獣も出るというし、危険も多い。
それでも、今のボクには、この四十二区にはお金が必要だからね。
稼げるのなら、ボクはなんだってやってやる。
領主代行の名が穢されない範囲でならね。
「お嬢様……」
「ナタリア、お願いだよ」
きっと止めたいのだろう。
けれど、今のボクに出来るのはこれくらいしかなくて、今のボクにはこんなことしか思い浮かばないんだ。
だからせめて、出来ることくらいは全力でやらせてほしい。
「笑って送り出してくれないかな? そうしたら、きっとボクは頑張れるから」
「……かしこまりました」
澄ました顔で礼をして、頭を上げた後、微かに――ナタリアは笑ってくれた。
「ありがとう。行ってくる」
領主の館を出て、乗合馬車に乗って三十五区を目指す。
馬車に揺られながら、そういえばジネットちゃんが海魚を好きだったなと思い出す。
なら、一匹だけお土産に持っていってあげよう。
あとは全部マーシャに換金してもらうけど。
馬車は、すぐに四十二区を出てしまう。
遠ざかっていく四十二区を眺めながら、ボクは夢を見る少女のように精霊神に祈りを捧げた。
もし、願いが叶うのなら、ボクたちを救ってくれるヒーローに出会わせてください。
そんな人が現れたら、ボクは生涯を賭してその人に尽くしたって構わない。
ボクの大切な四十二区を救ってくれるのなら、ね。
間もなく、ボクは一人の男と出会うことになる。
良くも悪くもエキセントリックで、この四十二区を丸ごとひっくり返してしまうようなパワフルな――要注意人物に。
ボクの願いが精霊神に届いたのかどうかは、いまだもって分かってはいないけれど、微かに何かを感じたんだ。彼を見た時に、いや、もっと以前、あの手配書を見た時に。
うまく言葉では言い表せないけれど……ありきたりな言葉になってしまうのを恐れずに言えば、『一筋の希望』――そんなものを、ボクは確かに感じていたんだ。
あの、三割増し悪人面に描かれていた、彼の顔に、ね。
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