「おやすみなさいです! お兄ちゃん、店長さん」
「……明日は寄付前に帰る」
「おう」
「おやすみなさい」
エステラたちとは四十二区に入ってすぐ、領主の館の前で別れ、他の連中とは陽だまり亭の前で別れる。
マグダたちはこのあとデリアの家へ向かうのだ。団体で。
あぁ、一部訂正。
レジーナは四十二区に着くなりさっさと帰ってったよ。
「ヤーくん、ジネット姉様、おやすみなさい。今度はジネット姉様もお泊まりにいらしてくださいね」
「はい。近いうちに」
「騒がしいとは思うが、なるべく早く寝ろよ」
「それは難しいかもしれません」
カンパニュラが口の両サイドに手のひらを添えたので、俺とジネットは腰を曲げてカンパニュラの口に耳を近付ける。
「明日から正式な従業員として働けるのだと思うと、ドキドキしてとても眠れそうにありません」
そんな告白に、ジネットが「くすっ」と笑う。
「あまりに睡眠時間が少なかった場合は、お昼寝の時間を設けないといけませんね」
「えっ、それはダメです! 折角従業員になれたのですから、フルタイムで働きたいです! 今晩はちゃんと寝ますから、お昼寝はご容赦ください」
「うわぁ……正式雇用初日から、もうすっかりジネット化してるぅ……」
早い、早いよ、社畜化するのが。
給料が出る上に昼寝の時間があるなんて最高じゃねぇか。
「じゃあ、俺が代わりに昼寝しようかな」
「はい。では、その権利はヤーくんに差し上げます」
「ヤシロさん。お昼寝しても構いませんよ」
「いや、しねぇけどな」
大体、眠れねぇっつの。
六十くらいになると、毎晩の睡眠が浅くて昼寝が必須になるって聞いたことあるけど、まだそこまで老けちゃいないしな。
「眠れないようなら、子守唄を歌ってあげましょうか?」
からかうように、ジネットが言う。
いや、からかってるのか。
「あのジネットのオリジナルソングか?」
「いえ、教会で教わった、みんな知ってる歌ですよ」
「ベルティーナでさえ曲名を当てられないのに?」
「それはっ……ちょっと、下手なだけですもん」
不思議なんだよなぁ。
ジネットは決して音痴ではない。
楽曲として聞いた時に音が飛んでいたりよれていたり外れていたりするわけではない。
「そういう曲ですよ」と言われれば「なるほどな」と納得できるメロディーなのだ。
ただ、原曲とは似ても似つかないだけで。
……ホント、どういう脳みそをしてるんだろうな、こいつは。
「カンパニュラ~、そろそろ行くぞ~」
「あっ、はい!」
こちらで話し込んだせいで、デリアたちを待たせてしまった。
このあと、みんなで大衆浴場に行くんだから、あんまりもたもたしてられないよな。
「ヤシロたちも一緒に行くか?」
「女湯にか? しょ~がねぇ~なぁ~」
「ダメですよ、ヤシロさん」
「でも折角のお誘いだし!」
「ヤシロさんはお家のお風呂に入ってください!」
「――ってことらしいから、やめとくわ」
どっちにせよ、大衆浴場に行ったって、俺は一人で入ることになるしな。
……いや、一人ならまだいいが、面倒くさいヤツと出くわしたら目も当てられない。
誰が入ってるか分かったもんじゃないからな。
ゼルマルにでも出くわしたら、またやかましいし。
「ジネットは行ってきてもいいぞ」
「いえ、わたしもウチで入ります。一人で準備するのは大変でしょうし、お湯や薪ももったいないですし」
一人のために浴槽いっぱいの水を沸かすのは、確かにちょっともったいない。
実際、ジネットが大衆浴場へ行くなら、俺は風呂を諦めただろう。
そこまでして入りたいわけじゃないし、適当に体を拭いて汗を拭えればそれでいい。
「じゃあ、一緒に――」
「わたしは、ヤシロさんのあとで入りますね」
ちぇ~。
「カタクチイワシ。明日の朝はさっぱりとした物が食べたい。用意しておけ」
「ジネットに言え」
「貴様は料理の一つも出来んのか?」
「散々料理して見せたろうが! お前の前で何杯ラーメンを作ったか!」
「甘えている、ルシア様は。食べたいという意味、友達のヤシロの手料理を。とても気に入っている、ルシア様は、友達のヤシロの手料理を、美味しいので」
「ギルベルタはいつもそのような勘違いをしているようだが、まぁ、そーゆーことにしておいてやってもいいから、用意しておくのだぞ」
……いや、ルシア。
それは否定になってねぇよ。
「じゃあ、あっさりとした豚骨ラーメンを」
「どこをどうすればあっさりするのだ、アレが!?」
魚介類に慣れ親しんだルシアの口には、少々くどく重く感じたようだ。
「もしかして、連日ラーメンを食い過ぎて胃が重い感じか?」
「うむ……言われてみればそうだな。少々胸がむかむかすることがある」
「胸がスカスカ?」
「それはエステラだ!」
「誤差、ルシア様と微笑みの領主様の差は」
「そんなことはないぞ、ギルベルタ!? 私はコインを載せられるが、エステラは無理だ!」
また、うまいこと自分が勝てる勝負を見つけてきたもんだな。
「ジネットとノーマなら、下乳にお箸を何本挟めるかの勝負になるだろうがな」
「しないさよ、そんな無意味な勝負は」
「そんなに何本も挟まるのか、ノーマたん!?」
「食いつくんじゃないさね……ヤシロが嬉しそうな顔してんじゃないかさ」
ジネットが本気を出せば、陽だまり亭で一日に使用するだけのお箸をすべて収納できるはずだ!
そこから出てきたお箸でご飯を食べたい!
おかずなんて必要ない!
お箸がおかずだ!
「ジネット、白米を――」
「懺悔してください」
むー。
「ほんじゃ、アタシらは行くさね。アタシも、明日の朝は食べに来るから、あっさりしたヤツを頼むさよ」
ノーマもか。
あっさりったってなぁ……
「ワタクシはなんでも構いませんわ!」
うん。
貴族のご令嬢が一番無頓着なのってどうなんだろうな。
属性としては、一番食にうるさそうなのに。
なんでも食べるえらい子だよ、イメルダは。
「おやすみ~」と、一同を見送る。
「カンパニュラ、寝る時ハンドクリーム塗ってやるよ」なんて話をしながら、嬉しそうに帰っていくデリア。
本当に嬉しいんだろうな、自分の家に誰かがいるって状況が。
ジネットだって、近所に人が増えればきっと嬉しいと感じるだろう。
遠ざかる賑やかな団体の背を見つめ、そんなことを思った。
「この辺も、すぐに賑やかになる」
「そうですね。こんな風に、家の前でお友達を見送るなんて、ヤシロさんに出会う前はほとんどありませんでしたから」
そのころなら、ベルティーナやエステラを見送っていたくらいか。
「明日の約束がてんこ盛りだな」
「はい。これで、今夜寝る時も寂しくないですね」
寝て起きれば、また連中がやって来る。
寂しがっているヒマなんてないだろう。
「さて。じゃあ、風呂の用意でもするか」
「その前に何か召し上がりませんか? ……実は、外で食事をすると、すぐにお腹いっぱいになるんですが、家に帰ると少し小腹が空くというか、この辺が物足りない感じがするんです」
と、胸のちょっと下付近を押さえるジネット。
まぁ、分かる。
居酒屋で散々飲み食いしても、家に帰ると小腹が空いてお茶漬けを食いたくなることは多々ある。
「じゃあ、残り物チャーハンかあり合わせ茶漬けでもするか」
「なんですか、その心ときめくお料理は。食べてみたいです!」
「味はお前の腕次第だけどな」
「はい、頑張ります」
言って、陽だまり亭の鍵を開ける。
「そういえば、オルキオたち、いないんだな」
陽だまり亭の前に建つ一軒家は、明かりもついておらず、とても静かだった。
「今日はゼルマルさんのお宅へお泊まりだとおっしゃっていましたよ。わたしたちがお出かけすると知って、そのように決めたのだそうです。夕飯、作れませんでしたから」
「そうか」
オルキオがいるなら、一緒に飯でもどうかと誘おうと思ったのだが、いないなら別にいい。
「じゃ、二人前だな」
「はい。二人分ですね」
ドアを開けて、陽だまり亭へ入る。
とても馴染みのある陽だまり亭の香りがしてほっとする。
と、同時に、真っ暗なフロアに居心地の悪さも感じた。
「暗いな」
「誰もいませんからね」
いつもなら、ジネットがいて、明るいフロアで出迎えてくれる。
だが、今日は全員で出かけていたので、明かりがついていない。
まぁ、当然だ。
この家には、誰もいないのだから。
今ここにいる、俺とジネット以外、誰も。
…………ん?
あれ…………?
もしかして…………
今夜、二人っきり、か?
そんなことがふと脳裏をよぎり、その途端に心臓がハードコアなヘビーメタルバンドのドラムスよろしく16ビートを刻み始めた。
お、落ち着け、俺の心臓!
大丈夫!
何もない!
何もないから!
「ふ……っ!」
なぜか、口が無意識に「二人きりだな」とか口走りそうになり、慌てて言葉を飲み込む。
そんなことを言えば「意識してます」って宣言するようなもんだろうが!
「ふ……フロアの明かりを、つけよう、か」
誤魔化した!
なんとか誤魔化した!
少々、動きがギクシャクしてしまうが、暗いので見えてはいないだろう。
フロアへ踏み込み、ランタンに火を灯す。
室内がぼんやりと明るくなり、これでいろいろ見えるようになる。
振り返ると、ジネットが立っていて、俺がそちらへ向くのと同時に顔を逸らされた。
……逸らされたなぁ。
「あのっ、えっと……おりょっ、お料理を、してきますね! ふりゅっ、ふ…………ふたりびゅん!」
素っ頓狂な声を出して、ゼンマイ仕掛けのオモチャに「大丈夫? 動き硬いよ?」と心配されそうなギクシャクした動きでジネットが厨房へ向かい、カウンターの段差にけっ躓いて転んだ。
「はぅっ!?」
あぁ……もう……
めっちゃ意識されてるっ!
そっか、こいつと二人きりで一晩か…………
つい最近まで人がいっぱいいたからうっかりしてたわー!
とりあえず、ジネットを助け起こし、この静かな夜をどう過ごしたもんかと、頭をフル回転させた。
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