「あの、ヤシロさん。……大丈夫ですか?」
俺のおねだりスマイルを見て唯一体を震わせなかったジネットが、不安げな表情で俺の顔を覗き込む。
腰にエステラが縋りついているせいで、なんとなく滑稽な雰囲気ではあるんだが。
顔は真剣だ。
「大丈夫だ。無理はしていない」
「そう……ですか」
いまいち納得していない雰囲気のジネット。
「むしろ、このトゲトゲした心をまろやかにしてこようかと思っているところだ」
エステラですら気付いていたのなら、ずっと同じ空間にいたジネットも気付いているだろう。
おそらく、マグダやロレッタも。
今回はちょっとばかり頭にきたからなぁ。
久しぶりかもなぁ、こんなに腹が立ったのは。
ジネットたち経営者を苦しめ、モーマットたち生産者から搾取し、飄々と綺麗ごとを並べ立てておのれの利益ばかりを追求していたアッスントに対しても、ここまでは怒ってなかった。
虫混入事件でパウラを泣かせたゴロツキどもにも、エステラに嫌がらせのような対応ばかり取っていたリカルドにも、そんなリカルドをかばって一方的な視点でエステラを非難したメドラにも、ここまでは腹が立たなかった。
こんなに濁った感情を抱いたのは、日本にいた頃が最後だったかもしれない。
「ジネット。今日はご馳走を用意しておいてくれるか?」
もし、あのバカを目の前にしたら――
「そうすりゃ、それを楽しみに帰ってくるから」
――俺は取り返しのつかない行動を起こしてしまうかもしれない。
そうなれば、俺はここへ戻ってくる勇気をなくしてしまうかもしれない。
そうならないために、保険をかけさせてもらう。
今さら、こいつらが悲しむようなことを率先してやるつもりはない。
自分が無価値だなんて、無責任に周りから目を逸らして放言することも出来ない。
こいつらは、俺がいなくなったら悲しむ。
それくらい、もう嫌ってほど分かっている。
「そうだな。エビフライかカレーかハンバーグがいいな。あぁ、でも鶏のから揚げも捨てがたい。ゴリは難しそうだから……まぁ、適当に頼む」
ガキの頃。
後ろめたいことがあって家に帰りにくい俺の鼻に、女将さんの作る美味そうな夕飯の匂いが届いた。
その匂いに釣られて家に帰れば、女将さんはにっこり笑って「おかえり」って迎え入れてくれた。
それで、すごく安心したんだ。
「あぁ、俺はここにいていいんだ」って。
「分かりました。腕によりをかけてご馳走を作っておきますね」
にこりと笑って、ジネットが快諾してくれる。
その笑顔に、不安な影はもうない。
すぐに出かけてもよかったのだが、ひっつきエステラもまだ飯を食っていないし、そもそもそんなにいそいそ会いに行きたい相手でもない。
俺はジネットの仕込みを手伝い、教会への寄付へ赴き、開店準備をして、大工の群れが『セキョム入ってる君』に盛大に引っ掛かったのを指差して笑った後、エステラと一緒に陽だまり亭を出発した。
目指すは、四十二区のはずれにある監獄。
監獄へ来ると、訓練場に白線でトラックが描かれていた。
……次の区民運動会に向けて練習してやがるな、東の連中。
「いつまで浮かれてんだよ?」
「違うよ。体力作りのために走らせているんだよ。一周の距離が分かると自分がどれだけ走ったか分かりやすいだろう?」
「逆に、命令する方も『トラック何周』って言いやすいもんな」
「まぁね」
まだ微かに硬いながらも、エステラは笑みを浮かべる。
「ところで、さ……それ、なに?」
俺が小脇に抱えている直方体の物体を指さしてエステラが言う。
「これはゴミ箱だ」
「いや、うん。それはそうなんだろうけど……なんで?」
「使うからだよ」
とっても美味しい焼き鳥も持参したしな。
焼き鳥を食うとゴミが出るだろ?
ゴミが出たならゴミを処理しなければいけない。
ガキでも知っていることだ。
ゴミはゴミ箱へ。
「ねぇ、ヤシロ」
運動場を突っ切り、建物へと近付く。
その途中でエステラが俺の名を呼ぶ。
声は固く、戸惑いが感じられる。
「正直ね、ボクはどうすべきなんだろうって、まだ迷っているんだよ」
視線を向けることなく、互いにまっすぐ前を向いたまま歩く。
「君をあの男に会わせるのは、不安だよ」
「なら、俺から権利を取り上げればいい。お前にはそれが出来るんだから」
「でもね」
エステラが立ち止まる。
俺も歩みを止めて、でも振り返らずにエステラの言葉を待つ。
「……領主であることを度外視すれば…………ボクは、あの男が許せないんだ。私怨でその身を八つ裂きにしてやりたいとすら思ってしまう。……けど、それは出来ないから」
エステラなら、誰かを苦しめるような罰を与えることは出来ないだろう。
過去の事例と照らし合わせ、相応の範囲を越えない罰を凡例通りに科して終わりだ。
法に則るのであればそれでいいのだろうが……
この燻ぶった感情を抱いたまま、それを「もう済んだことだ」と言えるようになるのは、きっと何十年も先のことになるだろう。
エステラはそれを恐れている。
自分の中に、憎悪を抱えて生き続けることを。
とはいえ、憎しみのままに加害者を害すればこいつの心は壊れてしまうだろう。
どんな理由があるにせよ、他人を傷付けたという事実はこの優し過ぎる少女の心に消えない傷跡を残してしまう。
「きっと、ヤシロに権利を与えるのは間違っているんだと思う。領主でもない、特別な権限を持たない君に裁量を与えることは」
ただの一般人に、それも私怨たっぷりの危険人物に加害者を裁かせるなんて愚の骨頂。愚かなんて言葉では足りないくらいに考えなしな判断だ。
「でも、誤解しないでほしいんだけどね……」
エステラが駆け出し、俺の前へと回り込んでまっすぐに見つめてくる。
赤い、澄んだ瞳が俺を見つめる。
「ボクが心配しているのはあの男の行く末なんかじゃなく、君のことなんだよ」
鉄と鉄をぶつけるように、誰かを傷付ける時には自分自身も同じように傷付くものだ。
「もしかしたら、ボクは自分では晴らせない私怨を、君を利用して解消しようとしている卑怯者なのかもしれない」
自分の中にあるいやらしさを否定しない。
まぁ、そういう一面もあるだろう、人間だもの。
「あのバカはきちんと四十二区の法に則って裁かれる。その前に、ほんのちょこっと俺が面会して憂さを晴らすだけだ。怖いなら上の待合室でハーブティでも飲んで待ってろよ。割とすぐ済むと思うからよ」
こちらを見つめる赤い瞳に語りかける。
なんもかんもを背負い込む必要はない。
自分のあずかり知らないところで危険人物が何かをやったらしい。
お前の認識はそのくらいでいいんだ。
だが、エステラは首を振る。
「行動を起こすのが君であろうと、責任を取るのはボクの役目だよ。これだけは、何があろうと譲らない。もう、君を一人にはさせない」
すべての悪意を背負い込んで消えようとした俺は、まだまだ信用してもらえないらしい。
このお人好しどもには。
しかし、そうだな。
確認くらいはしておいてもいいかもしれない。
俺も、少々臆病になっているようだ。
「もし俺が、お前の目の前で人を殺したら、お前は俺を非難するか?」
そんな問いに、エステラは場違いなほど柔らかい笑みを浮かべて、小さく笑った。
「君がそうせざるを得ないほどの状況に追いやられていたのなら、その前に手を打てなかった自分を責めるよ。君を責めるのはお門違いだ」
「ただの私怨で、意味も必要もなく、遊び半分で虐殺していたとしたら?」
「君をそこまで追い込んだ理由を探し出す。非難するのはそれを見極めてからだね」
「だから、ただの私怨だ。もしくは気まぐれとか」
「君はそんなことはしない」
断言するエステラ。
そして、さらに笑みを深めて俺の胸に拳をぶつける。
「そう信じさせてくれるのが、ボクの知るオオバヤシロという男さ」
それはまた、随分と信頼されているもんだ。
勘違いかもしれないってのに、疑う余地もないみたいな顔しやがって。
「じゃあもし、俺が通りすがりの美少女のおっぱいを揉みしだいていたら?」
「牢屋にぶち込む」
「俺はそんなことしないって信頼は!?」
「そう信頼させてくれないのが、ボクの知るオオバヤシロという男だからね!」
なんてヤツだ!?
これぽっちも信頼してやがらない!
「でも……」
冗談を言い合った後、静かな笑みを湛えエステラが言う。
「もし君が誰かを殺めたなら……ボクは君のそばにいてその手を包み込んであげるよ。もう二度と、そんなことに君の手を使わなくて済むように」
エステラが優しい声でそう言うから――
「……おっぱいでか?」
「刺すよ?」
「えっ、おっぱいで!?」
「何で刺すか実物見たい? この前新作を買ったんだよね」
「分かったからナイフはしまえ」
――うっかり胸が熱くなってしまいそうになったので、冗談で誤魔化した。
それはそうと、なんでそんなごてごてした物騒なナイフ買ったんだ?
どこで使うつもりなんだよ、お前は……
微笑みの領主の笑みが猟奇的なものに変化するのも時間の問題かもしれないなぁ、こりゃ。
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