「……どないする?」
ふらりと立ち上がり、レジーナがゆっくりと近付いてくる。
俺の横を通り過ぎ、背後へと回る。
そして、そっと……俺の肩に手を載せた。
「もし……一人で行くんが寂しいんやったら…………ウチがついてったってもえぇで」
鼓膜を震わせるその声は、甘い蜜のように俺の背筋を痺れさせて…………脳みそをピリッと刺激した。
はは……一瞬とはいえ……レジーナをいい女だなんて思わされる日が来るなんてな。
こいつといると、きっと楽なんだろうな。
察しがよくて、けれど何も聞いてこない。
そして、自分のことは何も話さない。
今、目の前にある物だけを見て、その日、その一日を楽しく生きていける。
こいつがいれば……きっと寂しいなんて感情は、湧いてこない…………けど。
「……考えとく」
「ん…………そっか」
肩に載っていた手が離れ、そして軽く頭をはたかれた。
「アホやな。せっかくのチャンスを無駄にしてからに」と、そう言われた気がした。
カウンターへと戻っていくレジーナ。
その背中を見つめながら、「逃げ出すのも一つの手だ」と言ったこいつの心を想像してみる。
こいつはまだ、自分の行いを自分自身で許せていないのかもしれない。
故郷を捨てたことを。
もしかしたら、今こうして室内で燻っていることにも……
レジーナの真意を知る術はない。その権利もない。
けれど、レジーナの気持ちを慮ってやることくらいは、きっと俺にも出来るはずだ。
「レジーナ」
「ん? 帰るか?」
「……あぁ。そうだな」
今のは、「もう帰った方がえぇんちゃうか?」という気遣いだろう。
俺に気を遣わせないための気遣い。大した女だよ、お前は。
「お茶、サンキュな。すげぇ苦かった」
「ほっぺた落ちまくったやろ? 『ぽろーん』『ころんころんころ~ん!』や」
「すげぇ転がってんな、俺のほっぺた……」
おむすびころりんかよ。
カップをカウンターに置き、出口へと向かう。
自然な動きでレジーナが俺についてくる。見送ってくれるのだろう。
ドアを開け、外に出る……前に、俺は振り返る。
「レジーナ。ありがとうな」
顔を見て、誠意を込めて礼を言う。
するとレジーナは、少し驚いたように目を大きく開いて、その後困り顔で吹き出し、意地の悪い笑みを浮かべる。
「なんやのん、改まって。気持ち悪いなぁ……お茶くらいで大袈裟やで」
「いや、お茶じゃなくてな」
「愚痴くらいいくらでも聞いたるわな。そんなもん、いちいち礼なんかいらんよ。水臭いなぁ」
「愚痴のことでもなくてさ」
「ほなら、なんやのんな?」
少し照れも混ざっているのだろう。レジーナはからかうような笑みを浮かべて、軽い口調で捲し立てるようにしゃべっている。
ジッと見つめていると、色の濃いブラウンの瞳が微かに震えていた。どうしたものかと戸惑っているようでもあり……いつもと違う雰囲気に少し怯えているようでもあった。
そんな、澄み切った瞳を見つめて――最初で最後になるかもしれないが――心からの素直な気持ちを、こいつに告げておく。
「お前に出会えてよかった。ここにいてくれてありがとうな」
レジーナの瞳が大きく揺らめき、そして、潤み始める。
「え…………っ」
顔から笑みが消え、真顔になって、目尻に大きなしずくが溜まって膨らんでいく。
「あ…………!」
慌てて反転し、こちらに背中を見せて、袖で顔をグイッと拭う。二度、三度と、何度も顔を拭う。
「な…………なんやねんな、いきなりっ…………ホ、ホンマ……っ……かなんなぁ、もう……!」
途中、何度か声が震えて、詰まる。
「ウ、ウチは、ここが気に入っとんねん。別に、誰に何を言われんでも、ここにおんねん。ホ、ホコリちゃんも、ほら、おるしな、ウチ、ここにおらなアカンねん……」
小刻みに肩を震わせ、少し上を向き、心臓を落ち着かせようと何度も荒い呼吸を繰り返す。
それでも、発する声だけはいつも通り、ひょうきんで明るく、軽い口調だった。
「ホンマくやしいわぁ。こんなしょーもないイタズラに引っかけられて……あぁ、もう、仕返ししたろかなぁ~! せや、メッチャおもろい顔して笑い転がしたろ!」
言いながら、両手で顔を覆い隠す。指先が、忙しなく何度も目尻を拭っている。
「この顔見たら、自分、お腹よじれて苦し~なるからな! 逃げるんやったら今のうちやで!」
泣き顔を見られたくないから、さっさと帰れ……ということらしい。
「じゃ、尻尾を巻いて逃げるとするか。カッコ悪い負け犬にも生きる権利くらいはあるみたいだしな」
「あぁ、せやせや。せやから、早よ逃げぇ」
少しの間、レジーナの後頭部を見つめて、俺は店を出る。
「あぁ、せや」
何かを思い出したかのような声に、俺は立ち止まり、振り返る。
「まぁ、自分もいろいろ思うところはあるやろうから、返事はせんでもえぇんやけどな」
後ろ手に、ドアノブを掴み、ゆっくりとドアを閉める。
その間も、レジーナは一切こちらに顔を向けない。
向けないままで、最後にこんな言葉を俺に投げかけた。
「また来ぃや」
ぱたりと、ドアが閉じられる。
それからしばらく、店の前に立ち尽くしてしまった。
まるで留守かと思うほど、店の中からは物音ひとつ聞こえてこなかった。
また来い……か。
「まぁ、とりあえずは…………保留で」
誰にも聞こえない独り言を呟いて、俺は陽だまり亭へと戻ることにした。
……あ、香辛料………………ま、いっか。
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