今日もいつもと同じように、ランチタイムは猫の手も借りたいほどに忙しく、それからティータイムにもう一波ピークが訪れて、それが過ぎると少し落ち着きを取り戻す。
この時間はムム婆さんやゼルマルのジジイたち、かつての常連どもが集まるようになっていて、忙しくはないものの決して暇ではなくなっていた。
夕方頃になれば、二号店と七号店の屋台部隊が「完売ー!」「おーぉもーぅけー!」と帰ってきて、ジネットに褒められてにへへと笑う。これももはやお決まりになっている。
最近は、マグダやロレッタが手伝いに行かなくても妹たちだけでうまく回しているようだ。計算も覚えて、接客スキルもめきめき上達している。
これなら、屋台を増やすことも可能だろうな。四十区辺りに出店して、チェーン展開するのもいいかもしれない。
こいつらなら、自分たちだけでも立派に経営していけるだろう。
陽が落ちると、仕事を終えたウーマロが顔を見せる。毎日欠かさず、きっちりと同じ時間に。
最近じゃ、ウーマロの顔を見て時刻を知るようになったほどだ。
ここ最近は、モーマットやヤップロック、ノーマやデリアなんかも頻繁にやって来るようになっていた。
馴染みの顔が集まり、飯を食いながら益体もないバカ話を「あーでもない」「こーでもない」ととりとめもなく繰り広げ、くだらないことで笑い合う。
最近はもっぱら街門の話題で持ち切りだ。
「式典ではどんなことをするんだ」とか、「またドレスを着てみたい」とか、「アイドルマイスターのステージをもう一度!」とか、「うるさいさね! 黙りな、ベッコ!」とか……
満腹になった連中はいつもこう言ってその日を締めくくる。
「あぁ、今日もいい一日だった」と――
馴染みの顔がみんな帰り、陽だまり亭の営業時間が終了する。
今日も、平和な一日だった。
トラブルなんか……起こりゃしなかった…………
閉店後の陽だまり亭。
誰もいなくなった薄暗い食堂で、俺はいつもの最奥の席に座り、頬杖をつき、何を見るでもなく視線を宙にさまよわせていた。
街門と街道の開通式典は、明日だ。
俺が言い出して動き始めた一大プロジェクトが、完全、完璧に完了……終了するのだ。
式典が終われば……四十二区に対する責任から解放される。
俺がここに留まる理由は…………なくなる。
トラブルもなければ、深刻な問題もない。
ジネットの夢だった『あの頃の陽だまり亭』も戻ってきた。人が集まる、楽しい空間にしたいという願いも叶った。
俺がいなくても、この店はちゃんとやっていけるという確証も得た。
かつてジネットは「一人でお店をやるのは大変だ」と言っていたが、今はもう一人じゃない。
マグダやロレッタだけじゃなく、頼れる仲間は、本当にたくさんいる。
俺にしたってそうだ。
この街のこともおおよそ理解した。
貯えもそれなりに出来た。
生活の基盤なんか、とっくの昔に整ってやがった。
あと残ってるのは……
俺はポケットの中の20Rbを握りしめる。
そう……あと残っているのは、この20Rbだけだ。
食い逃げをして、ジネットに『必ず払う』と約束をした、最初に食べたあのクズ野菜定食の代金。20Rb――
今、俺がここにいる理由は、このたった20Rb――陽だまり亭で一番安いメニューの代金――それだけなのだ。
こんなもんに、いつまでも縋ってるわけには…………
その時、真横からふと視線を感じた。
反射的に顔を向けると、ほっぺたをパンパンに膨らませた、ちょっと間抜けで愛嬌のあるロレッタの顔が目前に迫ってきた。
「どうです!? お兄ちゃん!」
ロレッタがまゆ毛をキリッと持ち上げて問いかけてくる。
その口調は、頬袋に詰め込んだものを零さないようにしているためか、相撲取りを真似する時のようなややこもり気味なおかしな感じになっていた。
それだけで普段なら爆笑間違いなしなのだが……この時の俺は、ロレッタがなぜこんな行動に出たのか予測がつかず、ただポカンとその顔を見つめるしか出来なかった。
「どう…………です?」
こてん、と、首を傾げて俺の顔を覗き込んでくる。
「どう…………………………」
大きな瞳が、俺を見つめる。
「…………………………………………ぐすっ」
ぐすっ?
「ぅ……………………ぅぇえええええええええええんっ!」
「ロ、ロレッタ!?」
ロレッタが突然泣き出した。
大きく口を開けて、子供のように泣きじゃくる。号泣だ。
その勢いで口の中からもろもろとリンゴが溢れ出してくる。
パンパンだった頬袋がすっかりしぼんで、いつものほっそりとした顔になってもなお、ロレッタが大声を上げて泣き続けている。
「おい……ロレッタ…………お前、どうし……」
「ごべんなざいでずぅぅううう……」
ごめんなさい?
なんだ?
なんで謝るんだ?
「あ、あた……あたし…………普通だから…………特別なこととか……何も出来なくて…………お兄ちゃ…………お兄ちゃんのこと……全然、なにも……力に…………なれ……なくてっ…………普通……だから…………こんなことくらいしか……………………盛り上げることが……あたしの…………いいところって……お兄ちゃん、言って……くれたですのに…………それも……出来な……………………笑ってもらうことも…………出来なくて…………っ!」
「ばっ……バカ、お前……っ!」
俺は咄嗟に立ち上がり、顔をぐしゃぐしゃに歪めて泣いているロレッタを抱きしめた。
しかし、ロレッタの涙は止まらない。
「あたし…………っ……何も出来……なくて………………っ! お兄…………お兄ちゃ………………の、こと…………好………………なのに…………あたし…………一緒に………………い…………ごめん…………なさい……です…………っ……!」
俺の腕の中で、ロレッタは肩を震わせ嗚咽を漏らす。
それなのに俺は……一体何をやっているんだ。
ロレッタに、こんな無理をさせて…………こいつに、こんなことまで言わせて……
ただ抱きしめるだけで、なんの言葉もかけてやることが出来ないなんて……
「……ヤシロ」
音もなく近くまでやって来たマグダが俺の名を呼ぶ。
深海を思わせるような静かで深みのある瞳がそこにあった。
「……ロレッタのことは任せて。今日は、マグダが送っていって……一晩中そばにいる」
「……そうか」
マグダにまで、気を遣われて…………いや、違うな。
ずっと以前から、俺は気を遣われ続けていたんだ。
それをいいことに、俺は…………こいつらの優しさを利用していた。
「……おいで、ロレッタ」
「……マ……グダっちょ…………」
マグダが両腕を広げて呼びかけると、ロレッタは俺の腕をするりと抜けて、マグダの胸に飛び込んでいった。
そんなロレッタを、マグダは力強く抱きしめ、背中を優しくさする。
「……ヤシロ」
ロレッタの体を抱きしめたまま、マグダが顔だけを俺に向ける。
「……マグダは、ヤシロを止めない」
心臓が、跳ねる。
ほんの一瞬、呼吸の仕方を忘れてしまった……
「……マグダに未来をくれたのはヤシロだから。ヤシロの未来を、マグダは否定しない……それが、どんな未来であっても……」
ほんの短い間、瞬きほどもないわずかな時間停止した心臓が、今度は忙しなく暴れ狂う。
喉の奥が…………締めつけられるようだ。
「……行く時は行くと言ってほしい」
こんな時でも、マグダの表情は変わらず……相変わらず陶器のような美しい静けさを湛えていて……だからこそ、切なくなる。
「……二度と会えなくなることを知らないまま、離れ離れになるのは……つらい、から」
その言葉が何を示唆しているのか、それは言うまでもないことだろう。
とても重い一言だ……
俺が返事を出来ずにいると、マグダはそっと目を伏せた。
そして、ロレッタの肩に手をかけて囁きかける。
「……ロレッタ、行こう」
「けど…………」
不安げな表情でロレッタが俺を見る。
目を離すと、俺がいなくなると……そう思っているのだろう。
「……大丈夫」
けれど、マグダがそんなロレッタの不安を掻き消すように、こんなことを言った。
「……ヤシロは、嘘は吐いても…………絶対に、約束は破らない」
まっすぐに俺を見つめる瞳は、俺に向かって『信じているから』と訴えかけてくるようで…………俺は、奥歯を噛みしめた。
「……行こう」
「うん…………」
覚束ない足取りながらも、ロレッタはマグダに支えられるようにして歩き出す。
ドアを開けて外に出る直前、ロレッタは俺に背中を向けたまま、まだ微かに震える声で言った。
「お兄ちゃん。おやすみなさいです。…………また、明日です」
「……ロレッ……」
「……ヤシロ。また、明日」
マグダが、言葉を重ねてくる。
……こんなことで、お前たちの不安は消えるのか?
こんな…………ことくらいで……
「おぅ……また、明日な」
俺が言うと、ロレッタが首だけで振り返り、そして……
「えへへ。だからお兄ちゃん、大好きです」
笑顔を見せてくれた。
マグダはマグダで、静かに腕を上げて、立てた親指を俺に突き出す。
そして、二人揃って外へと出て行き……ドアが閉まる。
…………あぁ。
………………これは、ダメだ。
…………もう、俺には…………決められない。
厨房へ視線を向ける。
今頃は、二階で今日の売り上げを計算している頃だろうか……
「……ジネット」
足を踏み出そうとしたのだが……はは…………ヒザが震えてやがる。
「……っかりしろよ、俺っ」
ヒザを一発殴り、なんとか足を踏み出す。
世界がぐらつく……視界が不安定になる……
カカトを踏ん張ってみても、大地が溶けちまってるみたいに足取りが覚束ない。
こんなに、呼吸が苦しいと思ったのは久しぶりだ…………
まるで、あの日の…………もう、取り返しがつかないのだと悟りながらも、脳みそが全力で現実を否定していた……あの時のようだ……
けれど……ここには…………今の俺には……あいつが…………
カウンターに手をかけ、腕の力で体を前に進める。
動かない足に苛立ちを覚え、同時に叫びたくなるような焦燥感を覚える。
ヒザを睨んでみるも、震えは止まらない。
……くそっ!
カウンターを越えて、厨房へ向かおうとしたところで……
「ヤシロさん?」
厨房から、ジネットが出てきた。
一瞬驚いたような表情を見せ、そして俺の顔をまじまじと見つめ……
「温かいお茶を、お入れしますね」
優しい微笑みを向けてくれた…………
そうだ……こいつは、こういうヤツなのだ…………これで言える。きちんと、話が出来る…………
「ジネット」
お茶を入れるために厨房へ向かおうといていたジネットを呼び止める。
ケリを……つけよう。
「……話がある」
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