「シラハぁ~!」
「は~い。何かしら?」
白馬に乗ってシラハとオルキオがこちらにやって来る。
もう降りない気なんだな、きっと。そんなに嫌か、ほんのちょっと離れるのが。
もう、いいけどよ、馬上でも。
「ニッカが裏方仕事を頑張ってくれたぞ」
「あらあら。ありがとうね、ニッカ」
「い、いえ! これくらい……当然、デスカラ……」
後ろめたさが顔に出てしまうのか、ニッカはシラハから視線を逸らし俯いてしまった。
ま、そうなるだろうなと思ってシラハを呼んだのだが。
さぁ、食いつけシラハ。
お前なら、目の前でこんな反応をされれば食いつかずにはいられないはずだ。
「あら? どうかしたの、ニッカ?」
よし。
そこで、ニッカ。お前は謙虚な発言をするのだ。するよな、お前の性格なら?
「……いえ、なんでもない、デスヨ」
よし。
うんうん。虫人族、すげぇ扱いやすいわ。
「ちょっと疲れちまったんだよ。ずっと走りっぱなしだったから。な?」
ニッカの肩を抱き、俯いた顔を覗き込む。
と、物凄く怖い顔で睨まれた。
「何がしたいんデスカ、お前は!?」と、顔に書いてある。
すべてが思惑通りだ。
何がしたいか?
お前に分からせてやりたいのさ。
まぁ、あとは深く考えず、感じるだけでいい。あるものをあるがまま受け取れ。
ほら、来るぞ。
3……2……1…………
ふぁさ……
「……ふぇ……っ」
シラハの小さな手が、俯いたニッカの頭に載せられる。
柔らかそうな髪を優しく撫でる。髪と一緒にニッカの触角が揺れる。
「あんまり、無理しちゃダメよ。いつもありがとうね、ニッカ」
「…………ぁ………………は、はぃ…………分かった、デス……」
俺を睨んでいた瞳に水の膜が張る。
俺に見られているのが恥ずかしかったのか、ニッカは俺の顔を張り手で押し退ける。
向こうを向こうにも、そちらにはシラハがいて出来ない。
だから、俺を退かせるしかなかった。
分かる。分かるぞ。
……ただ、張り手の威力はちょっとばかり想定外だったけどな。加減、覚えろ。な?
「あら……? ニッカ?」
「大丈夫だ」
俯き、肩を震わせるニッカに、シラハが心配そうな視線を注ぐ。
「こいつは今、初めて経験したんだよ」
「初めて?」
「あぁ。人から想いをもらうってことをな」
それだけで、シラハは何かを感じ、すべてを悟ってくれたようだ。
伊達に年を取っているわけではない。
こいつは、ずっと長い時間、様々な感情の中に身をさらしていた。自分の気持ちを押し殺すことだって少なくなかっただろう。
だからこそ、敏感なんだ。
「そうなの……そうねぇ…………私は今までもらってばかりだったものね。悪かったわ」
「そ、そんなこと……っ!?」
「ありがとうね、ニッカ。私、みんなが大好きよ」
「…………っ!?」
顔を上げ、涙を飛び散らせながら反論しようとして、シラハの笑顔に言葉を奪われるニッカ。
「ニッカのことも、とっても好きよ」
「…………ゎ……」
溢れるほどの想いを載せた言葉を真正面から渡されて、ニッカのいつも見せている取り澄ました表情が崩れた。
ぐしゃぐしゃに歪み、涙と鼻水でびしゃびしゃになって、飾らない、ありのままの、心から発せられた声で叫ぶ。
「分かってるデスヨォッ!」
子供のように大声を上げて泣き、溢れる涙を乱暴にこする。
「知ってるデスヨォ! ずっとずっと、知ってたデスヨォ!」
こいつはソレを知らなかった。
けれど、教わってみたら――なんてことはない。ソレはいつも感じていたものだった。
つまり。
自分は、昔からずっとずっと、ず~っと、愛され続けていたのだと、ニッカは今気が付いたのだ。
「この……温かいの……ワタシ、知ってるデス…………知ってたデス…………ッ」
自身のつむじに置かれたシラハの手を両手で握り、ニッカは嗚咽を漏らして泣き続ける。
シラハは不幸なんかじゃなかった。
自分たちは疎まれてはいなかった。
それどころか、こんなにも大切に思われていた……
言葉にされないと分からないと思っていたことを、ニッカは今、心で感じ取ったのだ。
言葉は嘘吐きだが、心は正直だ。
ニッカみたいな純粋なヤツは、心の方を信じていればいい。
言葉は、俺みたいな詐欺師が最大限有効利用するためのものだからな。
「あらあら、大変……オルキオしゃん」
「うん。行ってあげなさい」
オルキオに断りを入れ、シラハが馬を降りる。
そして、ニッカの前に立つと小さな体を精一杯伸ばして、ニッカの体を抱きしめた。
シラハの手が触れると、ニッカはその場にへたり込み、俯いて……また泣き出した。
蹲るニッカを、シラハはそっと包み込む。
泣きじゃくる娘を宥める祖母のように。
シラハにとってニッカは、オルキオから離れてでも慰めてやりたいくらいに大切なのだろう。
それは結構すごいことだぞ。誇っていいぞ、ニッカ。
「ヤシロ君」
「ん? ……あぁ、そうだな」
オルキオが馬上で俺に目配せをする。
少し離れようか、って合図だ。
今は、二人きりにしてやった方がいい。
オルキオの白馬の隣に並び、シラハたちから距離を取る。
穏やかな顔をして、オルキオは誰に言うでもなく呟いた。
「よかった。彼女の時間が幸せに満ちていて」
離れ離れだった時間、シラハが幸せに暮らしていたことへの安堵。
それをまた、自分にとっての幸せだと思える。老齢の二人の想いは、すっかりと熟成されているようだ。
離れていても、こいつらの心はずっと一緒にいたのかもしれない。片時も忘れることはなかったのだろうな。
「あの、オルキオさん」
微かに、目尻を赤く染めたジネットがゆっくりと近付いてくる。
少し残る涙の痕は、一体何に起因するものなのか。
赤い目をしているから、今のジネットの表情はとても儚げに見えた。
そんな不安げな表情で、ジネットはオルキオに尋ねる。
きっと、ずっと聞きたかった事柄を。
「オルキオさんは、シラハさんと会えないでいたその時間………………幸せでしたか?」
オルキオがシラハに会えなかった時間。
それは、ジネットが知るオルキオの時間のすべてでもある。
その時間を、オルキオは何を思って過ごしていたのか……
「もちろん、寂しかった。……苦しかったし、つらかった。……もともとね、私は一人が苦手なんだ。幼い時から、そばにはいつもシラぴょんがいたからね」
きゅっ……と、ジネットの手が結ばれる。
胸を押さえるように、祈りにも似た格好でじっと身を固くする。
「孤独がつらくて、独りが怖くて、私は逃げ出したんだよ。ひたすら逃げて、逃げて……逃げた先に、陽だまり亭があった」
心を闇に覆われた者は、得てして闇へと歩を進めがちになる。
繁華街を避け路地裏へ、人の温もりを避け誰もいない場所を目指してしまう。
けれど、人間は弱い。
発作的に逃げ出しても、いつか逃げることに疲れてしまう。
疲れ果て動けなくなると、今度は怖くなる。
孤独にのみ込まれそうな恐怖に取り憑かれ……そいつからは逃げ出せない。独りでは、絶対に。
そんな時に、明かりが見えると――
「夕闇の迫る、誰もいない寂しい場所で、そこだけ火が灯ったように明るくて…………私は迷わず駆け込んだ」
――救われた気持ちになる。
「今でも覚えているよ。あの軋むドアの音も、店内に立ち込めるコーヒーの香りも……落ち着いた、陽だまりの祖父さんのあの声も……」
「…………っ」
微かに、ジネットが鼻を鳴らした。
こいつも覚えているのだろう。祖父さんの声や笑顔や、頭を撫でる手の感触を。
「決して出しゃばらず、けれどいつもそこにいて、いつだって迎え入れてくれる。……陽だまり亭がなければ、私はきっと、ダメだったろうね……」
オルキオの頬に刻まれた深いシワがくの字に曲がる。
その気持ちは……少しだけ共感できるな、俺も。
「……彼は、私の唯一にして無二の親友だった。ゼルマルたちも、いい連中だが、彼は特別だ」
「…………はい」
他人から聞く祖父さんの話に、ジネットが涙を浮かべる。
けれど、口元には笑みを湛え、まるで絵本の結末を知った直後の少女のように満足げな表情をしている。
「だからね、ジネットちゃん…………私は、ちゃんと、幸せだったよ」
「……はい。…………ありがとうございます」
祖父を大切に思ってくれて――
そんな言葉が続きそうなお礼の言葉だった。
「はは……なんだか、気恥ずかしいね」
「はい……ふふ、そうですね」
顔を見合わせて、揃って照れ笑いを浮かべる。
オルキオは口髭を撫でてから、馬を前進させた。
少し一人になりたいのだろう。誰もいない場所へと向かう。
ジネットは俺の前に立ち、オルキオの背中を視線で追う。こちらに背中を向ける格好になり、そのまましばらく黙っていた。
オルキオの記憶の中に感じた祖父さんの面影と、会話でもしているのかもしれないな。
「ヤシロさん……」
背中を向けたまま、ジネットが俺を呼ぶ。
「ん?」
短い返事。
それ以上言葉を重ねるのは、野暮な気がした。
「わたし、陽だまり亭が好きです」
「ん……」
おっぱいの大きな店員がいるからな、なんて冗談は、今は言わない。
「早く帰りたいです。陽だまり亭に。もう、随分長く帰っていない気がします」
「そうだな」
俺も、そろそろ帰りてぇや。
「マグダが首を長くして待ってるぞ」
「そうですね。マグダさんは……ふふ……少し、甘えん坊さんですからね」
「少し、か?」
「うふふ……では、もう少し追加で」
少しともう少しで、割と、くらいか。
それでも激甘な評価だな。
「ヤシロさんは……」
声音が変わる。
微かな緊張……微かな不安……
「……幸せ、ですか?」
こちらを向かないジネット。
けれど、ジネットの耳は真っ赤に染まり、ジネットの心を如実に表している。
答えてやるのは簡単だ……だが。
「聞きたいか?」
言わない方がいい場合も、ある。
「…………いえ」
長い髪を揺らして、ジネットが振り返る。
「やっぱり、いいです」
真っ赤に染まり、困ったような照れ笑いを浮かべるジネットの顔は、どこかほっとするような優しさに満ちていた。
これが、今の陽だまり亭を象徴する顔だ。
祖父さん見てるか?
喜べよ。
陽だまり亭は、無事ジネットに引き継がれてるぞ。
「俺も、陽だまり亭が好きだぞ」
「へ…………本当、ですか?」
「あぁ」
夜明けの光が差し込むように、ジネットの顔に眩い笑みが広がっていく。
半歩にも満たない小さな歩幅で、ジネットが少しずつこちらににじり寄ってくる。
前進というより、我慢できずに体が前のめりになっている感じで。
「う、嬉しいです。ヤシロさんがそう言ってくださって、すごく嬉しいですっ!」
そういえば、好きだと明言したことはなかったか…………
ふむ。
空気で察していても、やはり言葉にされると嬉しいことってのはあるもんなんだな。
「落ち着くし、飯は美味いし……」
どんどん近付き、ついには俺の目の前にまで急接近してきたジネットに向かって、はっきりと言ってやる。
「おっぱいの大きな店員がいるからな」
「むぅっ! 懺悔してください」
ぽかりと、鼻の頭を殴られた。全然痛くない、そよ風のようなパンチで。
けれど、直後にジネットはおかしそうに笑った。
そうそう、それそれ。
その笑顔があるから、好きなんだよな――陽だまり亭。
ま、口が裂けても言わないけどな。
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